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のんびりしたブログですがよろしくお願いいたします。

再び「弘ちゃんは生きている」

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弘ちやんは生きている  (22)   木村徳太郎 
 
 嶽山の上に月が昇りきった。風もなく物音もしない。もう八時にはなるだろうか。ここまで夢中で来たものの、これからの事を考えると弘はどうして良いのか分らない。いまさら山を降りていくのは恥ずかしく思える。
 遠くで狐の鳴き声がした。怖くなってくる。すぐ目の前の廻り七尺ばかりの桧の、大きく広がる枝が弘を小屋ごとぐっと抱きかかえに来そうで気味が悪い。黒い影が不気味である。 弘は当たりを見回した。右手を少し下った窪地に炭焼窯のあるのが目に入った。此処は炭焼き小屋なのだ気が付くと、怖い思いが追いかぶさる目の前の桧から逃げるように炭焼き窯のほうへ近づき奥へと入っていった。窯の入り口に積んである石の隙間から中を覗いてみた。暗らくって何にも見えない。
積んである石を半分ほど崩してみた。月の光がそこへ射しこんで中に莚の敷いてあるのがぼんやりと見えた。炭焼き窯の中で誰かが居たのだろうか。弘は急に救われたように思い、自分の体が潜れるほど、入り口の石を崩すと腰をかがめて中に入っていった。
 今までの外の冷えが嘘のように中は暖かい。炭を出してまだ日がたたないのだろうか。まるで蒸し暑い夏の夜のようなだ。
 提灯の一隊の呼声が風の唸りのように遠くかすかに聞こえている。弘はそれに逆らうようにして、この中で寝ることに決めた。そう決め、改めて中を見回すと不思議なことに莚が敷いてあるばかりでなく、中ほどに蝋燭の燃えかすがいくつも転がり、マッチまでが放り投げ出されている。やはり、誰か人がいたのだ。それも一人ではないようだ。食べ残したらしい缶詰や、酒の瓶までころがっている。欠けた煎餅まで散らかっている。
弘は転がっていた燃え残り五センチばかりの蝋燭に、やはり転がっていたマッチを擦った。ぼうと点った明かりが、影絵のように当たりを滲まで中の様子がはっきりと見えた。そして、奇妙なものがあるのを見つけた。赤い花が印刷された小さいカードのようなものが散らかっている。それは炭焼き窯に似つかぬもののように見えた。弘はそれが何であるかは分からない。しばらく手にとって裏表返して見ていたが、分からないものなのでぽいと投げ出し、崩した入り口の石を中から積み始めた。外からは弘が見えなくなった。
             ☆☆☆
春分の日で、今日は学校が休みだ。昨夜の宿直は池田校長だった。池田校長は校舎の増築で定年退職が一年間延びていたが、校舎がすっかり出来上がる一か月後の四月には、いよいよ定年退職になる。そうと知っているので、あまり校務に力が入らないようだ。学校が休日なのを幸いに九時まで寝ていたが、日直の梶野先生が登校してきたのでやっと起きだした。
 顔を洗おうと井戸端に行ってポンプを繰るが、誘い水が抜けたのか水が上がってこない。
「小使い(用務員)さーん。水〜〜〜」歯ブラシを使っていたので、口中の歯磨粉が飛ばないように含み声を出して呼ぶ。
誘い水を薬缶に汲んで持って来た小使いさんは、手馴れた様子で急いでポンプに水を注ぎ込むがうまく水は上ってこない。
唇まで歯磨粉だらけにして校長は、「やくざなポンプじゃ」
と、不平を言いながら用務員さんに手をかしてポンプを繰るが、やはり水は上がってこない。
「水を汲んできましょう」
口中を歯磨粉で白くして、話し難さを堪えてポンプの傷んだ箇所を調べている校長の為に、用務員さんはバケツをさげて県道に走って行った。
口中の歯磨粉で息苦しくなってきた校長は、薬缶に残っていた水を口飲みにして歯磨粉を口からはき出し、ほとんど完成した増築校舎をながめた。朝陽が新しい瓦に反射していた。その光りを満足げに見ながら用務員さんを待つ。
 校門を出るとすぐに県道。県道にそって内牧の渓流。渓流の向こうは、海抜七二四米の嶽山がそびえている。
三千坪ばかりの敷地の東寄りに、北向きに校門があり校門をくぐると南北に細長く計九十坪の三教室がある。その向いの西側に、一教室、教員室、用務員室、宿直室。そして計六十坪の二教室の増築が終ると、東西の旧校舎を新校舎でつなぎ、雨天の日でも児童が廊下づたいに、どの校舎にでも行けるようになる。
二教室の新校舎はほとんど完成し、あとは窓硝子をはめ廊下の屋根を葺き終わると工事はすっかり終わる。完成すれば、一教室に二学級が入っていたが、一学級づつになり、複式学級が単式学級になる。学童数も今年は増えて全校生百五十名程になる。山村の学校として、よく充実してきたものだと校長は思う。
用務員さんが水を持ってくるのを待ちながら、校長は感慨深げに陽の中に並ぶ校舎をゆっくりと見まわし終わると、中途半端な洗顔に気分が苛立ち校舎にひきかえして、用務員室を裏に出た運動場の西北にある井戸、それ一つに頼っている水の不便さに改めて腹立たしいものを覚えてきた。
 校門の前の県道をはさんで、鮎も釣れる渓流があるのに学校の井戸はどうしたものか、赤茶けた鉄分の多い水しか湧かない。
運動場の向う、いつか弘がムササビを追って木から落ちて傷をした神社の参道、県道から二百米程奥に神社の手水舎がある。そこには、神社の境内から奥に入る御神山から竹樋が引かれいつも清水が溢れていた。児童たちは、よく運動場を横切りその手水舎の湧き水を飲みに行く。手水舎の湧き水が、児童達に水の不便を感じさせず大変役にたっていたが、これは学校の施設ではない。
 校舎が増築と決まったとき、児童たちの全校掃除、昼食の湯茶、飲料水等、一日何Lかの水が必要であることを計算し、新しく井戸を掘って動力の使用で水管施設の予算をどうして父兄会に要求しなかったのだろうかと、校長はいまさらのように口惜しく思い返される。
 校長は顔を洗おうとして水の不便さに改めて気づいたのだ。しかし、四月に退職の今更、とやかく言うのも自分の不覚さをさらけ出すようなものだ。気づかなかったことにして退職する事が良いと思う。


