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再び「弘ちゃんは生きている」

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弘ちゃんは生きている  (18)   木村徳太郎
 「おら、先生に怪我のときも乗せてもろたし、また乗せてもろって嬉しいな」背で、父親のことよりもそんなことを言っている弘に答えないで、梶野先生は自動発電ランプの明るい光を暗い空間につきさし、その一筋の光を前へ前へと押し進めるように町へ急いだ。「自転車は速いなあ。おらも今日、自転車買ってもらえるんや。買ってもろたら先生と競争するんだ」
梶野先生は、なにか考えているように弘の喜びの言葉にも答えない。梶野先生の様子に、常にないものを感じて、弘も黙ってしまった。<万や>の前を通り過ぎ、宇多川を左に折れようとした時だ。土手につながる県道に黒くうずくまったものに、梶野先生は「はっ」と驚いて、ブレーキをぐっとかけた。後ろの弘が梶野先生の背中にずしんとつきあたって、二人とも前にのめりこむようになり、自転車をとめた。「先生どうしたん」と、弘が体を少し横にねじまげて前を見る。発電ランプがとまって暗く、とっさには判らなかったらしいが、やはりおもい当たるものがあったらしい。「あ! お父うだ」と、梶野の先生よりも、先に気付いて自転車から飛び降りようとした。
「えっ」弘の言葉に梶野先生も自転車を降りようとするがそれよりも早く、弘は荷台から滑り落ちでもしたかのように降りると、黒くうずくまっているものに。「お父う」と、声をかけ手を伸ばした。
返事が無い。よほど酒を呑んで苦しいようだ。それでも弘と気づいたのであろう。黒くうずくまっていた人は「うーん。弘か。今ごろ何しにきた」と、舌ももつれて動くのが大変らしい。やはり弘のお父うだった。肩に手をかけた弘の手を振り払らって「なんじゃ。前田はどうした。前田は…。金は…。金は足りたか」と分からぬことをぶつぶつ言う、かと思うとまたうずくまって、大きな鼾をあげる。
「お父う。お父う。自転車はどうしたん」弘は一度に悲しくなってきて待ち望んでいた自転車の事を聞いてみる。がお父うはそれには答えないで「あかん。みんな、金使こうてしもた…。お父うあんは馬鹿やな」と、独り言のように言葉尻が弱くなり、弘にすまなそうに顔をそむけてしまった。
どうやら持っていた金の全部で酒を呑んでしまったようすだ。弘は気が狂ったように「お父うの馬鹿。お父うの馬鹿」と、叫び泣きながら、うずくまっているお父うの背中を握りこぶしでうちたたく。それどころか足で蹴りだした。その様子に「弘君! まあ、待ちたまえ」と、梶野先生が弘のお父うを弘から庇うように傍にかけより、弘の手をぐっと握り、弘を抱きとめた。
梶野先生は町へハイヤーを呼びに自転車をこぐ。ペダルが重たかった。弘も弘のお父うも哀れだった。弘は泣きじゃくりながらお父うの背中をさすり続ける。それでも「どうしてや。どうしてや」悔しさで土手を転がり落ちたい気持だった。

ハイヤーの金を払い、梶野先生は運転手に手伝わせて酔いつぶれているお父うを家の中に担ぎ入れる。狐つきのお母は、お父うの姿に怒りが爆発しそうだったが、梶野先生がいるので、爆発させることもならないのだろう。口早く事情をはなす梶野先生にも、腹立たしい様子だ。むっとした顔つきでものも言わず、美代に手伝わせお父うの寝床を敷く。
はじめて「なにぼやぼやしてんねん、早よ、お父っあんを寝かさんかぃ」口から針でも吐き出すようにきつい口調で弘に言葉を投げ飛ばした。弘は酔いつぶれたお父うよりも、お母のほうが恐ろしい。皮膚の毛穴の一つ一つから、お母の感情の高ぶりが電波で流すように突き刺さってくる。目からとめどもなく涙がこぼれている弘だ。辛いのであろう。子供だからこの不満を誰にも訴えることは出来ないのだ。お父うをかかえて引きずるように寝床に連れて行こうとするが、お母の呪いの術にでも罹かって腑抜けたような弘だ。お父うを引っ張って行こうとするがおろおろするばかりだ。
梶野先生が手伝って酔いつぶれているお父うを、やっと寝床にいれる。寝床に入れられたお父うは好い気なものだ。弘の哀れな気持ち、お母の怒りに震えた気持ち、そんなもの酔っ払っていてとんと感じぬ。「ウ、ウウーイ。ここは何処じゃ。水、水、水を持ってこい」まだ、町の呑み屋で酒をのんでいる夢でも見ているのだろうか、獣のように喚めいている。
 梶野先生は、お父うを寝床に入れて形だけの上がり口に腰をおろすと、やっと自分の務めが終わったと言うふうに落ち着きをとりもどし、「大分酔っておられるようです。道で倒れておられたのですよ。どうもあま良いことではありませんね」とお母を見て言う。お母は梶野先生の目を避ける。若い先生からそのように言われることをお母は親切だとは思わないらしい。なんだかお父うのふしだらさと、自分の妻としての責任のなさを言われているようで僻んでいるのだ。その僻みがいっそう、お母をひねくれさせた、無愛想で梶野先生を睨んだまま、お茶を入れようともしない。腰を下ろした梶野先生に、「早く帰って欲しい」と言うふうなそぶりがみえる。「水、水、水持って来い」お父うがまた唸なった。その声に弘は家にいて、狐つきのお母と顔をつきあわせているのが恐くってたまらない。その恐さは酔っ払って魂の抜けたようになっているお父うでも、やはり頼りにしょうとするかのように、井戸へ水を汲みに走ろうとする。
