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四月の歌

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四月の歌(十三歳の桜)

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十三歳
 
 あどけない顔に桜の花びらが降る。そのあどけなさに「いくつ?」と聞いてみた。「十三歳!」巫女衣装の良く似合う十三歳の女の子。私の中に懐かしいものが溢れてきた。
 私も十三歳のとき巫女をしていた。田舎の神社だった。境内にあった一本の山桜から、やはりほろほろと桜の花びらがこぼれ、私の髪に止まっていた。
 桜色に色んなことが浮んでくる。
「巫女は生理が始まると駄目。巫女は穢れを払い神の補佐をする女性なので、神職の娘や近親者、神社に縁のある心身ともに健康な処女であること」と、宮司の父が言う。意味は分からなかったが祝詞を上げる父の後につき、頭を下げている大人たちに鈴を振る。それは神様に頭を下げているのだが、頭を下げた大人達が私と同じ背丈になるのが誇らしかった。氏子が「巫女の嬢ちゃんに」とお菓子を届けてくれる。高校生の姉には何事も負けていたが、「貰ったお菓子を分けたげる」と、その時は威張っていた。私だけが父を手伝え生活の一部を支えているという気持と、お菓子を無邪気に喜ぶ大人と子供のはざまにいた。十三歳とはそんな年頃なのだろう。子供の着物から本裁ちの着物に帯を結び、十三参りをする。あれも大人と少女の変換期をさすものだ。

 少女の変換期。私は桜の吉野山でいろんな「十三歳」に出会った。

 今年の桜は、三月末には満開を迎えると思われたのに、その後寒波や降雪があり、例年通り四月上旬が見頃となった。開きかけに寒さを取り込んだためか花期を伸ばし、それは桜観の人々を溢れさせた。
 四月十一日、始発(5時40分)で吉野山に向かった。同じ行くなら朝もやに浮かぶ桜を観てみたいと思ったのだ。しかし、京都駅につくとすでに吉野に向かう花見客は多く、近鉄線の特急券は夕方まで完売だった。特急に乗らないと倍の時間がかかる。
吉野駅に着いたときは朝もやどころか、すでに人、人で溢れ、バスもケーブルも何台かを見送らないと乗れなかった。
十時から吉水神社で行われる<拉致被害者全員を日本に帰国させるための祈祷会>に参加し、そこでオカリナを吹くことになっていた。時間に遅れるわけには行かない。意を決して、ケーブル横の登山口に入った。歩くことには慣れている。子供のころ田舎で過ごし、どこへ行くにも歩きだった。一山二山越えることは苦にならず緑の空気が嬉しかった。それが今に続いている。「七曲の坂」を崖伝いに近道とばかりよじ登る。湿った土と菫草が力をくれた。しかし歳を重ね、息はやはり上がる。心臓が飛び出しそうだ。上に着くなり自動販売機の飲料に飛びついた。ほっとする耳に「十時から吉水神社方面は通行止め」とアナウンスしている。下の神社の祭り行列が通るらしい。私はまたも飲料片手に走った、雑踏の肩をすり抜けた。
「一目千本」と言われている吉水神社は、人込みでごったがえしていた。神社の境内から見渡す全山桜色の景色は、一度に山桜を千本観ることが出来るのと、それを一目見ると、百年は命が伸びると言われている。私は子供の頃を思い出し崖を登り、走り、百年近く、いや半世紀は長生き(逆戻り)した気分になった。そんなとき、逆戻り……十三歳の巫女さんに出あったわけだ。
 祈祷会は昼からになった。横田滋さんが雑踏にもまれ、京都から立ちっぱなしでやっと吉野山に着かれたのは、昼過ぎになっていたのだ。お疲れだと思う。桜色より薄い薄い白髪に花びらが乗っている。お年を取られたと思う。が、お疲れにも懸命に笑みを浮べ、いままで何度話されたか分からない拉致状況を語られている。悔しさが滲んでいる。年を重ね、人込みにもまれても吉野山へ駈けてこられる「思い」。桜はただ花の満開をもってそれを迎えることしか出来ないのだろうか。
 私は、今までにテレビや新聞等で拉致問題の事を見聞きしていた。横田滋さんの穏やかな話し振りを何度も目にしていた。
 しかし私はあることに驚いた。満開の桜と人込み中で聞く横田さんの話に、私は一つの事に始めて気がつき唖然としたのだ。めぐみさんが拉致されたのは中学生の時と何度も聞いていた。が、それは聞き流していただけだったのかもしれない。「中学生の時、それは、十三歳だ」。
私はいままで「十三歳」を思った事がなかった。「十三歳」の歳に思いはいかなかった。
 吉水神社で「十三歳」の巫女さんに出会い、自分の十三歳を思い、始めて「『十三歳』の拉致」が重くのしかかった。少女と大人の狭間。そのときにめぐみさんは拉致されたのだ。滋さんには少女のめぐみさんのまま、そしてめぐみさんは大人へ変わっていっている。
 春愁がある。涙が頬を伝う。桜は悲しい。少女のようなピンク色が悲しい。桜が悲しいと始めて思った。
 吉野山を歩いて下りる。陽が沈みかけ空気が紫色だ。朝もやの桜を観ることは出来なかったが夕暮れに浮かぶ桜の群林を始めてみた。登って来る時には敷き詰められていなかった花びらが道を覆っている。人込みで散ったのか。陽気に散ったのか。
もうすぐこの雑踏も終わり、人は桜も忘れまた次の雑踏を目指す。