 

お知らせ

「弘ちやんは生きている」
「弘ちゃんは生きている」を愛読下さる皆さま、有り難うございます。
 鉄筆でマス目を一字一字埋め、謄写版で刷られた同人誌「お話の木集団発行」の「お話の木」に掲載されていた、この「弘ちゃんは生きている」は、ワラ半紙で赤茶け触るとポロポロと崩れていきました。1号から「お話の木」の枝が増え十六号まで発行されたようですが、冊子としてきちんと残っているのでなく、あちらこちらにと散らばっておりました。しかし、木の枝が一本(一号)二本(二号)と繁っていくのが、父の夢を追っているようでも有りました。
 私(花ひとひら)が、木村徳太郎の作品、資料を手にしたのは、徳太郎の死後十年が過ぎておりましたが、私が衝撃を受けましたのは遥か遠く(昭和30年代)に筆を折った児童文学の心をもう一度燃やそうとした形跡を見つけたことです。
 もう一度児童文学をやってみようとしたのではないでしょうか。地元の文房具屋のシールのついた原稿用紙が束になって出て来、「弘ちゃんは生きている」の書き直しが父の右上がりの字で埋められていました。児童文学を「もう一度」と思っていたとは私は気が着きませんでした。
 私の生まれる前には、詩を北原白秋に学んでいたようです。その詩を目にするのも初めてでした。「木村徳太郎の詩や作品を葬ないで公開したい」と言う私的感情からブログが生まれ、試行錯誤で歩きながら進めて行くという読者の方々に対して失礼な表現方法だったとは思いますが、それにもかかわらず沢山の方々に読んでいただけ応援をしていただけることに深く感謝をいたしております。
そして、ブログから生まれたような本「ジューンドロップ」も出すことも出来ました。ほんとうに有難う御座います。きっと父は驚きそして喜んでいるのではないかと自画自賛しております。
 1号から16号まで「お話の木」は発行され、数年おいて「奈良県児童文学会」発行として「子じか」の同人誌が生まれ、そこに「弘ちゃんは生きている」が発表されています。これは活版印刷で七号まで有ります。それから「風車」一号に変わりこれは二号で終っています。「お話の木」「子じか」「風車」それぞれ同人のメンバーは変わっております。また「お話の木」から「子じか」に代わる数年の間に何かがあったのでしょう。登場人物が名前でなくアルファベットに書き直されています。どうしてそうなったのかまたそのあいだの話が抜けているのは、わざと抜かしているのか私にはその背景がよく分かりません。
ただ、私の願いは高齢にもかかわらずもう一度児童文学に足を入れようとした、その気持を形に残したい思いで入力してまいりました。
 何にしても一番の読者だった私がこの物語の「おわり」を見たいのです。
「今まで入力したもので三分の一。これからが三分の一。未完の部分が三分の一。そして、これからの三分の一は、かなり思想的なことや時代にそぐわない不適切な表現なども多くなります。
 個人の襞(ひだ)に付き合っていただくことを心苦しく思いますが、どうか御付き合いしてくださればどんなにか嬉しく思います。最後の三分の一は私が書き足しました。
 私はモデルの「弘ちゃん」を知りません。しかし子供達の詩を集めた冊子に次のものを見つけました。
(ポスト。四,五年生)より
坪本栄昭  「ノートの表紙」
弘ちゃんの葬式の時もらったノートを
今使っている
ノートの表紙には
みどりの木の中に大きな建物がある
青い空の下で子供がベンチにこしをかけ
話をしている
そばでハトが豆を食べている
あんなところが日本にあるのだろうか
あったら一度いってみたい気がする。

これをみると弘ちゃんは実在した人物かと思います。
この詩をよんで私は「じ〜〜ん」と来ました。なにかを表現し訴え伝えたい事がある。それが創作活動だと思います。父はその表現として弘ちゃんをモデルに、「弘ちゃんを生き返らせる」ことに、なにかを託くしたのではないでしょうか。
「ノートの表紙」。そこに弘ちゃんを見ます。希望、夢をみます。それは弘ちゃんを蘇らせる作業であり、そして坪本君やその当時の子供たちの心を蘇らせることであり、それは私の心も蘇らせる事でもありました。