「ほっとき」その様子をみて、お母が浴びせかけるように弘にどなった。はっきりとお父うに対して怒りをぶちまけているのだ。梶野先生がいるので、怒りを行いに表せないだけである。
弘は一瞬戸惑った。弘だけではない。お母のその言葉に梶野先生も、その場にいたたまれないふうに「おじゃましました。どうか気をつけて。静かに寝かせてあげて下さい。そのうち酔いも醒めるでしょう」と腰を浮かして帰りかけようとする。弘は「先生もう少しおって欲しい」と言いたいのだが口には出せず、涙の滲んだ目に哀願をこめて梶野先生を見るが、「じゃあ弘君、先生は宿直だから学校に戻る。用事があったら来ておくれ。さようなら」と立ち上がって表へ出ようとした。「先生! おらも学校に行く」弘が梶野先生について表に出ようとした。その背に「弘、先生の邪魔したらあかん」お母がとめる。
弘は立ち止まって、表へ出る梶野先生に「先生。お父う、すみませんでした」と、小さいがはっきりと言葉をかけ引きかえした。梶野先生と一緒に行くのを、お母に逆らうのが恐く思い返えしてあきらめたのだ。引き返して、お父うがまだ水を求めている声を耳にすると、こらえかねたように、水を汲みに行こうとしてコップを出そうと台所の隅の煤けて黒ずんだ水屋の戸を開けた。開けたがコップがない。お母に聞こうとしたが、先ほど止められたあの声の恐さで訊ねることもならない。何気なく見回すと、美代のみかん箱の机の上にある。「美代、ちよっと、そのコップとってんか」美代は素直にとらない。じろりっとお母の顔色を読んで聞こえぬ素振りだ。美代が聞こえぬ素振りをするものだから、弘は土間から上に上がりかけた。と「ほっときと言うてんのが分からんのけ」梶野先生が、帰えってしまってこらえていた怒りを抑えることが出来なくなったのだろう。つと立ちあがって、みかん箱の机の上からコップを手にとると、憎々しげに「オマエがつまらんもの買ってくれと言いよるから、こんなことになるんじゃ。甘えよって。おまえのような奴は家におらんと出ていけ」と言うなり、弘にむかってコップを投げつけた。子犬が身をさけるように弘は跳ねどいた。土間に砕けたガラスのコップ。目に涙をにじませていた弘は、こらえきれなくなったように、声をあげてなきだした。あふれる涙を手でこすっている。なにも弘とコップに当たらなくともよいのだろうが、狐つきのお母にそれは通じない。それをきっかけのようにお母は酔いつぶれて、寝床で唸なっているお父うの傍に近寄ると「あんた、どうしはりましたんやお金は。みんな使こうてしまいはりましたんか」頭に手をかけ、ぐいぐい揺さぶりながら聞く。頭を揺さぶられて、お母だとお父うは気づいたようだ。でも自分のやってきたことにまだ気づかぬふうだ。「ここはどこや」と、じろりと家の中を改めるように見回す。「なに言うたはりまんねん。ここは家やおまへんか。分からんようになるまで、呑みはりましたんか」家と聞いてお父うは安心したのだろうか、お母に「水、水をくれ」と、また催促。お母はその言葉を受け付けないで「桐久保さんからの金。みんな呑まはりましたんか。どこへ、お金をやりはりましたんや」と、問いつめる。それをうるさそうにお父うは寝床から立ち上がると、水を飲みに行こうとするのだが、体をひょろりひょろりと傾かせて土間に下りて行こうとする。行きかけて急に思いついたと言うふうに寝床を横にずらせ、畳の隅を上げた。そして出かける前に畳の下にに置いていった金を引きずり出し「うるさいなぁ。金はあるやないか、ほらみてみぃ」と、お母の手元に投げた。けげん顔ながらも瞬間、満足げに顔がほころぶお母だ。だが札束の薄いのに気づいたのだろうか、枚数を読み終わって「これなんだんねん。桐久保さんに貰らわはったのは、五万円のはずやおまへんか。後はどうなりましたんや」井戸に降りようとして下駄がうまくつっかけられないのだろう。体を揺ぶりながら下駄を履こうとしているお父うの側に近寄ると、お父うの背中に憎しみをつき混ぜた口調で、強くぶちまけた。お父うはそれには答えないで、泣いている弘を見つけると、酔った心にも少しは自分の誤った行いを思い出したのだろう。だが、その過ちを責められたくないとでも思うのか、泣いている弘をみると「やかましいやい。ごてごて言い寄ってからに。弘をなぜ叱り泣かすんや」と、お母の憎ゝしげな言葉を跳ね返すように言って「弘、泣くな。お父うにまかせとき」なにをまかせよと言うのだろう。よくわからない。自転車は買ってやるとでも言うつもりなのだろうか。弘に口調を和らげ言いながら井戸端のほうに行きかけた。その様子に、お母の怒りがとうとう爆発した「わての言っていることに答えられしまへんのか」と、後ろからお父っあんの襟首をつかみぐいと引き戻した。「なにさらしけつかる。酔っていると思って馬鹿にしてるのか」後に引き戻どされたお父うは、首をねじまげて、襟首をつかむお母の手をほどくと同時におもわず手がでてお母をぐんとはねた。酔っぱらっていても山仕事に従っているお父うの力は普通ではない。板の間に転がされたお母は立ち上がるとお父うに手向かって喉首に手をかけた。そのとたん千円札二〇枚がビラをまいたようにそこらに散らかった。お母が手に当るそこらの道具を投げ出した。お父うとお母の喧嘩が始まったのである。美代が泣き声をあげてお母にすがり付いて止めようとする。土間の隅で泣いていた弘はお母の手から投げつけられた道具が、地面にぶち当たった音にはじかれたように無我夢中で表に飛び出びだしていった。