 
「たのしい一隅」   片山敏彦
白い花びらを顔に受け/散り敷いた白い花びらを/なるべく踏まないやうにしながら/
さくらふぶきの夕影みちを/あるいて行くと道ばたに/小さい女の子が/ひとり静かに立ってゐる。/雪を浴びるやうに/白い花びらを頭から浴びながら/空いろのきものを着て/夕あかりにほほゑんでゐる。/向ふには麦のはたけの緑が見える。/さくらふぶきで不思議に明るい/夕方のこの一隅へ/ひとりの天使が/そつと舞ひ下りて来てゐるのか

 
私は夕影の中に一人の小さい少女をみた。めぐみさんだろうか。
いや「十三歳」が白くたたずんでいるような気がした。


   花の山全山濃淡ピンク色


*現在は巫女という職業が有り、一般募集される巫女もだいたいは未婚女性であるが、現代女性が処女であるか否かは男女雇用均等法により募集条件には出来ず、それを条件とはされない。

四月の歌(さくら)

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ふるさと 桜花のごと 
 
 4月5日の吉野山は下千本が満開、 中千本 は7分咲き、上千本4分咲き、奥千本は蕾といった所だろうか。
 山が花に埋め尽くされるには少し早いものの、吉野駅に降り立つと花見の人々で溢れ、土産物や食事に誘い込む声が賑やかだった。その喧騒の隙間をぬって鶯の鳴き声が漏れてくる。
日本一の桜の名所、吉野山(吉水神社)の「一目千本」に私は向かった。一目で千本の桜を観ることができ「一目十年」(一目みると十年は寿命が伸びる)とも言われる花見のスポツトである。
後醍醐天皇が