 今しばらくお付合いを願えればと思います。

弘ちやんは生きている  (21)   木村徳太郎 
 歩きながら先ほどの照れていた隆の様子が嘘のように、隆とあや子が弘のことに話をはずませている。
早春とは言え、山村の夜は暗く提灯を持った手が冷える。が、内牧川の流れは溶けた雪の出水で轟は大きいが、川風は冬のように肌を刺さなくなっていた。
川渕の山根君の家を訪ねたがここにも弘は来ていない。
山根君も弘を捜す仲間に加わり、ぶらりん提灯の数が三つになった。
炭谷君の家も訪ねたが、提灯の数が四つになっただけだ。
あや子の家を訪ねたように、少し離れた女の子の中峰由子の家にも寄ったが、やはり男の子の弘は尋ね来てはいない。由子も同じように仲間に加わって提灯の数が増えただけであった。
 弘はどこへ行ったのだろう。
まさか五キロも離れた荷坂の垣内の友達の家まで行くことはあるまい。
坪本、中西、谷口君と同じ学級の児童の家ではあるが、常日頃の遊び具合から考えてもそんなことは無いだろうと梶野先生は思う。
村を出て捜すことは、弘のことよりも夜道で児童たちに事故を起こさせるようなものだとも思える。
そして、とうとう村はずれまで来たが、提灯の数が十二、三に増しただけで弘は見つかりそうにもない。
「誰の家にも来ていない。どうしたんだろう」捜す当てがつきた。
梶野先生は、子供達の明るい提灯に取り囲まれ、その灯かりに浮き上がるようにしばらく立ちどまって思案していたが、
「引き返そう」と、帰り始めた。
提灯が各々の足並みに揺れて引き返し始める。
それに合わせてまた児童たちの話し声が弾んだ。
「弘ちゃん。納屋か、炭小屋へでも、もぐってんのと違うか」
炭谷君が思いついたように大声で言う。
いっとき話声がとぎれて、それに立ち止まった提灯もある。
「ほんとだ」。「そうや、そうや」。
いままで、どうしてそれに気づかなかったのだろうと言わぬばかりに、四、五人の男児達が相槌を打つ。
「違う、違うわ。弘ちゃん、お母さんに虐められてばっかりいやはるから、遠い所に行きはったんやわ」
一人の女児が、弘の見つからないことが当然のように言う。
それに合わせたように、他のの女児達も口々にそれに声を合わせる。
「遠い所ってどこやねん」男児が聞く。
継母の弘に同情している女児達は、「弘が死に行ったのかもしれない」と、そんな不安心を誰もが心のなかに描いているのだが、言葉にはならないので黙まってしまう。
暫く話し声がとぎれた。
その静けさを破るように「弘ちゃーん」と、堪りかねたように呼声をあげる児があった。それがきっかけとなって、みんなが思い思いに「弘ちゃーん。弘ちゃぁん」と叫ぶ。
村に引き返す途中はすっかりその声が大きく揃い、黒くうずくまったような山々にこだまが渡って行った。
その子供たちの声に応えるように、こだまではないが自明垣内に近づいた時、向こうから提灯を下げて、やはり「弘ちゃーん」と、声を上げてこちらへ向ってくる一団があった。
自明区の奥田君と、五、六年生の学童達と弘のお父うだった。
 子供たちの提灯がぶつかり合って、そこだけ昼のように明るく梶野先生と弘のお父うの二人が浮き上がったように子供たちに取り囲まれた。
「前田とこから、桐久保の旦那と別れて弘を捜しに来よりましたが、何処にもいよりまへんねん。自明区のみんなも心配して、一緒について来て探してくれよりましたんや」と、感謝の面持ちで連れ立ってきた奥田君たちを一通り見回し、梶野先生にお父うが話し始める。
「そうですか。で、桐久保さんは…」
梶野先生の問に「前田のとこへ行かはりましたけど、山の話で少しこじれて、また峰垣さん所に行かはりましたんや。わしも一緒にと思いましたんやが、弘のことが気になるので、勝手させてもろうて探してここまで来ましたんや」
梶野先生には、山のことで話がこじれていると言う意味がよく分らない。でも、そんなことには関係がない。弘のお父うの返事に「学級の生徒の家の、どこにも行っておりません。お父さんのほうでどこか心当たりはありませんでしょうか」
「それが…」
梶野先生の問いに困ったと言うふうに、お父うは一言口に出しただけで考え込んでしまった。
お父うの考えこんだ淋しげな様子に梶野先生は、「みんな、もう一回見まわってみよう」と、子供たちに提案してみる。
それに答えるように、「どこかの藁小屋か炭小屋に隠れとんのと違うか」と、
子供たちが口々にやかましく言い出した。
決定づけるように自明区の奥田君が「先生、炭小屋も捜してみよう」と、梶野先生の心を動かせるように言った。
梶野先生はそれに引きずられるように、「それじゃ二組に分かれて、山も捜してみよう。一時間たてば、ここでまた落ち合ぉう。それでも見付からなかったら、青年団と消防団の人にお世話をお願いしょう」と、子供たちを二組に分けて山の炭焼き小屋を探してみることに決めた。一つの組は梶野先生。もうひと組は弘のお父うについてもらうことにした。
「山はしし(イノシシ)が、出てきよらへんやろか」
「うちら怖いわ」「もう帰えりたい」女児達は山を捜すと決まって、脅えたようにひそひそと思い々に喋りだす。不安を梶野先生に言いたそうだが、はっきりとそんなことも言えないようだ。梶野先生が越出あや子の訴えるような目の光に気がついて、「女児はもう家にもどりなさい。先生達できっと弘君を見つけ出すから」ときっぱりと言った。
 氏神様の森を抜けて、区の山林に梶野先生と奥田君たちはむかう。弘の父と隆たちは嶽の山に向かった。
女児たちの戻っていく明るい提灯の集団と、弘を探しに行く堤燈の塊が三つ分かれていった。
そして暗々とうずくまった山をめざして、再び弘捜しが始まった。