弘ちゃんは生きている  (17)  木村徳太郎
 
垣内の山から家まで枯柴を六足運んで日暮れになった。お父うがもう帰ってくる時分だ。それなのに帰ってこない。新しい自転車を買ってもらっても、日が暮れてしまったのでは乗れない。弘は外に出て何度も町のほうを見てはいらいらと心が落ち着かない。「お父う遅いなあ」と、お母に話かけてみたいが狐つきになったお母には、おっかなくて声がかけられない。そのうちお母のほうも心にかかりだしたのだろうか「お父うはんは桐久保さんの家に行きよったんじゃろ?」「うん昼の弁当食ってから、僕の自転車や、美代のシロホンを買ってくると言いよって、町に行きよることにして、山を昼に降りよった」「桐久保さんから、お金受け取りよったんじゃろか」「おらは知らんけど、山で桐久保さんが帰りに金を渡すから寄ってくれと言いよったから、貰ろたんやろ。そやないと自転車は買われへんもん」「金を貰らったら無駄に使いよる。いらん物ばかり買いよって、そうじゃろう。家の暮らしがこんなに困っとるのに自転車なんていらんもんじゃ」自転車という言葉がお母の口から出たので、弘はおっかなくなって黙ってしまった。「金を持ったら、自分ばかりええ目をしよってからに。ちいっとは、家のこと考えてみい」
弘を淋しさから紛らわせようとして、お父うは自転車を買って来ようとしているのだが、お母にしてみればそのようなものは余分なものと思っているのだろう。独り言のように不平を並べながら、真珠玉通しの内職を机に置くと台所に降りて夕ご飯の仕度を始めた。
 陽の永い春も、はや日暮れようとする。友達の所に遊びに行っていた美代も帰ってきた。「お父うあんはまだか?」美代も買ってもらえるシロホンが、心にかかるのだろう。米びつから米を計っているお母のそばに甘えるように近寄って聞いている。宿題の団結の詩をつくろうと、ノートを広げた弘のほうに向かってお母が「弘、桐久保さんとこ行って、お父うはいつごろ帰えりよったか聞いて来い」と、帰りの遅いお父うに腹をすえかねたのだろう、美代の問いかけにたまりかねたように弘に言った。
「隆さんがさっき山に来よったとき、お父うは帰りよったと言うてた」山へ隆が来て話していた事を思いだし、弘は宿題が心にかかって、行きたくはなさそうにお母の言葉に立ちあがらない。その様子が気に障ったのだろう。「子供の言うことなんか分かるかいな。行ってこい言ったら行ってこい」自分の言いだしたことは、どこまでも通そうとするお母である。声が荒くなる。隆が山に来たとき、はっきりとお父うは家に寄り、さっき帰ったと言ったではないか。行かずとも分かっている。それが、表で遊ぶだけ遊んできて家に帰るなり、お父うのことを美代が聞いたので、思いついたように桐久保さんとこへ弘を確かめに行かせようとする。「美代がよけいなことを聞きよってからに」と、弘は不満気に腹がたつが、狐つきになったお母のつりあがったような、きつい目で睨まれるとそうも言えない。仕方無さそうに机から離れて土間に降り外へ出たものの、桐久保さんの所に行ってもしかたがないと思っている。桐久保さんを尋ねる時間だけ、どこかで時間をつぶそうと思った。やはりお父が気になり県道から、町のほうへ脚が進む。県道の両側の杉山が黒々と、おっかぶさるように目をさえぎり、薄明るい星空が一筋の道のように目に入ってくる。もう日暮れて誰も通らない。町のほうへ二、三丁ほど歩く間に二人ほどの村の人とすれちがっただけで、お父うの姿は見えない。やはりまだ帰ってきそうにない。しかたなく弘は、桐久保さんへは行かずに、行ったほどの時間を計算して家に引き返した。すっかり夕御飯の仕度が出来て美代が膳の前に座っていた。弘が帰ってきたのをみると、「どやった。いつごろ帰りよった」待ちかねたように、お膳の前に鍋をかけたままの七輪を運びこみお母が聞く。弘は少しとまどったが、桐久保さんへ行ってきたような顔をして、「うん。二時ごろに帰えりよったと」と答えて、お母からそれ以上のことを聞かれるのを避けるように、机の前に座りこんで宿題を始めた。その様子に「弘、ご飯やのに分からんのけ」お母がきつい声を投げてきた。弘は、お父うが帰ってきてから、みんなが揃って食べるものだとばかり思い、机に座り込んだのだが、お母のその言葉に「お父うを待ってへんのんけ」と、お母に振り返り不審気に問い返した。「そんなもん、いつ帰るか分からん者を待ってられるけ」