 花に寝て よしや吉野の 吉水の 枕の下に 石はしる音
みよしのの 山の山守 こととはん 今いくかありて 花やさきなん

とお詠みになり
 
願はくば 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃

 と桜好きの西行が、こよなく愛した地であり、豊臣秀吉が、五千人の家来を連れて花見の宴を催した場所である。
 穏やかな春の陽光が降り注ぎ、僅かな風に時おり山桜の花弁が舞ってくる。その花びらに背を押されるようにしてケーブルカーに乗った。(以前にも吉水神社には参拝したことがある)http://blogs.yahoo.co.jp/hanahitohira06/31977134.html
 目下に広がる山桜が、芽生え始めた若い緑色の木々に華やかさをそえ、綿菓子のように浮かんでいる。ケーグルカーの揺れが、舞う花びらに合わせるようにして私の心を桜の中に連れて行く。
 ケーブルカーを降り、並ぶ土産物店を目の端に入れながら人込みをかきわけ進んで行く。前回来た時は、バスで観光道路を登り、吉野中千本公園から勝手神社に参拝し、吉水神社に行った。今回は七曲口をケーブルで上がり、蔵王堂を通り吉水神社へ行くコースをとった。
 重要文化財の宝庫でオーラが満ち、その歴史の息づかいに前回の訪問時、身震いを覚えたことが甦えってくる。後醍醐天皇が、義経が静御前が、弁慶が秀吉が鮮やかに息づいていた。歴史の中を風のように、旅人のように私は歩いたのだった。書院に静御前の着ていた衣裳が手にとれるようにあった。静御前の体温が伝わってくるようだった。
静御前が義経、弁慶とときのまを過ごし

 吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
 と歌った『義経千本桜』の舞台であり、その後静御前は追っ手に捕われ舞を強いられ
しづやしづ  しづのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな
 と、義経を恋い慕う歌を詠い頼朝の怒りを受け、出産した男児を殺されるのだ。
なんと理不尽なことだろう。
「同じ女性としてそんな悲しいことは断じて嫌だ」胸がしめつけられそうになる。歴史の中で翻弄される理不尽さに息苦しくなる。
「理不尽だ。理不尽だ」呟きながら、急な坂道を足裏に掴む様にして一歩一歩と歩を進めた。神社近くに来ると青い幟が桜色の中に揺れている。
『拉致被害者を救う会』のシンボルのブルーだ。「横田さんをお迎えして、街頭活動・大祈祷会」が行なわれていた。署名活動が「めぐみちゃん、どうか帰ってきて ! 」の祈りと共に行なわれていた。
 理不尽は今もあるのだ。子供を奪われる悲しさは慟哭だ。(おりしもその日、北朝鮮からミサイルが発射されていた)
 大祈祷会が山桜の下で行なわれている。
「一目千本」の桜はまだ七分咲きだったが、山桜が白拍子の静御前が舞うように、花びらを舞わせている。一陣の風が起こった。天に祈り、地にひざまずき、玉串を上げられる横田滋さんの体を支えるかのように、桜吹雪が包み込んだ。高齢の姿を支えるようにして桜が舞った。横田さんの白髪が目立つ。その白髪に花びらが止まる。切なさが増し涙のように留まっていた。

 オカリナの音(ね)と参列者の合唱する「ふるさと」の歌が流れる。


 兎追しかの山。小鮒釣りしかの川……
 
 山や川がなくなってきたと嘆く人もある。しかし、そうではないと私は思う。横道にそれるが、私の父が書いた略歴に「私は生まれた時も、亡くなる時も同じところだろう」と記されているのを見つけた。これは人間として誰しもが持つ根源的なものであろう。が、私はずぅとこの「同じところ」を「場所」とばかり思っていた。
しかし、最近気が着いたのだ。これは「場所」ではなくきっと「魂」のことだ。生まれたときも亡くなる時も同じところというのは心でありその人の魂なのだ。それがふるさと、なのではないだろうか。人を拉致することは、このふるさと、魂を奪い去ることである。魂を奪いとり、ふるさとを奪う事は決して許されない理不尽さだ。
 ふるさとは誰にも神さまから与えられた魂なのだ。人間の根源的なものだ。
海の向こうまで届け「ふるさと」・・・。



「桜」    山村暮鳥 

さくらだといふ
春だといふ
一寸、お待ち
どこかに
泣いてる人もあらうに


 桜に酔うもよし。それも魂であろう。そして、人はその爛漫の春に酔う陰で、泣いている人のことを思いやる魂もあろう。それがふるさとである。
そして、人は花に、桜に、それぞれの「ふるさと」を乗せるのではないだろうか。


   一片の海わたす落花怒涛なれ

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