来た道行く道通りゃんせ/風にのって花ひとひら

のんびりしたブログですがよろしくお願いいたします。

再び「弘ちゃんは生きている」

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 前のページ | 次のページ ]

弘ちやんは生きている  (8)    木村徳太郎
                 
 鐘に誘われるように学童たちが教室へ去ってしまうと、宿直室に一人残された弘は淋しくてならない。三つの林檎のうち二つを食べ、妹の美代に一つ持って帰えってやろうと、一つには手をつけていないが、手持無沙で小使いさんが置いて行ってくれた一きれのスルメを噛み始めた。
香ばしい匂いが口に広がる。その匂いの中に、桐久保さんへ行ったであろうお父うのことや、自転車のことを思って淋しさをまぎらわせた。
あまり顎を動かしすぎたためか、二針縫った傷がほころびたように痛み出し、包帯がずり落ちそうになる。元に直そうと包帯の結び目を手探りで探し、締めなおそうとするが、半分ばかりがほぐれてしまった。
「弘、ほどいたらあかんがな。」
梶野先生が、弘のお父うと宿直室に来て、弘のその様子に驚き注意した。
お父うが「ずったんかいな」と、言いながら傍により包帯を巻き直してやる。
巻き直しながら
「スルメをしがんどんのかいな。スルメみたいなものしがむから包帯がずるんや。やめとき」不服そうに言い、弘の口からはみだしているスルメを手でもぎとろうとすると、弘は「おら、小使いさんに貰ったんや」と歯でくわえてとらせようとしない。弘の言葉に、お父うは包帯を巻きなおす手をとめて、梶野先生の方を振り返り、
「先生。えらい心配をかけてすんまへん」スルメの悪口を言ったことに、ばつが悪るそうだ。
「どうしまして」と、梶野先生は答えたものの、スルメを噛むと包帯がずり落ちる。そこまで気がつかなかつた不見識を問われているようで、少しとまどった様子だ。が、小使いさんの不見識を問われるようなことは、若くとも先生だ。すぐに、
「スルメは造血剤に一番良いのでして……」と、学識のあるところをみせ、教師の立場を保つようにやりすごした。
「造血剤って、そない血が出ましたんやろか」「たいしたことはないです。四、五日もすれば元通りになります」と傷の説明をする梶野先生。たいしたこともなさそうな様子にほっとしたような弘の父だ。
「医者からの帰り道、お家へ行きましたが、弘君が学校に来たがるもんで」と、梶野先生はつけ加えた。
「へえ、えらいすんまへんなぁ。お母がどうもきつくって」と、お父うは恐縮して言い、母親のことに触れられることをさけたい様子だ。
「弘。お父うと家へ帰って寝よう」と、包帯をまきなおしてやり手をひっぱって弘を寝床から立たせようとする。
「おら、学校が終わったら帰る」
残っている林檎とスルメに目を落とし、帰えりたくなさそうな弘だ。その様子に梶野先生は、残っている林檎を新聞紙に包みながら
「弘君。お父さんも言うてはる。一緒にお帰り」と、包みを弘の手に持たせ帰宅をすすめるが、「いやや。学校終わるまでここにおる」と、弘は駄々をこねる。
その弘の心を和らげるように「どうも、お母と具合が悪るうて困りますわ」と、一人言のように言って、やはり家庭内の事に触れられたくなさそうだ。
「いや、そのことは……」と梶野先生は、ちよっと言い澱みながらも「弘君が学校に出した詩を読ませてもらったんですが、お父さんがおられない時の弘君は、どうも具合が悪そうですね」と、弘の詩を「こんな詩です」と唱じた。
詩を口ずさみながら弘の家の事を思う。思うと、弘の家に行った時の母親のヒステリックな仕打ちも、家計が豊かでないことが原因ではないかとも思えてくる。
