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弘ちゃんは生きている (18) 木村徳太郎
「おら、先生に怪我のときも乗せてもろたし、また乗せてもろって嬉しいな」背で、父親のことよりもそんなことを言っている弘に答えないで、梶野先生は自動発電ランプの明るい光を暗い空間につきさし、その一筋の光を前へ前へと押し進めるように町へ急いだ。「自転車は速いなあ。おらも今日、自転車買ってもらえるんや。買ってもろたら先生と競争するんだ」
梶野先生は、なにか考えているように弘の喜びの言葉にも答えない。梶野先生の様子に、常にないものを感じて、弘も黙ってしまった。<万や>の前を通り過ぎ、宇多川を左に折れようとした時だ。土手につながる県道に黒くうずくまったものに、梶野先生は「はっ」と驚いて、ブレーキをぐっとかけた。後ろの弘が梶野先生の背中にずしんとつきあたって、二人とも前にのめりこむようになり、自転車をとめた。「先生どうしたん」と、弘が体を少し横にねじまげて前を見る。発電ランプがとまって暗く、とっさには判らなかったらしいが、やはりおもい当たるものがあったらしい。「あ! お父うだ」と、梶野の先生よりも、先に気付いて自転車から飛び降りようとした。
「えっ」弘の言葉に梶野先生も自転車を降りようとするがそれよりも早く、弘は荷台から滑り落ちでもしたかのように降りると、黒くうずくまっているものに。「お父う」と、声をかけ手を伸ばした。
返事が無い。よほど酒を呑んで苦しいようだ。それでも弘と気づいたのであろう。黒くうずくまっていた人は「うーん。弘か。今ごろ何しにきた」と、舌ももつれて動くのが大変らしい。やはり弘のお父うだった。肩に手をかけた弘の手を振り払らって「なんじゃ。前田はどうした。前田は…。金は…。金は足りたか」と分からぬことをぶつぶつ言う、かと思うとまたうずくまって、大きな鼾をあげる。
「お父う。お父う。自転車はどうしたん」弘は一度に悲しくなってきて待ち望んでいた自転車の事を聞いてみる。がお父うはそれには答えないで「あかん。みんな、金使こうてしもた…。お父うあんは馬鹿やな」と、独り言のように言葉尻が弱くなり、弘にすまなそうに顔をそむけてしまった。
どうやら持っていた金の全部で酒を呑んでしまったようすだ。弘は気が狂ったように「お父うの馬鹿。お父うの馬鹿」と、叫び泣きながら、うずくまっているお父うの背中を握りこぶしでうちたたく。それどころか足で蹴りだした。その様子に「弘君! まあ、待ちたまえ」と、梶野先生が弘のお父うを弘から庇うように傍にかけより、弘の手をぐっと握り、弘を抱きとめた。
梶野先生は町へハイヤーを呼びに自転車をこぐ。ペダルが重たかった。弘も弘のお父うも哀れだった。弘は泣きじゃくりながらお父うの背中をさすり続ける。それでも「どうしてや。どうしてや」悔しさで土手を転がり落ちたい気持だった。
ハイヤーの金を払い、梶野先生は運転手に手伝わせて酔いつぶれているお父うを家の中に担ぎ入れる。狐つきのお母は、お父うの姿に怒りが爆発しそうだったが、梶野先生がいるので、爆発させることもならないのだろう。口早く事情をはなす梶野先生にも、腹立たしい様子だ。むっとした顔つきでものも言わず、美代に手伝わせお父うの寝床を敷く。
はじめて「なにぼやぼやしてんねん、早よ、お父っあんを寝かさんかぃ」口から針でも吐き出すようにきつい口調で弘に言葉を投げ飛ばした。弘は酔いつぶれたお父うよりも、お母のほうが恐ろしい。皮膚の毛穴の一つ一つから、お母の感情の高ぶりが電波で流すように突き刺さってくる。目からとめどもなく涙がこぼれている弘だ。辛いのであろう。子供だからこの不満を誰にも訴えることは出来ないのだ。お父うをかかえて引きずるように寝床に連れて行こうとするが、お母の呪いの術にでも罹かって腑抜けたような弘だ。お父うを引っ張って行こうとするがおろおろするばかりだ。
梶野先生が手伝って酔いつぶれているお父うを、やっと寝床にいれる。寝床に入れられたお父うは好い気なものだ。弘の哀れな気持ち、お母の怒りに震えた気持ち、そんなもの酔っ払っていてとんと感じぬ。「ウ、ウウーイ。ここは何処じゃ。水、水、水を持ってこい」まだ、町の呑み屋で酒をのんでいる夢でも見ているのだろうか、獣のように喚めいている。
梶野先生は、お父うを寝床に入れて形だけの上がり口に腰をおろすと、やっと自分の務めが終わったと言うふうに落ち着きをとりもどし、「大分酔っておられるようです。道で倒れておられたのですよ。どうもあま良いことではありませんね」とお母を見て言う。お母は梶野先生の目を避ける。若い先生からそのように言われることをお母は親切だとは思わないらしい。なんだかお父うのふしだらさと、自分の妻としての責任のなさを言われているようで僻んでいるのだ。その僻みがいっそう、お母をひねくれさせた、無愛想で梶野先生を睨んだまま、お茶を入れようともしない。腰を下ろした梶野先生に、「早く帰って欲しい」と言うふうなそぶりがみえる。「水、水、水持って来い」お父うがまた唸なった。その声に弘は家にいて、狐つきのお母と顔をつきあわせているのが恐くってたまらない。その恐さは酔っ払って魂の抜けたようになっているお父うでも、やはり頼りにしょうとするかのように、井戸へ水を汲みに走ろうとする。
「ほっとき」その様子をみて、お母が浴びせかけるように弘にどなった。はっきりとお父うに対して怒りをぶちまけているのだ。梶野先生がいるので、怒りを行いに表せないだけである。