お母の言う通りにしないと怖い。弘も鍋がかかった七輪の前に座った。鍋の中はぐらぐらと菜っ葉が煮えている。小さくきった油揚げが刻みこまれている。それだけの鍋だ。お父うの飯茶碗は膳にふせられたままだ。菜っぱと油揚げを箸でつまみ、お母と弘と美代は食事を始めた。
と、その時だ。
「今晩は…」と梶野先生が入ってきた。「あら。先生」お母は箸と飯茶碗を、常日頃話をすることもない先生が今頃尋ねて来たのを不審気に思い、驚き慌てて置いた。
「やあ、食事中でしたか。えらい邪魔をします」誰に言うともなく言って、「どうだ、頭の傷は」と弘に声をかけた。弘は、持った茶碗を宙に浮かしたまま、照れくさそうに少し顔を赤らめて梶野先生を見た。梶野先生は弘に言葉をかけるとそのまま弘の返事も聞かず、急ぐように「弘君、ちよっと」と手招きをして外へ出ていった。お母は不審気と自分が除け者にされたように思い、不服なのだろう。しかし、相手が学校の先生なので、それを言葉に出しても言えず、狐つきで釣りあがった目をいっそう吊り上がらせて、不満気を顔いっぱいに表わしている。弘も何事だろうといぶかりながら、梶野先生について表に出た。出てきた弘に「お父あんは…」と、小声で家の中のお母に知られまいとするように聞く。「昼から町へ行って、まだ帰りよらへん」弘のその答えに「やっぱり…」梶野先生は大きく溜息をつき、思いあぐねていたことが的中したふうに、「弘君。先生は今晩は宿直なので、家から自転車で学校へ来る途中に、お父あんに似た人が、町の呑み屋で騒ぎよったのを見た。それで、確かめるとうと思い来たんだが、やっぱりそうかもしれない」と、一人合点するように言うと「どうだい、弘君。自転車に乗らないか。お父あんかどうか確かめに行こう。もし、お父あんだったら君が引っ張り出せよ。君が呼びに行ったらお父あんも帰るやろから」と、弘をうながせて、「さあ、はやく乗りたまえ、そのまますぐに行けるだろう」と、自転車の荷物台を指さした。弘は分けがわからない。
 梶野先生はお母に言葉をかけて来ようと再び家の中に入ると、「お母さん。ご飯中で申し訳ないですが急ぐので、弘君をちよっと貸ります」とよほど急いでいるのだろう。お母に食事も待てぬといった言い方で、それでいながらお母にはお父うのことにはふれないで、せっかちに言う。
その梶野先生の様子に「いったいどうしたんでしょうか」と、得心のいかぬ面持ちのお母だ。それにはかまはず梶野先生は「ちよっと、学校の用事で…」と言い、お母が「そのままの服装でいいんでしょうか」と、やはり母親らしく気をつかって尋ねるのを、「いいんです。急ぎますから」と、強引に外へ引き返してしまった。
そして、弘に「さあ行こう。しっかりつかまっとれ」と、言葉をかけ、ペタルを力強く踏んだ。

弘ちやんは生きている  (16)  木村徳太郎
 お母はどこに行ったのだろうか。
真珠玉の糸通しの内職の出来上がったものを、届けに出かけたのだろうか。姿がみえない。狐つきになったお母でも、やはり家の中にいないと話し相手がなくって、お父うは手持無沙汰になる。懐中にお金を沢山もっているので、一刻も早く家計を綺麗いさっぱりとするためにお母と話したくてならないのだ。じれったい心をおさえて、裏の井戸端で水を汲み上げた。つるべからそのままごくりと喉をうるほすと、上がりがまちの板の間に腰をおろした。しばらく待ったがお母は帰ってこない。桐久保さんから金を受け取れば、町へ出かけて、弘の自転車を買ってこようと考えていたお父うは、じっとしているのがじれったくなり、懐中から金を取り出すと、家の支払いが二万円。三万円は自由になると大まかに勘定をして、二万円を誰にも気づかれないようにと部屋の畳を少し持ち上げて納めた。納め終わると山行きの作業着をぬぎ、つぎのあたっていないカーキ色の乗馬ズボンに、いっちょらいの背広の上位をひっかけて、背広の内ポケットに三万円を折り重ねてつっこんだ。
 家を空けておいたところで、村では盗難に会うような事はない。永年の習慣で入り口をあけたままお父うは外に出ると、もう一度立ち止ま ってお母の姿がみえないかと、しばらくあたりを見回したが見当たらないので、なにかに引かれるように町に向って歩き出した。山暮らしのお父うはめったに町には出ない。五粁も歩かねばならないが懐に金をもって買い物に行く足取りは軽い。バスにも乗らず県道の両側の雑草に、なんとなく目を走らせ、早春の伸び始めた草や名前の知らない花などに、季節を味わうゆとりを持ちながら買い物の値段を心うちで計算して歩くのには弾みがあった。約一時間半ばかりで町の入り口についた。町の入り口で、顔見知りのよろずや<万や>の井上さんが、「どこ行きや」と、心安く声をかけてきたので、お父うは、酒のほてりと歩いてきた疲れで<万や>の床机に気安く腰をおろすと、「倅に自転車を買うたろうと思って、町へ出てきたんや。」「何処で買うたら、安うしてくれるかいのう」と、四、五軒ある町の自転車屋の何処で買ったらよいか、参考にしょうと尋ねてみた。「ほう、えらい馬力じゃな。大分もうけとるのお」<万や>の井上さんは山を売ったとは知らない。お父うにお世辞を言いながら、「久しぶりにどや、いっぱい注ごか」と、それがもてなしでもあると思っているのか、酒好きのお父うの心内をのぞくように、店に並べられてある一升瓶から一合升に酒を注ぐと、「いやぁ〜。今日はええわ」と断わるお父うの言葉もうけつけないで、なみなみと注ぎ、こぼれないように腰をおろしているお父う側に運んだ。お父うが町に出てくると、いつもここで一杯ひっかける習慣をくりかえしているのだ。このように手軽に勧められると、断りきれないのがお父うの癖である。側に持ってこられた一合枡を手に取り「じゃ、魚の缶詰でも一個もらうか」と、注文する。お父うは、鯖缶を肴に一合枡でちびりちびりと酒を呑み始めた。