 常日頃話し合う機会のないお父うに、受け持ち学童のいろいろなことを話す今が、よい機会ではないかと梶野先生は思った。弘の詩を口ずさみ終わえて「深酒はあまり良いことではないようですよ。奥さんの機嫌の悪いのも、それが原因ではないのですか」と、気軽く言ってみる。
「そりや先生。そんなこと分かっとりまんねん」お父はへら、へらと笑って、恥ずかしそうに言う。
「少しは慎しまれたらどうですか。弘君とお母さんのうまく行かないのも、それが一つの原因ではないですか」梶野先生はやっと本筋に入ったと言うふうに力をいれて話し始めた。
「へえへえっ、へえ…」
笑って答えない弘の父。その父に
「桐久保のおっちゃんもそない言いよった」と、弘が口出しをする。
弘にまで口出しをされ、お父うは「お前は黙まっとり。自転車、買うたらへんぞ」と、そんなことを言ってごまかそうとする。が、たしなめられているのは自分だと分かっているお父うだ。間が悪そうに
「弘。早よ帰えろう。自転車を買うたる。もう、そんな詩とか言うもん書かんといてや。お父うはさっぱりやがな」と、それとなく梶野先生から嗜められていることや、弘の口出しをはぐらかせるように笑って言った。
「先生。えらい迷惑をかけてしもうて、すんまへんでした」と、弘の手をとり急いで帰ろうとする。
「おら、寝とってもそればかり思っとったんや。山は、売れたんか。お金はもろたんか」と訊ねる弘に、お父うは「お金はまだやけど、きっと買うたるよってに、早よ家に帰えろ」と、再び弘を強くうながし帰ろうとする。
「ほんまやで。ほんまに買うてくれるんやな。おら、嬉しいな」ぐずっていた弘は、やっと怪我をしていることも忘れたように、お父うの言葉に嬉しそうに答えて従った。
 枕元の学用品をまとめてやりながら、梶野先生は「服がまだ乾いていません。後から誰かに届けさせます。傷が痛まなければ月曜日から学校に出させて下さい」と言い、弘に荷物を持たせて、弘と弘のお父を宿直室から送り出した。送り出しながら
「弘君。自転車のことばかり考えよるから、木から落ちよるんやで」と、弘をからかいながら、山を売って金が入ればその当座は生活にゆとりが出来、母親の心も一刻は和らぐであろうと弘のことを思ってみた。
            ☆☆☆
 日曜日。春の朝はいつまでも眠いものである。寝床の中でその温もりを楽しみながら、弘は昨日、自明垣内の奥田君や隆、級友たちが十円づつ出しあって買った菓子折りを持って、怪我見舞いに来てくれた時のことを思い浮かべていた。
そのとき、隆と奥田君が話していた、国語の農地改革につながる「団結についての詩」の宿題を気にしながら、「どんなものを作って行けばよいのだろうか」と、ぼんやり考える。
『団結とは…(多くのものが一体になるさま)』すると、「あっ、杉山だ」。嶽の山、長嶺、長谷山、船尾山…。どの山にも、杉や桧が「団結」して他の山とはっきり区切られ、一団結をしているではないか。
分けられた垣内の山を売って、自転車を買ってもらう。弘の頭の片隅にはそのことが、たえずこびりついている。だから、学校の宿題も、それにどうしても繋がって考えが浮かんでいくのだろう。「そうだ。おら、杉山のことを詩に書こう」
そう思いを決めると眠気が一度に吹き飛び、寝床の中から、亀の子のように首をもたげて、隣の美代のほうをそっとみる。
おかっぱの髪を乱し、小さい唇から白い歯がのぞいている。その上下の歯の間から、日曜の気安さを語っているように寝息が正しくもれている。
お父うのほうをみる。いつも身に着けているシャツのまま、寝床にもぐっている。両腕を寝床からはみ出させて、吸う息とはく息の違いをはっきりと音にあらわし、その息に酒の匂いが混ざっているようだ。おまけに、シャツの汚れがはっきりと目について、弘は少し淋しい思いになる