                    ☆☆☆

 学校の宿直室の明かりが見えている。弘は梶野先生を訪ねてみようと思うが、酒に酔っ払った父のことを思い出すと、なんだか恥ずかしく行き難くなり県道から少し離れた細い谷川を少し山に登ったところで、初めて自分の気持ちを取り戻し落ち着いた。そして腰をかがめて宿直室の明かりを眺めながら、思案にくれていた。そのうち、その宿直室の明かりが消えた。なんだかそれが突き放されたたように白々しくそっけなく見え、自分一人だけがしんと静まりかえった夜に逆らっているように感じられきて、急に淋しく悲しい思いが突き上げてきた。
 奈良のお水取りもすみ、明日は彼岸の入りである。日中は暖かいが夜はまだまだ寒い。体が冷えてくる。弘は肩をすくめ、手に息をふきかけぼんやりと空を見上げた。暗幕に針の穴を開け、そこから光が漏れているように明るく星が光っている。理科で習った北斗七星が、嶽山の上にひときわ冷えびえと冴え渡っていた。一つの星を見るともなく、見つめていたら突き放されて、一人ぼっちになってしまったような淋しい悲しい心が、なんだか紛れてきた。その星が、弘に話しかけているように思える。
 広い夜の大空に、自分の運命を諦めたと言うように不平もなさそうに、星は輝いて静まり冴えている。死んだお母さんがものを言わずに優しく笑うだけで、それでいて暖かく弘の淋しく悲しい気持ちを慰めてくれているように思えてきた。
弘は心が抜けたように立ち上がり、見つめていたその一つの星に向かって歩き始めた。
どこに行くあてもないのだ。淋しさをまぎらわせ逃れるように嶽山の渓にそって、おっかぶさるような杉木立の中を、星に引ずられように嶽を上へ上へと登っていく。半キロばかり登ったところで、弘はこだましてくる友達の呼声に気がつき思わず足をとめ、星から目を離して嶽の麓を振り返った。
提灯が一列に並んで登ってくるのが見える。まるでお母の内職の真珠玉の糸通しが出来上がった首飾りのように、灯かりが数珠繋ぎで見える。首飾りの灯かりは一つだけではなかった。区の山林に向かって、くねりながら登って行く提灯の一列も見えた。弘は渓を流れる出水の音を透かして耳を澄ませる。あきらかに、自分の名を呼んでいるのが聞こえてくる。
その呼び声を聞くと、弘は自分のしでかした行いをいまさらのように大きくとんでもない事をしたように思えてきて、足元が急に暗くなったようで、その場にうずくまってしまった。悲しく滲んでいる涙を、被っていた運動帽子でぬぐう。そのぬぐった帽子を足元に置き、しばらくその場にうずくまっていたが、美代の声に逆らって家を後にした時のように、提灯に向かって逆らって提灯の一隊からどこまでも身を隠してやろうと言う意地の悪い、捻くれた気持がむくむくと持たげ広がってきた。お母はもちろんのこと、自転車を買ってやると言っていたお父うまで弘の心から楽しみを微塵に砕いてしまったのだ。お母とお父うを憎む気持ちが反発する気持になり、それが自分はもうどうなってもよいと言う大層な心になって行く。
 杉木立の間を狐火のように、こちらに動いてくる提灯の一隊を目の下に見ながら、弘はまたも上へ上へとかけ登って行った。
ともすれば道をはずれて、ススキの原のなかへ紛れ込みそうになる。転げて岩につまづきそうになるが、山で育った弘にはそんなことは苦にはならない。
星をみつめ、星を目当てに麓の提灯に心にとめないで、夢中で嶽の頂上まで登った。
 村人達が雨不足で田に入れる用水が切れたとき、雨乞いに登ってくる位で、常日頃は誰も登ってこない頂上である。やっと一息を入れた。そして、提灯の一隊に見付かって自分の心を乱されたくないという思いと、疲れて、静かに体を休める場所を求めて弘は嶽山の背を越し、隣村に抜ける山林の中を向こう側に降りて行った。
 月が出て道を薄ぼんやりと照らし始めている。その明かりの中に松林のはずれに炭焼小屋らしいものが目に入った。
急いで近寄って行き小屋の中に入って腰を下ろした弘は、少し安堵した。そしてまた空を見上げた。あれほど輝いていた星は、向きが変わったのか目に入らなくなっている。月が出て、明るくなったせいだろうか。
 弘は疲れていた。弘の名を呼んでいる声をかすかに耳にしながら、体を休めようとその小屋に潜むことにした。
 嶽山の上に月が昇りきった。風もなく物音もしない。もう八時にはなるのだろうか。ここまで夢中で来たものの、これからの事を考えると弘はどうして良いのか分らない。いまさら山を降りていくのは恥ずかしく思える。
遠くで狐の鳴き声がした。怖くなってくる。すぐ目の前の廻り七尺ばかりの桧の、大きく広げている枝が小屋ごと弘をぐっと抱きかかえに来そうで気味が悪い。
当たりを見回してみた。右手を少し下った窪地に炭焼窯のあるのが目に入った。此処は炭焼き小屋だと気が付いた。そして怖い思いの目の前の桧木から逃れるように炭焼き窯に近寄ていき、窯の入り口に積んである石の隙間から中を覗いてみた。暗らくって何にも見えない。積んである石を半分ほど崩してみた。月の光がさしこんで中に莚の敷いてあるのがぼんやりと見える。炭焼き窯の中で誰かが居たのだろうか。弘は救われたように思い、体がくぐれるほど入り口の石を崩すと、腰をかがめて炭焼き窯の中に入っていった。