「自転車やったら、駅前の池田が一番勉強しよるやろ。おれとこの親類周りになるんや。買うたっとくれ」「子供の自転車というもんはいくらほどしよるんやろか」「おれとこで聞いたと言うてくれたら、高くはとらんじゃろう」<万や>も自転車の値段は分からぬのであろう。親戚回りになる池田自転車店にいくことばかりを勧めている。村の人は、買い物の値段をとやかく言はないで知った店で買うのが一番良いように思う風習がある。お父うは駅前の池田自転車店に行くことに決めた。酒の枡が空になる。いつもならこれで打ち切るのだが、懐中には普段まとまった金を持ったことのないお父うである。今日は金があるそれが気を大きくさせたのだろうか、まだ呑みたらないように、「もう一杯くれんか」と缶詰の鯖が残っているので、それも一緒にかたづけてしまうと、改めて酒を注文した。そのときである。垣内の歩きの前田さんが表を通りかけた。「よう、どこ行きや」と、お父うをみつけて、同じように<万や>に入ってきた。両手に大きな風呂敷包みをさげている。「おまえこそ何処に行ってきたんや」。「買い物や」矢野さんから受け取った金で、家に必要なものでも買って来たのだろう。顔をほころばせお父うの横に腰をおろすと、「この前は、えらい厄介かけたなぁ。垣内の山のことで思わん金が入りえらい助かったわ。それに桧までつけてもろって、そのことでおまはんにいっぺん礼をしょうと思とたんじゃ」。前田さんは思いがけない桧の代金まで入ったことを、この上もなく喜んでいる。その言葉にお父うは、桐久保さんの顔を思い出した。そのことで桐久保さんが自明区と桧牧区に諍いが起こらないかと頭を痛めている。そんなことに関わりなく、大金をつかんだ前田さんはとんじゃくなしに喜んでいる。それに、常日頃の貧乏暮らしに思いがけない金が入っただけに、いろんな品物が買いたくっなって町に行って来たのだろう。二つの大きな風呂敷包みを見て、お父うは、自分もそうなのに何か羨ましくなってきた。それで、「あの桧は峰垣さんのものか、垣内のもんか、まだはっきりしよらん。ものいいがついたらおまはんは桧の代金を返さなならないようなことが起きるかもしれんで」と、よほど皮肉を言ってやりたくなったが、お人よしのお父うには、面と向かってそんなことは言えない。おまけに「どうや、いっぱいつきあわんか。町へひきかえそうや」と、お礼のために、おごらせて欲しいと前田さんに言われてみると、なおさら、そのようなことは言えない。何も、お父うの力で、前田さんに余分の金が入ったのではないと言う事を良く知っているものの、なんだか礼を言われてみると、お人良しのお父うはすぐ有頂天になってしまい「そんな桧のこと、どちらになったところでわしには関係は無い。峰垣さんのものと分かったところで、もう金に替えてし前田はんのことや、金はおそらく返しはしないだろう。呑めるときに人間呑んどくほうが利口と言うもんだ」と、自分の心のけじめをそんな風につけてしまって、「おお。奢ってもらわんでも、おれも今日は少しもっとるんや。行くか」と、前田さんの言葉にのって同意してしまった。「いや、お礼におれが奢らせてもらう」言いだしたことは、実行するというふうに、気前よく前田さんは言い「おっさん。もういっぱい、注いでやってんか。それから、おれにもいっぱい」と、井上さんに注文する。改めて牛肉の缶詰が開けられ、お父うと前田さんは心があったように、枡の冷酒を、ちびりちびりと呑みだしたのである。
 懐中にお金を持っていたので、気が大きくなったのであろう。すすめるままにお父うは枡を重ねた。お父うの気性はいつもそうなのだが、酒の量がすぎると持っているお金を考えもなく無駄に使ってしまう癖がある。枡を空にすると、前田さんが勘定を支払うと言うのを振り払い、お父うは懐中から札束を取り出すと二人の勘定を気前よく払った。それに気兼ねしてか前田さんは、「町へいっぱいのみに行こう。荷物は此処に預けておくわ」と、<万や>に風呂敷包みを預け、お父うにご馳走すべく、町へ誘ったのである。
その時、町の飲み屋に働いている女の人だろうか。<万や>へ買い物に来ていて、お父うが懐中から千円札の束を出したのを、ちらりとみてみぬふりをしていたのをお父うも、前田さんも気には留めずに、酒のご機嫌で店を出た。勿論、前田さんが奢るつもりで誘ったのだが、昼の弁当の焼酎と桐久保さんでよばれた酒、そのうえに<万や>で呑んだ酒の勢いで、前田さんよりお父うが自分から誘いでもしたように先になって、調子よく歩きだした。気にとめなかった先ほどの呑み屋の女の人だろうか。なんとなく、話かけるきっかけを見つけようとでもするふうに、にこにこ笑って二人の後をおいかけてきた。