お母の方をみる。鏡台で髪をすいていたお母は、弘が顔を向けたのに気づいたのだろう。髪をすく手を休めて振り返り、
「弘、竈(かまど)に火をつけてんか」と、きつい目でじろりとにらんで言う。
「おら……今日は日曜だからゆっくりさせて」と、言いたかったのだが、弘はお母のつりあがったきつい目に出合ってなにも言えなく「うん」と答えて、しぶしぶ寝床から起き上がった。
 起きて便所に行きかけ、鏡に向かっているお母の横顔をちらりと盗み見て
「お母は、また、狐つきじゃなかろうか」と、どきりとした。
お母は、狐のように目がつりあがり、常日頃からきついお母が、よりきつくなっている。すぐれない顔色に、指先で目じりをつりあげたように、きつくなっているのがわかる。弘はそんなお母を「狐つきの時だ」と思い、さわらぬようにして黙ってしまった。
 様子をうかがう弘の動きに、お母は「なにをぼんやりしとるんや。日曜ぐらい、手伝いをしたらどうやねん」とどなるように言い放つ。
男の子に、飯炊きをさせようと言うのだ。世間ではそんなことはあまりしない。弘は、そんなことを言いつけられるたびに「お母は継母だから、おればかり苛めよるんや」と、気弱く割り切ってあきらめている。おまけに、「お母は、また狐つきが始まったんじゃから、逆らったらどんなことになるか分からない」と、恐れの心のほうが先にたつ。逃げるように土間をぬけ、庭をよこぎり走って、弘は便所に駆け入った。

 太陽の光が、荒壁の破れから漏れ、しゃがんだ弘の股を明暗のまんだらに染める。「ぽとーん…」
なにか知りたいふうな心がはやって、便壷に目をやる。
臭気が鼻をつき濡れた新聞紙。茶褐色の便。その中に、柔かそうな、まだ新しく白い紙が桃色の絵の具にでも染まったように落ちているのが見える。
「何じゃろう」と思うよりも、弘はお母がいつもの狐つきになったことを、はっきりと知ったようで、しゃがんでいても落ちつかない。
 しゃがみながらそれにつながって、昨日、松の木から落ちて怪我をし、血を流したときに、越出あや子が貸してくれたハンカチが、みるみるうちに血にそまった。その時のハンカチのことを思った。
 便所を出て、冷たい井戸水で歯をそそぎ、顔を洗った。頭の包帯がじゃまで、いつものようにさっぱりと洗えない。洗いながら、隆と約束をした赤い百合のことを思う。もうすぐ百合が咲き出すだろう。
 寝巻き姿のまま竈の前に座る。古新聞をちぎって火をつけ、そのうえに杉葉をのせる。杉葉がいぶって、土間に靄のように煙がひろがって山の匂いがする。
「ご飯だろうか。粥だろうか」
弘は竈に仕掛けられている釜の蓋を開けてみた。そして、
「今日、お父うとおらは一緒に山に行くのに、弁当はつくらんのけ」蓋を開け中が粥と知って、枝柴をぽきんぽきんと手ごろに折り竈にくべながらお母に聞いてみた。
「黙まって炊いたらええねんや。米櫃(こめびつ)に米もあらへんのに、朝からご飯など炊けるかいなぁ」
狐つきになっているお母に逆らってはいけないと思いながらも「だって、おらたち山に行くんだぜ…」と、昨夜、自転車を買ってもらう喜びを一刻も早く具体化するために、お父うと一緒に山へ行くことを約束している弘は、その予定を狂わせられたようで、つい不満気に口をすべらす。
 米櫃に米のない貧乏暮らしだけが、おっ母をヒステリーにするのではないようだ。(お母は、他人には分からないが、月のものという生理がくると、気がたかぶり荒れ狂う狐つきになるのだった。)

弘ちやんは生きている  (7)    木村徳太郎
      ☆☆☆