弘ちやんは生きている  (20)   木村徳太郎
 
「だから詰まらない喧嘩をするもんでない。子供が可愛そうじゃないか」
表に出た美代から、弘の姿が見えないことを聞いて桐久保さんは父を責める。
「どこに行ったんやろう」桐久保さんの言葉に、心配気にぼそりと言いお母のほうを見るが、別に気にとめているふうでもないお母の素振りに、
「旦那はん。弘を見にいきがてら前田の所へ行ってみまひょう」
弘に前田さんを呼びにやらせようと思っていたのだろうが、その弘が見えなくって、お父は思いあぐねたように腰を上げた。
喧嘩で道具の散らばった部屋を気にも留めないで、「しっかり番をたのむぜ」と、お母に聞こえるように、美代を見て言葉をかけ、桐久保さんを促して表に出た。
 外は暗く、山々が黒く塊でシルエットを描き、空に星が光っているだけの静かさだ。お父うは急いで灯かりの堤燈を取りに戻り、刺すようなお母の目を背に感じたまま改めて外に出る。お父うの酒酔いの頬を打つように、夜風が抜けて行った。
 途中学校へ寄ってみる。宿直の梶野先生は居たが弘は来ていないと言う。
桐久保さん宅にも寄ったが、やはり弘は来ていない。
奥さんに「弘ちゃんは来てない」とはっきりと、そして心配げに言われるとお父は不安に駆られ始めてきた。
桐久保さんについてもう前田さんの所に行くどころではない気持だ。そのお父の心配気な様子に、自明区の峰垣さんが言ってきた伐木のことを、一刻も早く話をつけようと桐久保さんは弘のお父を誘い出したものの、やはり子供の弘のことが気になりだしたのだろう。
「いま時分、どこへ行きよったんやろう。常から良く行き来している学校友達の家に心あたりはないのかい」と、お父に尋ねてみる。
お父うはしばらく考えてはいたものの、心当たりがない。
 酒の酔いもすっかりさめて、弘に自転車を買ってもやれない始末になったことが、胸をえぐられるように思え今更のように大金を酒に変えてしまった事が悔やまれた。
「おっちゃんアホやな」桐久保さんから、事情を聞いて土間に心配気に立ったままで、腰も下ろさないで弘のお父うを隆が冷やかした。
隆に「アホやな」と言われてもお父うは苦笑いするしかない。なにも答えることが出来ない。
「これ、そんなこと言うて…」桐久保さんの奥さんが横から隆をたしなめる。たしなめて奥さんは「隆。もういっぺん、学校に行ってきてみ」と、隆に言い奥へ提灯を取りに行った。
隆は提灯を受け取ると、「ぼん、すんまへんな」と恐縮そうに言う弘の父の言葉に送られて、暗い夜道へ出て行った。
と、向こうから懐中電灯の灯りを点けたり、消したりしながら桐久保さんの家へ通じる、野道をこっちに向かってくる人がある。隆は立ち止まって迎えた。梶野先生だった。
「隆君。弘君はこなかったかい」梶野先生も隆と気づいて、自分の訪ねてきたことを挨拶もせず問いかけてきた。
「僕も先生のとこへ、今行こうとしとったんや」「そうか。弘君のお父うさんが、来たんだね」梶野先生は桐久保さんの家の灯かりを覗くようにして聞く。
梶野先生を先に提灯の灯りを吹き消して、隆もまた家の中に引き返した。
「おう、先生…」桐久保さんが火鉢のふちから立ち上がるようにして、声を上げた。それに答えるように、
「弘君は分りませんか。私も気になったもので心当たりを尋ねてみようと来たのです」梶野先生は答えながら、弘のお父うのほうにちらりと目をやって、「どうです。もう酒酔いは大丈夫ですか」と、お父うが小さく背を丸めている上がり口の火鉢のところへ近寄った。
お父うは頭をかき照れくさそうに「とんだ迷惑をかけまして、その上また心配をかけてすいまへん」と素直に詫びて挨拶をする。そして、火鉢から少しずり寄り、梶野先生に席を開けた。お父の側に梶野先生も腰を下ろす。
「どうしたんでしょうな」
梶野先生が案じるように言ったのをきっかけに、桐久保さんの奥さんも、隆も寄ってきて思い思いに心当たりを話し始める。が、誰も弘が何処に行ったかをはっきり言い切れる者はいない。それぞれが思い出したように奥さんの出した駄菓子を口に入れ、渋茶を啜る音ばかりが響き時間が過ぎていくばかりだ。
たまりかねたように梶野先生が「隆くん、先生と一緒に村を探してみよう」と立ち上がった。
「うん」先生と一緒に行くことが隆には嬉しい。そして、先生の誘い声に友達の弘を早く捜し当てたい思いが胸にひろがり、弾んだ声で返事を返すや土間に下りて、自分で玄関脇に置いた先ほどの提灯に火を入れた。
その様子に、子供のことゆえ帰えってこぬことはないだろうと思う慰めの心と、何処に行ったのだろうと言う心配とがこんがらがって、そのどちらにもけじめがつきかねない弘のお父うは、梶野先生が弘を捜しに行こうしてくれる行動に、自分のあいまいな心に、けじめがついたように感じられた。いつか学校で弘の詩のことで、梶野先生に注意された酒のことや、また垣内の山を分けることで前田朝子が不公平だと言ったことを「権利・平等・団結」と教材に託けて、教室の授業で話したことなどから、若い梶野先生を共産党思想がかかった先生だと、なんとなく不服を持っていたのだがそんなこととは別にして、姿を消した受け持ちの児童の弘を案じて捜しに行こうとしてくれる、そのてきぱきとした姿を見ると、梶野先生への不服をさらりと忘れて、お父うの胸に熱い感謝の気持ちがぐぐっとのしあがってきた。
「旦那はん。先生だけに心配かけとって、親のわしがぼんやりしとれまへん。前田の所へ出かけまひょ。そのついでに弘を捜してみまっさ」
感謝の気持ちが、弘のお父うを奮い立たせたのに違いない。今までの煮え切らない様子が、がらりと変わったように元気に弾んだ声で桐久保さんに言い、隆と表に向った梶野先生の背に
「宿直で休んでいやはるのに、えらい迷惑をかけますなぁ。よろしく頼みまっさ」と、大きく叫んだ。
梶野先生は隆の肩に手をおくと「隆くん、出かけよう」
と、お父の言葉を目だけで受け取ると、懐中電灯を試してみるように二、三度点滅させて行った。桐久保さんの奥さんが、表まで見送る。
「じゃ、わしらも行くとしょう」前田さんの所へ、お父うを誘い出したつもりの桐久保さんが、今度はお父うに誘われたように腰をあげた。