弘ちやんは生きている  (15)    木村徳太郎

垣内の山の話がでたので、桐久保さんは弘のお父うを少しでも長く引き止めたい様子で、その間をもたせるために酒を持ってこさせるのであろう。奥に引き返した隆が、桐久保さんの言いつけを、大声で伝えているのが聞こえてくる。しばらくすると、土間から五合銚子と湯のみを二つ丸盆に乗せて奥さんが姿をあらわした。それを受け取ると桐久保さんは、一つの湯のみに酒をなみなみと注ぎ、お父うにすすめた。「旦那はんえらいすんまへんな」お父うは焼酎くさい息をはきながらも勧められるままに、湯飲みに口に持っていく。桐久保さんは弘のお父うが銚子に手をやって、桐久保さんにも酒を湯飲みに注ごうとするのを、断って飲まない。お父は酒をよばれていっそう桐久保さんにお愛想をとらなければいけないとでも思っているのか「前田も馬鹿な奴どすけど、どだい先生がなっとりまへん。近頃の若い先生は、月給とることばかり考えよってからに。矢野さんも山で言いよりましたように、まるで共産党だんな」と、一人で喋りだした。「それに、わしとこのお母が弘を寂しがらせよるのも、貧乏のせいにしよってからに、弘が作ったという、詩とか言うもんをこのわしに読みくさりよりまんのんや。家の中のことばかり書かしよってからに、旦那はん、このごろの教育とはそんなもんだっか」と、怪我をした弘を学校に迎えに行き、梶野先生から話された詩のことが、よほど腹にすえかねるのか言葉があらい。「まあ、ゆっくり話せ。先生のことは、わしも村の教育委員をしとるさかいよう知っとる。まだ、はっきりきまっとらんが、今度、四月になったら校長が替わるようになっとる。今度の校長は向淵から来るんやが、昔堅気の先生やから多少かわった教育をしてくれるやろ。少しは生徒の行儀もよくなるやろし、先生の教え方もかわるやろとおもとる」「へえ〜っ。校長はんが、変わらはりまんのか」腹にすえかねていたことを、ぶちまけたように話し出したお父うは、桐久保さんの話しに腰をおられたかのように、あっけにとられた様子だ。「まだ、はっきりとはせんが、だいたい決まっとるんじゃ。若い先生も行き過ぎのところはあるが、これも時世じゃろうのぉ」「時世やと言いはりましたら、もう言うことはあらしまへんけど、この時世がいつまで続きよりまんねん」お父うは、理屈に詰まったと言う風に言葉尻が弱く独り言のようになってしまった。
「それはそうとな。前田が売った桧。あれを自明区の峰垣が、なんか物言いをつけるように思えてならんのや。今頃こんなこと言うてもおかしいが、山を見に行くとき前田が西谷の本田のおじいのところにまわって話を聞いてきよった時、分からんといいよったが、もっとよく確かめておくべきやった」桐久保さんは学校の話を止めて、気になり考えていたことなのだろうか、お父うの言葉尻が弱くなったのを機会に、山に登ったときの事を思い出すふうに話し始めた。「旦那はん。おらも前田が戦災で村に帰りよったので、可哀そうやと思って、尋ねてきよったとき、分からんものは伐ってしまったらええと、言うてしもうたが、今になると矢野さんにあない早ように、売りよるとは思わなんだ」前田さんが垣内の山を分けるのに不公平だと言いながら、矢野さんに手早く売って、金を受け取ったと分かったいま、そのやり口がなんだか人の裏をかくように思えてならない。と言ってあの時、桐久保さんが承知してしまったことだ。いまさら、とやかく言うのは桐久保さんの落ち度を責めるようなものではないか。お父うは前田さんが、手早く矢野さんに売ってしまったことのほうを、責めるふうに口をにごらせて言う。「うん、おれもあの時、もっと考えて、確めておけばよかったんだが、前田の強引なけじめの付け方に、黙認してしまったようなことになってしもぅた」桐久保さんは、お父うに、再び酒をついでやりながら残念そうに話し続けて、「もし、自明区の峰垣が、とやかくいってきよったら前田にしてみれば、今さら、伐りよった桧の分の金を返しはせんだろう」だから、どうしたらよいのかと聞き返してみたいような、桐久保さんの話なのだが、弘のお父うにしてみれば、常日頃、厄介になっている桐久保さんの心配を、突くようなものと思えて、それを聞き返すだけの勇気もない。「旦那はん、大丈夫だっせ。どれ、おらは、今日はこれから榛原に行こうと思っとりまんので、帰らせてもらいまっさ」
いつもなら、桐久保さんにとめられると、言いなりになる弘のお父うは、金を受け取った今、酒の勢いも手伝だっているのか、桐久保さんがまだ話したそうなようすをみてみぬふりをして立ち上がった。それに答えるように「こんなつまらんことから、自明区と桧牧区が手違いして、校長の変わりよるいま、学校にまで影響しょるようなことがおきてはつまらん。はよ、手をうっとかんとあかん」と、桐久保さんは、さきほどまでの出来事を、思い巡らしているのだろうか、お父うにはわからないことを独り言のようにつぶやくと、いつもの山持ちの旦那らしく「榛原へ出かけて、無駄をするんやないで。せっかくの金や。おまえはんの言うように、家の中をいっぺん明るうにしたり」と、刻み煙草をとりあげて煙管に詰めながら言い、お父うの帰りかけるのをあきらめたようだ。