木造校舎の板張りの床から、柔かく陽炎が揺れている。静かな教室で陽を受けて授業が始まっていた。
「越出あや子」梶野先生があや子を当てた。
立ち上がったあや子は、教科書を真直ぐに持ち、元気な声で
「(三)農地改革。進さんは、ついこの間まで田畑がずうと昔から自分の家のものであったと思いこんでいた。ところが、この間、祖父からこんなことを聞いた。「うちの田や畑は、進の、曾爺さんのお父うさんの時から、うちのものだったが、暮らしに困まって、私のお父うさんが、山野さんに売ってしまったのだ。そして、その土地を山野さんに頼んで、小作させてもらっていた。だから、山野さんにお米を納めるたびに、この土地を買い戻すことが出来たらと思わないことはなかった。私のお父うさんが、四十六歳で亡くなる時『おまえが大きくなったら、私がなくした土地を買い戻してくれ』といった言葉を忘れる事ができません。山野さんは大地主で、四十町歩の田畑を持っていた。この村では、山野さんのほかに、土地をもっている家は、五十軒しかなかった。ところが、昭和二十二年の農地改革で、山野さんは一町たらずを残して、田畑をみな小作人に分けることになった。そして、土地を持っている家が急に百軒以上になったのだ。私がお父うさんの願いを果たそうとして、いろいろ努力してみても、うまくいかなかったのに、農地改革で、土地が自分のものになったのだ。このとき仏壇に灯明をあげて『お父うさん、土地が戻どりましたよ』と拝んだよ。自分の土地だと思うと、うちおろす鍬にも力がこもる。日本の田畑はもともと少ないのに、一部の地主が多くの土地を持っていて、土地を持たない農民は小作人となって、出来た米の半分以上を地主に納めていた。そのうえ、いつなんどき小作地をとりあげられるかもしれなかった。小作人は、地主や金の借りた人には頭が上がらない。それで、村や国の政治は、地主や金持や勢力のある人々の考えで決められることが多かった。戦争がすむと、連合軍はこのような仕組みを改めるために、地主の土地を小作人に分けるように政府に言いつけた。そして、このことが国会できめられ農地改革が実行に移されたのである」
あや子はよく通る大きな声で読み終わって、椅子を引き腰をおろした。
教壇から降りて片手で本を持ち、片手をぽけっとに入れて、梶野先生は横の椅子にそりかえるように掛けて、
「農家の歴史のうち(一)むかしの農家。(二)明治の農家について、よく分かりましたね」と、言い「それでは農地改革で、喜んだのは誰ですか」と、学童と本を交互に見ながら質問をした。
「はあ〜〜い」
奥田君がいきよい良く手をあげる。手を大袈裟に振りながら「はあっい。はあ〜い」と、七、八人がそれに続く。あてられた奥田君は、きほって「進のお父さんです」と答えて腰をおろした。奥田君と違う答えを考えていたのか、奥田くんの答えに、手を上げていた学童たちが自信のなさそうに上げていた手をひっこめてしまった。
「そうです。進のお父さんですね」
奥田君の答えに同意して、梶野先生は「ほかに喜んだと思う人は・・・」と、再び質問をする。誰も手をあげない。越出あや子がぽそりと手を上げた。奥田君があや子を怪訝そうに睨む。
「越出あや子! 」当てられてあや子は姿勢を正して立った。
「小作人です」あや子は答えながら、ちよっと自信がなさそうに、梶野先生の顔色を見ながら腰をおろした。
「そうですね。喜んだのは小作人です。勿論、進君のお父うさんも喜びましたが、小作人全部が喜んだのです」
梶野先生の言葉に、あや子のほっとしたような顔に紅がさした。
梶野先生は話を続ける。
「それでは、小作人はどうして喜んだのですか。喜んだ訳の言える人」