「先生、お願いしまっさ。私らは前田へ行く途中で心当たりを尋がしてみますわ」
県道まで出ると、桐久保さんが前を行く梶野先生に大きく呼びかけ、お父うと桐久保さんは、前田さんの家のほうへ右に折れ、「僕たちは生徒の家を訪ねてみます」と梶野先生は逆に、隆と県道を左に取って左右に分かれた。
 梶野先生と隆は県道ぶちの越出あや子の家の前に来た。
「隆君、ちよっと入って聞いてみてくれないか」梶野先生が、隆に言う。
越出あや子の父は役場に勤めている。このあたりには珍しく硝子窓の多い明るい町屋作りで、穏やかな灯かりが照らし出されていた。
同級とは言え、女の子の家を訪ねるようなことはめったにない。
おまけに夜だ。家の人におかしく思われやしないかと言う恥じらいが、隆の顔に浮かんでいる。しかしそれをすぐに打ち消し、梶野先生の方を振り返って大きく頷きにっこり笑って家の中に入っていった。
「今晩は。あやちゃんいますか」と声をかけた。
「だあーれ」と、学校では洋服姿しかみないあや子が、村の子供らしく綿入れ甚平の姿で顔を出した。勉強でもしていたのだろう。
「まあ、隆さん! なんやの」
学級でも成績の良いあや子は物怖じしない。また父親が役場勤めなので、他の子供たちのように山持ちの隆に遠慮するところもない。今頃尋ねてきた隆を怪訝気に、が明るくはずんだ声で尋ね返した。
そう尋ね返された隆は照れくさそうに
「先生もきてはる」と、言い訳のように口走って「弘ちゃん、どこへ行ったか分らんので、捜してんのや」と、勢って言う
「弘ちゃんが居れへんって、どうしたの? 」
隆の問いがすぐにのみこめないあや子は、話の糸口をさぐるように言って、
「弘ちゃんは男やもん、遊びになんかきやはったことないわ。うちとこへ来てもあかんのに」と、同じ学級でも男児と女児のつきあいのなさを割り切ったように言う。
言われてみて、隆は「なるほど」と女の子の家を訪ねてきたことが、今更のように恥ずかしく思えた。
照れて後ろを振り返って、梶野先生の方に助けをもとめるように手招きをする。隆のその様子に梶野先生はもどかしく思ったのだろう。家の中に入ってきた。
梶野先生をみると、今度は隆でなくあや子が恥じらいそれを紛らせる風に「母ちゃん。先生がきやはったよ」と、奥へ駆け入って行った。
何事かと出てきたあや子の母親は、梶野先生と隆を見て急いで座布団を勧め、あや子に茶器を持ってくるように言いつけ、挨拶をする。
腰を下ろした梶野先生に、持っていた提灯の灯りを吹消して同じように隆も座布団に腰を下ろした。
梶野先生が手短に弘のことを話しす。聞きながら茶を入れて、梶野先生に勧め隆にも茶を出した母親は、
「どうしたんでしょうね」と思案気に言い、「あや子、おまえも一緒に行っといで」と、自分の親切心をあや子に表わせようとするかのように言う。
あや子も興味を感じ惹かれる物があったのだろう。それにすぐに立ち上がると、外に出る仕度を始めた。母親はすばやく真新しい提灯に蝋燭を入れ明かりを足し、あや子に下駄ではなく運動靴を出してやった。
「母ちゃん。行ってきます」運動靴をつっかけ提灯を受け取るあや子。隆も吹き消した灯りに再び火を入れてもらった。
「先生お願いいたします」
「見つかるかどうか、とにかく捜してきます。越出君も一緒に行ってくれて助かります。有り難う御座います」
受け持ちの児童二人が梶野先生と一緒に弘を捜しに行くことになった。梶野先生は弘を捜すことに、心が勢いづいてきたのだろう。少人数よりも多人数の方が、なんだか早く弘を見付けだせるように思え、あや子の母親に、あや子も出てくれることに礼を言い感謝をした。
表に出ようとする三人に、あや子の母親が「隆さんこれ持って行き」
と、手早く奥から紙箱のビスケットをつまみ出し紙にくるんで隆に持たせた。
「うちも欲しいわ」あや子が母親に甘えて言う。その言葉に「先生も包みましょうか」と言うが、梶野先生は首を振り懐中電灯を一つ点滅させると表に出ていった。提灯の明かりが増え、学級の児童の家を訪ねようと再び県道を三人の足が向った。