「旦那はんが気にしてはる前田の分の桧のことで、何か起こりよりましたら、いつでも手伝いまっさ」と、やっと桐久保さんから解放されるように言い、引き続き「奥さんえらいご馳走はんになりまして、おじゃましました」と、土間から台所の方へ大きく声をかけ、桐久保さんに頭をさげた。
「おっちゃん。さいなら」と、元気に弾んだ隆の声に送られて、お父うはいそいそと出口に向かい帰っていった。
「校長がかわりよる」と言う大変なことを手短に話した桐久保さんが、さも言いにくそうに「はよ、手を打っとかんとあかん」と、帰る間際につぶやくように言ったことはどう言うことだろう。詳しく話せないことは、どんなことなのだろうか。山持ちで村人の上に座る桐久保さんの面子にかかわることなのだろうか。いつもなら酔いがまわってきて陽気になれるのに、そのことに心をとられ、お父はすっきりしない。桐久保さんの言った「なにか、ことが起こらなければよいが…」が気に係りその言葉に気をとられながら歩いていたが、「どっちだっていいや。おれの知ったことじゃないわ」と、考えるのが面倒くさくなってきた。
 お父うは、懐中の大金を、衣服の上からおさえてみて手応えを感ずると、今度は桐久保さんのことを忘れたようにお金のことに頭を忙しく動かし始めた。「桐久保の旦那に借金はかえしたし…。お母の着物、弘の自転車、美代のシロホン…。さぁ〜なんぼぐらいいるやろか。一万円もあったら足りるかいな。そやそや、魚屋の安達の支払いとか、米屋の支払いを合わせて二万円か…。そしたら残り二万円や。お母に一万、おらに一万の小遣いがある。お母には着物買うてやるから、おらが二万円持っとろか…。しかし、おらが持っとったら使ってしまう。家の中のものを買うとしてやっぱりお母に渡しておこか。けど、お母にまかせておいたら、せっかくの大金を自分では少しも楽しめんやないか」……。
町村合併になり、垣内の山を分けられてここ幾日と言うもの、それをすぐ売り、金に変えることばかりを考え続けていた弘のお父うは、これですべてが解決したという気安さと余分に持った金のおかげで、長閑な足取りでおうように家をくぐった。

弘ちやんは生きている  (14)    木村徳太郎

春の日差しが、杉の木立から漏れて明るく暖かい。昼食をとりはじめて話し声がとぎれると、小鳥のさえずりがまるで、その鳴き声の意味が分かるように思えるほど、山の中は静かで、空気の流れさえ身に感じられる。その静けさに心がどっと融けこんで弘は呆けてしまいそうである。「カーン、カーン」食べている寿司のうまさと、地面を伝って聞こえてくる矢野さんたちの伐木の音が、温かい眠気の心をわずかにささえてくれる。山の中で、このように親子が重箱の寿司を突いていることが、弘には常日頃の暮らしのなかでは考えてもみられない楽しいことなのであったのだろう。お父うは煮しめを肴に焼酎を舐めるようにして飲みながら、弘と美代を交互に目をやって嬉しそうだ。この嬉しさが、お父うをせっかちにさせたのだろうか。それとも焼酎の酔いのせいだろうか。「お父うは、飯食うたら昼からは仕事やめて町へ行って来るわ。美代にシロホン、弘には自転車買ってきてやる。」と、弘と美代を嬉しがらせ、「だからゆっくり食べや。お父うもゆっくり食べて桐久保さんとこに行って来る」と、残りの焼酎を湯のみにあけながら言う。「うわっ。嬉しいなぁ〜。おらも町へ連れて行って欲しいわ」弘は口中の寿司を飲み込み、せきこんで自転車を一刻も早く買ってもらい、手にしたいと、言葉がもつれてくる。が、そうは言ってみても、まだ伐採予定の二本が残こっている。弘はそれに心が取られるのだろうか、それとも狐付きになったお母が心に掛るのだろうか、「お父う、もう伐らへんのけ。はよ帰ったらお母が怒こりやせんか?」とお父うが早く仕事を切り上げて家に戻る事で、狐付きになっているお母と、また諍いでも起こりはしないかと、そんなことを心配そうに言ってみる。「大丈夫や。こんなに豪華に寿司を作ってきよるぐらいやから、お母も機嫌がええんやろ。なあ、美代」弘の言葉にお父うは、美代のほうに冗談ごとのように問いかけてみる。「お父ちゃん、酒ばかり飲みよるから、お母ちゃんが怒りよるんや」美代は指先に付いた飯粒を、口ではらいながら、お父うよりも、お母のほうが良いんだと言はぬばかりの強い口調で答える。その言葉に「おまえはお母の子やろ。そんでお母の味方ばかりするんやろ。お父うは自分の金で酒飲みよるんやないか。それがなんで悪いんや」お母がおれば妹の美代にも気が弱いが、自転車を買ってもらえる今日は、お父うがこの上もなく頼もしく思えるころへ、ここにはお母がいない。常日頃のうっぷんをぶちまけたように弘は美代にくってかかった。「お母ちゃんに言うたるわ」美代の癖で、これはいつも言う言葉だ。弘は余計に腹がたってくる。それにお母のいないことがいっそう心を逸らせる。「なにおっ〜」兄らしく強い口調で言い返し、腰を浮かして美代につっかかっていこうとした。どうして後妻のお母のことで、このように兄妹まで感情の食い違いをさせるのか、お父には分からない。いまにも喧嘩になりそうな気配に親子三人が楽しんでいた食事の気分も、一度にぶっ壊されてお父うは淋しい気持がした。でも、喧嘩はとめねばならない。「弘、そんなことやめとき。飯食ったら早よ枯柴を家に運んでおけ。お父うは町に行ってくる」弘にそのようにお父は指図すると、重箱の空のぶんを重ねた。「うん。枯柴を運んでおくし、お父う早よ帰えってきてや」