越出あや子と中峰由子が手を上げ、今度は中峰由子が当てられた。
「小作人は、地主やお金持ちには頭が上がりません。それで、村や国の政治は地主や、金持ちや勢力のある人々の考えで決められて、貧乏な者は、苦しくても辛抱していなければならなかったからです」ちよっと教科書に目を落とし、終わりのほうは教科書を読むように答え
「それで、みんなと同じように土地を分けられたから、お金持ちも、貧乏人もなくなったから、喜んだのです」息をつぎながら答えを足した。
「由子さん。うまく答えられましたね。それに新しい法律では、身分や門地、お金によって差別がなくなりました。これは大変良いことだと思います。それでみなさんも平等ですから思ったこと、考えたことは遠慮なく、どしどし実行して個人の幸福と言うことを考えねばなりませんね」
ポケットから手を出し、歩きながら言葉を続け、教壇に上がって行き、チョークを持った先生は黒板に書き始めた。
農地問題
小作人
権利
平等
団結
と、大きく書き、四、五の項目を記し初めた。
「先生。先生」
誰かが小さい声をあげている。
黒板に記する手を休めて「なんです」と、梶野先生はふりかえった。
常日頃質問や、答えをしたことのない前田朝子が、恥かしげにもぞもぞと立ち上がり
「先生、うちのお父っあんが、垣内の山を分けるのに、おいらを馬鹿にしよって不公平だと、昨日怒って泣いとりましたが、不公平なことは黙って泣いていることはいけないことですか」
思っている事がうまく言えなくって、もどかしそうだ。
「それはどんなことですか」
朝子の考えを引き出すように優しく梶野先生は聞いた。
朝子は、戦災で六年前に村に帰り農家の離れを借りて住んでいる。父親は、垣内の雑用や、山稼ぎをして暮らしているが、今度の町村合併で垣内の山を分けるのに新しく村入りしたものには、等分に分けられないから、不公平だと不服を話しているのだった。
梶野先生は、権利、平等について、話そうとすすめていたのが前田朝子の発言でとまどってしまった。
「よく分かりました。が、村のことは、先生にもよく分かりません。研究してみて答えますが、人間は誰でも平等ですから、お父うさんの話し方がたりないのかもしれません」
と言いながら朝子を見る。
桃色のワンピースは、垢に汚れてよれよれ。髪は家で鋏をいれるのだが、不揃いで長く、額にかぶさり、目が隠れそう。都会で長く暮らしていて村に帰ってきた前田さん。子供四人をかかえて、垣内の歩きの賃金に、なれぬ山稼ぎでは仕事もはかどらない。家族の生きていくことの苦しさが、朝子の様子に表れている。
それに合わせて、「自転車を買ってもらう」と、医者からの帰りに、嬉しそうに言っていた弘のことをふっと思い出した。
垣内の山を分けるそのことが、学童の生活にもひびいてきているのだ。
 生活とお金の繋がりが、暮らしに苦しんでいるものほど切実なのだろう。
お金に繋がりのあることだけに、大人の間の出来事も、学童の弘、朝子の心にも雨滴のように、しみこんで行ったにちがいない。
 村入りしたその日から、法的には、村の住人としての権利が生ずる。それを村入りした年数で分割するのは不公平なのは明らかかもしれない。
 学童は家庭の出来事も、教室に持ち込む。朝子は、社会的身分、政治によって垣内の山を分けることの不公平を主張しているのだ。だが、垣内で決められた分割方法に、個人の権利を主張したなら、決局どうなるか……。
梶野先生はすぐに判断がつかない。
権利。平等。団結。
黒板に記された文字に、目をうつして朝子の質問に答えないで
「朝子の話は、先生の宿題として考えます。明日は日曜日ですから、農地問題で、平等の権利が行なわれない時、団結して交渉することが、保障されていますので……」と、