(あらすじ)
弘は、父と継母と連れ子の妹の四人家族。戦災で焼け出され村に戻った弘の父は、少しばかりの山仕事で生活を支えていた。山深い村が「町村合併」になり、その前に村の持ち山を村人に分配してしまうことになる。弘の母は、苦しい生活のなかで酒癖の悪い弘の父への不満などが、弘へ辛く当たる態度になって出る。
 山の子供たちは、そんな大人の世界とは別に、子供の世界で大きくなっていくが、大人の世界を少しづつ垣間見、巻き込まれていくことになる。分配どき、村と個人の境界線の木を自分のものとして伐った者もいる。弘の父は労せずして入った金を「自転車を買ってやる」と弘に約束をしておきながら、金の大半を酒に使い果たしてしまう。そして弘の父と母の喧嘩が始まり弘は家を飛び出した。
弘ちやんは生きている  (19)   木村徳太郎
 
 表に飛び出したものの、弘には行く所もない。
宿直だと言っていた梶野先生のいる学校のほうに、なんとなく足が向く。
 県道はすっかり暗く、まだらな人家の明かりが、飛び出して来た家のことを思わせて、行くあてのない淋しい心をいっそう淋しいものにさせる。
いつか、美代と喧嘩をしてお母に叱られ、お父を慕ってお宮の石段に腰を下ろして待ったことがあった。あの時は、お父は垣内の集会所に居(お)って、当てがあったが、今日は誰も頼みにするものがない。
梶野先生にでも、この淋しい気持ちを話してみようかとも思うが、恥ずかしくって話せそうにもない。
 石段に腰を下ろした弘は、お父、お母のことを思ってみる。お父はどうしてあんなに酒を飲むのだろう。お母はどうしてあんなに叱るのだろう。考えても分らない。目から涙も出なくなった。心に掛るのは、お父とお母の喧嘩が「どうなっただろう」と言う心配ばかりで埋まっていく。喧嘩が怖くって、夢中で家を飛び出したものの、そのことが心に掛かり始めるとじっとしておれなくなった。
弘は立ち上がって、家のほうに引き返し始めた。家の中のどんな気配一つでも、受け止めて逃がさないと言うふうに神経をそばだてて家に近づいていく。
「 自明の峰垣が来よった。前田が伐った分は自分のものだとねじこんで来よったんや」
話し声が聞こえる。お父うでもお母でもない。すぐに桐久保さんの声だと分かった。「へぇっ。早いこと、どこで聞きよりましたんやろ。でも伐ってしまいよったもんは、どうもなりまんやろ」
酒の悪癖とお母との喧嘩で、元気のないお父の声は震えている。
弘は、雨戸の節穴から、息を詰めて中をそおっと覗いてみた。
喧嘩のときに投げ出されたのだろう。道具や瀬戸物の割れたのが部屋いっぱいに投げ出されている。
その醜いものを忘れでもさせるように、お母の内職の真珠球が、その中でキラリキラリと、光輝いて散らばっている。あれを拾い集めるのも大変だろう。しかし、それどころではないだろう。散らばり失くした真珠玉の弁償をするのも大変だろうと思う。
 お母が悔しそうに、お父への怒りと不平を泣きながら桐久保さんに訴えている。
「だから言わんこっちゃない。余分な金を持つと、こんなことになる。でもまあ出来てしもうたことはしかたがない。ともあれ夫婦喧嘩は、後まわしにしてこっちの方が先や。前田も「もう金を使ってしもうたんやろか」
お母の言い分をなだめながら、この方が大変なのだとばかりに、桐久保さんが話し続けている。
「前田とはいつ別れたんや」
「それが酔うてしまうて、分りまへんのや……」
桐久保さんと向かい会って話している間に、酒の癖でしでかした過ちを思い返したのだろうか、目にみえないものに責められているように、うなだれて気弱くぼそりとお父が言う。
「だらしのないこっちゃ。おまけに、このありさまはどうや。都合良くわしが来たから喧嘩も治まったものの、来なかったらどうなるんや」
出来たことは仕方がないと言いつつ、桐久保さんも散らかっている道具類を見回し、呆れたふうだ。
「明日にでも自明区の峰垣に、桧の話を前田に示談させなならん。金で済ませるとすれば、前田にその分を戻してもらわなならん。もう前田は帰っておるやろ。前田はおまえさんほど酒も飲みよらんからのう」
雨戸の節穴からのぞいていた弘は、桐久保さんのその言葉に、山でお父が言っていた事を思い出した。
「なにか揉めなきゃいいが……」と、独り言を言っていた。その時、言葉の意味を問い返したがお父うは、「子供にはわからんこっちゃ」と言っていた。
どうやら、そのことに繋がりがあるようだ。子供の弘には、大人の世界の難しい話は分からない。だが、桧牧垣内の立木として伐ったものが、自明区の峰垣さん個人持ちのものだと言って来たのだと、子供の弘にもぼんやりと分った。