すっかり腹はふくれたのだろうか、残りの巻き寿司も口の中に運びながらあっさりと美代から目をそらして答えた。
昼の弁当が終わり重箱の後始末をしていた時、矢野さんの若い者たちが、やはり昼食にでも帰るのか、小鳥をひとしきり騒ぎ飛び立たせ木立の中をこちらのほうに姿を現した。
             ☆☆☆
「昼間から、酒の匂いがするではないか」山を売った代金を桐久保さん宅にうけとりに来た弘のお父っあんに桐久保さんが言う。「へえ、山へ届けてくれよった弁当についとりましたんで…」昼間だからとて酒を呑むことを咎められる事はないが、お父うは、桐久保さんに言はれると、それが桐久保さんの自分へのおもいやりと受け取って恐れ入る。「山の代金を支払うが、また呑むじゃなかろうな。なんだったら家に届けさせよか」。「いいや、心配おへん。必ずお母に渡します。それから少しだけ余分な金がで出来たら一杯ぐらいひっかけますわ」「それが悪いんや。そんな心がけじゃから困るんや。渡すこの金も無かったものやと思って、余計なことには使わんこっちゃな」桐久保さんは二つに折った千円札の束をひろげてもう一度数をあらためながら言い、十枚づつおうの前に並べはじめる。「五万円。もう一度調べておくれ」。お父うは、十枚づつを読みなおし、千円札で五十枚の五万円を受け取ると、桐久保さんがさしだした領収書に署名をして拇印を押した。
「旦那はん、えらい迷惑をかけました。これで借金も済み、おまけにおつりの五万円も貰ろてこれで大助かりですわ。町村合併のお陰どす」と、内懐中に二つ折にして千円札を治めお父うは上機嫌だ。金をうけとると一刻も早く家に帰えりたそうで腰が落ち着かぬのだろうか、桐久保さんが入れているお茶を「旦那はん。お茶はもうけっこうだす。早よ帰ってほかの借金の支払いをすませ、さっぱりしとうおまんねん」と、断りながら腰を浮かせた。その様子に、桐久保さんは「借金の払いはそうせかなくってもええやないか。金を持ったから、一杯飲みたくなったんではないのか。飲みたければ家にある。無駄な金は使うわんこっちゃ」と、心配そうな様子で言う。そう言はれて、お父うは桐久保さんの意向にさからって機嫌をそんじてはいけないと思いしぶしぶまた座敷の上がり口に腰をおろした。
そのとき、隆が奥から顔を出すと、「おっちゃん、弘っちゃんも、もう山から帰えってきたんけ」と尋ねながら奥さんに指図されたのだろうか、菓子器を持って弘のお父うの前に置いた。「まだどす。山におって枯柴を運びよりまんねん」桐久保さんが入れた茶をすすりながら答える。
「鳥小屋の掃除もすんだし宿題もしたから、僕も山に行ってこよう。なぁ、行ってきてもええやろ」桐久保さんのほうに顔を向けて、返事を聞こうとする。その隆の言葉に「弘ちゃんは、枯柴拾いして家の手伝いをしよるんや。邪魔したらあかん」と、桐久保さんはきつく言い、思い出したように「そうそう。宿題の団結のことで、前田の子供が教室で垣内の山分けるのに、えこ贔屓すると言いよったことは、ほんまか」と、聞きなおす。「もうそれは、山で言うたやないか」二度も同じ事を聞かれて隆は不服そうだ。そっけなく答えて奥のほうへひきかえそうとした。すると、今度はお父うが「先生が不公平なことは、団結して交渉したらええと教えよりましたんやろ。でも、先生はなんで不公平やなんかはそんなこと知りよらしまへんやろ」
お父が、隆をひきとめるように言った。隆は弘のお父うにまで、わざわざ言われてどうして、大人はそんなことに心をとられるのか分からないだけに、戸惑って立ち止まった。隆が答えないで立ち止まったのをみると、「坊、つまらんこと聞いてすんまへんなぁ。坊はなんにも知らへんから、よろしおますがな、村のことを先生が不公平やなんて言いよるのが、おかしおまんねん」隆にた尋ねたことを詫びるような口調で言い、今度は桐久保さんのほうにむかって、「前田もつまらん奴どんな。垣内に帰ってきてわずかしかならんのに、権利だけ言いよってからに。旦那はんにまで心配かけよってしょうがない奴や」そう言う事が、桐久保さんのご機嫌をとるとでも思っているのだろう。桐久保さんの顔色を伺いながら言う。お父うが桐久保さんに話しかけたので、隆は大人のわけの分からない話から逃げるように、急いで奥へ去りかけた。その隆に「お母さんに言って、なんかつまむもんと、コップに酒を入れてきてもうたり」と言いつける。弘のお父うからも何か聞きたいことがあるのだろうか。それとも桐久保さん自身が、話したいことがあるのだろうか。

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