黒板に記された団結の文字を、赤いチヨークでぐるりと囲み、
「団結と言うことについて、宿題を出します」
言いながらカチカチと、チョークの音をたてて書きはじめた。
(日曜日の宿題)
◎ 小作人。権利。平等。の意味を書く。
◎ 団結。と言う言葉を使って、自由詩をつくる。

書き終わった梶野先生は、教壇の机に両手をつき
「個人の自由は保障されていますので、自由が侵されれば、権利は主張しなければなりません。それには同じ考えの人と団結して、行動することが大切です。日本は戦争に敗けて、みんな平等に幸福になるための法律が出来ましたことは、大変幸せなことです」と、話す。話しているとき、不意に
「先生。おらとこ、誰と団結すればよいのですか」腰掛けたまま前田朝子が、父が不公平だと怒っていることを、ほぐす糸口を感じでもしたのか、鼻をすすりながら言う。
「それは……」
梶野先生はとっさに答えず、手を後ろに組んで教壇から降りてきて、
「日曜日の宿題です。団結の自由詩を作るためによく考えれば分かってくると思います。
先生が教えるよりも、みんさんが先に自分で研究することが尊いのです」
学童の机の間を歩きながら話し、前田朝子の横に来て、
「先生、またゆっくりと話したる。お父っあんの話よく聞いてから……」と、小さい声で、不服そうな朝子を、得心させるふうに軽く手で肩を、二、三度優しく叩き窓の外に目をやった。
と、向こうの教室をのぞいている大人がいる。教室の学童が窓を開けて、こちらを指さしていた。学童に指さされてこっちを振り返ったのは弘のお父うだった。
梶野先生を見てこちらの教室へいそいでかけて来る。
梶野先生は窓に寄っていき硝子窓を開けて、
「よく来てくれました。弘君は宿直室です。傷はたいしたことありません」
弘の父に大きな声をかけた。米つきバッタのように、弘のお父は頭をさげながら、
「先生。えらい手数かけました」と、教室の中へまわって弘のお父が入ってきた。
「平等。権利。を静かに自習」「先生、ちよっと弘のところまで行って来ます」
弘の父を迎えてお父を宿直室に案内して行く梶野先生。
先生がおらなくなった教室は急に騒がしくなる。
「おら、難しゅうて分からん」
奥田君がたまりかねたように、そんなことを言って、教科書を「ぱたん」と閉じて
隆に、にやりと笑いかけた。
なにかいたずらが、また初まるのだろう。

弘ちやんは生きている  (6)    木村徳太郎

 入り口を入って二坪ばかりの土間。土間に竈(かまど)がありその後ろに山行きの道具が一揃えと、お父うの山行着がかけられてある。
その山行着をみて、梶野先生は弘が書いて出した詩を思い出した。

   どこに行ったのか
   ぺたんと
   お父っあんの仕事着が
   かべにかかっている。
   山に行かないで
   酒をのんでいるのだろう。
   かべに仕事着があると
   お母の機嫌がわるい。
   かべの仕事着をみると
   おいらはこわくて
   外に遊びに行く。

 炊き口が一つしかない竈。部屋は六畳。それに二畳ほどの板の間。裸電球が一つ。長いコードがだらしなくたれている。どちらにも移し明かりをとるのだろう。煤で家の中がくすんで暗い。お母の内職の真珠玉だけが、荒壁の落ちた所から洩れる光で、明るく豊かに見えるのが、いっそう貧しさを語っているようだった。
受け持ちの児童たちの家庭訪問で、児童の家に初めて来たのではないが、弘を受け持って弘の家庭内がしっくりしないことを、つい近頃梶野先生は知った。
弘の良い母親になりえないのは、貧乏なそんなところにも原因があるのではないか。