弘は一瞬戸惑った。弘だけではない。お母のその言葉に梶野先生も、その場にいたたまれないふうに「おじゃましました。どうか気をつけて。静かに寝かせてあげて下さい。そのうち酔いも醒めるでしょう」と腰を浮かして帰りかけようとする。弘は「先生もう少しおって欲しい」と言いたいのだが口には出せず、涙の滲んだ目に哀願をこめて梶野先生を見るが、「じゃあ弘君、先生は宿直だから学校に戻る。用事があったら来ておくれ。さようなら」と立ち上がって表へ出ようとした。「先生! おらも学校に行く」弘が梶野先生について表に出ようとした。その背に「弘、先生の邪魔したらあかん」お母がとめる。
弘は立ち止まって、表へ出る梶野先生に「先生。お父う、すみませんでした」と、小さいがはっきりと言葉をかけ引きかえした。梶野先生と一緒に行くのを、お母に逆らうのが恐く思い返えしてあきらめたのだ。引き返して、お父うがまだ水を求めている声を耳にすると、こらえかねたように、水を汲みに行こうとしてコップを出そうと台所の隅の煤けて黒ずんだ水屋の戸を開けた。開けたがコップがない。お母に聞こうとしたが、先ほど止められたあの声の恐さで訊ねることもならない。何気なく見回すと、美代のみかん箱の机の上にある。「美代、ちよっと、そのコップとってんか」美代は素直にとらない。じろりっとお母の顔色を読んで聞こえぬ素振りだ。美代が聞こえぬ素振りをするものだから、弘は土間から上に上がりかけた。と「ほっときと言うてんのが分からんのけ」梶野先生が、帰えってしまってこらえていた怒りを抑えることが出来なくなったのだろう。つと立ちあがって、みかん箱の机の上からコップを手にとると、憎々しげに「オマエがつまらんもの買ってくれと言いよるから、こんなことになるんじゃ。甘えよって。おまえのような奴は家におらんと出ていけ」と言うなり、弘にむかってコップを投げつけた。子犬が身をさけるように弘は跳ねどいた。土間に砕けたガラスのコップ。目に涙をにじませていた弘は、こらえきれなくなったように、声をあげてなきだした。あふれる涙を手でこすっている。なにも弘とコップに当たらなくともよいのだろうが、狐つきのお母にそれは通じない。それをきっかけのようにお母は酔いつぶれて、寝床で唸なっているお父うの傍に近寄ると「あんた、どうしはりましたんやお金は。みんな使こうてしまいはりましたんか」頭に手をかけ、ぐいぐい揺さぶりながら聞く。頭を揺さぶられて、お母だとお父うは気づいたようだ。でも自分のやってきたことにまだ気づかぬふうだ。「ここはどこや」と、じろりと家の中を改めるように見回す。「なに言うたはりまんねん。ここは家やおまへんか。分からんようになるまで、呑みはりましたんか」家と聞いてお父うは安心したのだろうか、お母に「水、水をくれ」と、また催促。お母はその言葉を受け付けないで「桐久保さんからの金。みんな呑まはりましたんか。どこへ、お金をやりはりましたんや」と、問いつめる。それをうるさそうにお父うは寝床から立ち上がると、水を飲みに行こうとするのだが、体をひょろりひょろりと傾かせて土間に下りて行こうとする。行きかけて急に思いついたと言うふうに寝床を横にずらせ、畳の隅を上げた。そして出かける前に畳の下にに置いていった金を引きずり出し「うるさいなぁ。金はあるやないか、ほらみてみぃ」と、お母の手元に投げた。けげん顔ながらも瞬間、満足げに顔がほころぶお母だ。だが札束の薄いのに気づいたのだろうか、枚数を読み終わって「これなんだんねん。桐久保さんに貰らわはったのは、五万円のはずやおまへんか。後はどうなりましたんや」井戸に降りようとして下駄がうまくつっかけられないのだろう。体を揺ぶりながら下駄を履こうとしているお父うの側に近寄ると、お父うの背中に憎しみをつき混ぜた口調で、強くぶちまけた。お父うはそれには答えないで、泣いている弘を見つけると、酔った心にも少しは自分の誤った行いを思い出したのだろう。だが、その過ちを責められたくないとでも思うのか、泣いている弘をみると「やかましいやい。ごてごて言い寄ってからに。弘をなぜ叱り泣かすんや」と、お母の憎ゝしげな言葉を跳ね返すように言って「弘、泣くな。お父うにまかせとき」なにをまかせよと言うのだろう。よくわからない。自転車は買ってやるとでも言うつもりなのだろうか。弘に口調を和らげ言いながら井戸端のほうに行きかけた。その様子に、お母の怒りがとうとう爆発した「わての言っていることに答えられしまへんのか」と、後ろからお父っあんの襟首をつかみぐいと引き戻した。「なにさらしけつかる。酔っていると思って馬鹿にしてるのか」後に引き戻どされたお父うは、首をねじまげて、襟首をつかむお母の手をほどくと同時におもわず手がでてお母をぐんとはねた。酔っぱらっていても山仕事に従っているお父うの力は普通ではない。板の間に転がされたお母は立ち上がるとお父うに手向かって喉首に手をかけた。そのとたん千円札二〇枚がビラをまいたようにそこらに散らかった。お母が手に当るそこらの道具を投げ出した。お父うとお母の喧嘩が始まったのである。美代が泣き声をあげてお母にすがり付いて止めようとする。土間の隅で泣いていた弘はお母の手から投げつけられた道具が、地面にぶち当たった音にはじかれたように無我夢中で表に飛び出びだしていった。
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