「見てきまひょか」と、ふいにお母が思いついたように立ち上がった。
弘は、どきりとして節穴からおもわず、二、三歩後ろにしりぞいた。
 お母はお父と一緒に酒を飲みながら、お父をほったらかしにした前田さんに、腹立たしいものを覚えるのだろう。その腹立たしさが、少しでも、前田さんが困るようなことが起きるのを望んでいるに違いない。お母はそんな性質だ。それとも桐久保さんにお愛想を言っているのだろうか。
 物陰に身をひそめて伺がっていた弘は、お母の狐つきの性質をそんなふうに思いながら、様子を伺っていた。が、お母はいっこうに出てはこない。
お母に見つかったらいつでも逃げられるようにと、用心しながら再び節穴に近づいて行った。
「弘はどうしたんや」喧嘩をしていて、弘が表へ飛び出したことに気づかないお父は、弘に前田さんを呼びに行かせようとでもするのだろうか、お母にぼそりと言葉をかけた。お母は「呼んできまひょか」と言っておきながら、弘のことをすっかり忘れているように、お父の言葉には答えないで散らばっている千円札を喧嘩の後始末をするように拾い始めた。お父が尋ねているのにそれに答えないお母の様子に、弘はまた悲しくなってきた。
 お母は「おらがいなくなることを、願っているんだ」と思う。家に帰らなかったら、お母はどんなにか喜ぶだろう。
「弘坊はどうしたんや」父に言葉をかけられながらそっけなく千円札を拾っているお母の様子に、桐久保さんも腹立たしいものを感じたのだろう。お父と同じようにお母に言葉をかけた。
「美代。兄ちゃんは何処へ行ったんや」
桐久保さんに言われて、お母は弘のことに始めて気づいたようにばつが悪そうに美代に尋ねた。それには答えない美代だ。
「ちよっと、表に行って見てきてみい」と、今度はお父が美代に頼み催促する風に言う。
「うち知らん。さっきお父うとお母が喧嘩しているときに、表に出て行きよった」
美代までがお母と同じく弘のことなんか気にも留めていない様子だ。
気の向かないことは、父の言いつけでも返事をしないのがお母と美代の日常である。おまけに今日はお父うが、酒に酔っ払って無駄な金を使い果たして喧嘩をした後だ。逆らうように無愛想なのは当たり前だった。
「おまえら二人はどうして、弘をそんなふうに毛嫌いするんや。見に行ってやったらどうやねん」
 お母と美代のぐずぐずした様子に、桐久保さんの手前堪り兼ねたのだろうか、お父うがとうとう怒りで堪え切れぬと言う風に、声を荒げて言う。
「そんなに気になるんやったら、あんたが見に行ったりなはれ。あんたの日頃の行いが悪いから、弘まで捻くれるんや」お母は自分のたちの性質を棚に上げて、お父うに言い返している。またぞろ喧嘩が始まりそうだ。その様子に弘はなおさら悲しくなってきて、ふと、死んだ母親のことを思い出した。
 顔は思い出せないが、いまのお母のように意地悪ではなかったように思う。
節穴を覗きお母のきつい言葉を聞いていると、どうしてお父はお母に負けるんやろう。亡くなった母さんには、お父ももっと父親らしく振舞っていたように思う。
そう思うと、弘はたまらなく淋しくなってきて、お父まで頼れない気持になってきた。あんなに楽しみにしていた自転車も、お父は買ってくれないで酒を飲んでしまったではないか。お母だけではない。お父も弘のことなんか思っていないんだ。
「捜しに来ないんだったら、おら、帰ってやらねえぞ」。
夢中で家を飛び出し、やっぱり家の中に入りにくくなったところへ、お母の意地悪い言葉を聞くと、弘は本気でそう思った。
「前田の家へ行ってみよう。もう帰っとるじゃろう」
山の話を進めるのに、ぐずぐずしていられないと言う風に、桐久保さんが大きく言う。酒癖の疲れと、喧嘩の後で外へ出るのが億劫なのだろう。お父は、弘に前田さんを呼びにやらせようと考えているのだろう。
「旦那はん、前田を此処へ来るように弘に呼びにやらせまっさ」と答えて、「兄ちゃんを、ちよっと見て来てみ。表にいよるんやろ。美代、呼んで来い」
と、美代に押し付けるようにきつく言った。
 父の言いつける口調の強さと、真剣な顔つきに美代は恐れを覚えたのだろうか、やっと立ち上がったのをみると「帰ってやらねえぞ」と言うその心と、美代に見つかりたくないと言う心がさらに重なって、弘は節穴から退くと、「兄ちやーん」と表に出てきて呼ぶ美代の声から逃げるように、学校のほうへと足を向けて駆け出して行った。

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