「お母も悪いが、お父うも悪い」と、昨夜、桐久保さんが言ったこととを、弘が書いた詩を思い出し、お母が柳ごうりから弘の衣類を出す間に家の中を見まわして「なるほど」と梶野先生は胸が痛んだ。
 やはり受持ち児童の家には、度々訪問するほうが良いのだろう。弘の家に来てよかったと思う。
「足、痛うないか。」「痛まん!先生と学校に行く」
 家庭の事情が深く分かり、お母と折り合いの悪い弘を家に残しておくより、学校に連れて行ったほうが良いようにも思える。弘は母親のじゃけんな様子、それを願っているようだ。
 まだ少し、初夏の風には早いと思える開襟シャツを弘に無造作に着せ、「服は家で洗います」と辞退する母親に
「学校で洗わせますから。学校から帰るまでには乾きますでしょう」と梶野先生は答えながら、弘のことが心にかからないのか、一言の礼も言わないお母をを後にして、血の付いた服を新聞紙に包み、弘をつれて表に出た。
       ☆☆☆
「ガラン、ガラン」
授業の終った合図の鈴(りん)を、小使いさんが鳴らして教室を回っている。宿直室で休んでいる弘にも届いてくる。清んだ音色だと弘は思う。石鹸と糊の匂いがほのかに鼻につく清潔な布団。家のあかじみた布団とは違う。どこまでも余韻を残して響いていくような鐘の音と共に、なんだか体が浮くようで落ちつかない。
先生の宿直室で聞く終業の鈴は、いっそう落ちつけなくくすぐったかった。
弘は布団を頭からかぶった。そこへが学童たちの騒がしい声が響いてくる。
休みの鈴で来るだろうと思った学童たちがあんのじょう、
「弘ちゃん!弘ちゃんていうたら、弘ちゃん」と、騒がしく宿直室の入り口で呼んでいる。頭と足の甲に包帯を巻いた弘は、照れくさくかぶった蒲団の奥へさらにもぐって動かなかった。
「死んでるのとちゃうか」男の学童が言っている。
「ほんとや。死んいるかもわからへんで」と相づちをうっている女の学童。
「あほ言え。弘ちゃんは不老不死の薬を飲んでるんや。死による分けが無い」
騒がしい学童たちの声を打ち消すように、大真面目な顔で隆が言う。
「不老不死ってなんや。それ」奥田君が問い正してくる。
「教えられへん。けどその薬を飲んだら、人間は死なへんのや」
「あほ。そんな薬どこにあるんや」否定する奥田君に、隆の言葉がとぎれ、
「ほんまやわ。隆さん、何を言うてはんの」と、女の学童たちが奥田君に加勢している。
「ちよっと上って見てみよぉ」奥田君が宿直室に上がってくる。それに続いて、がやがやと騒ぎながら同じ様に上がってきた学童たちは、布団をかぶって動かない弘を取り巻き、
「弘ちゃん。弘ちゃんって」と、口々に呼ぶ。しかし、いっこうに掛け布団の空間から頭の白い包帯だけを少し見せて、弘は動こうとしない。
「寝てよるんやろか。」隆が掛け布団の裾を軽く持ち上げると、
「ううん。痛い」と、同時に手で布団を「ぱっと」押しのけて、弘がしかめた顔をして言った。
「なんや、死んだ真似してはったんやわ」女の学童が、馬鹿にされたと言うように愚痴った。
「それみい。死んどらへんやろ。弘ちゃんは死によらへんのや」
さきほどからの、自分の話をみんなに頷づけさせるような言い方をした隆は、
「痛いっ」と言った弘の声と、頭に巻かれた包帯に気付いて、自分の粗忽さを詫びるように「痛いことあらへんか。布団をめくってすまん」と言う。
「ううん。大丈夫や」と照れくさそうに言う弘。
布団にもぐっていた息切れではなく、級友たちにとりまかれてはにかみ、頬を赤くした弘が首を振って答える。
弘は、みんなにとりかこまれ、こんなに関心をもたれたことが照れくさく、また嬉しそうだった。
木から落ちた一瞬のこと。梶野先生と医者に行ったこと。そして傷のことを話す弘とそれを熱心に聞いている学童。そんな話とは別に自分たちだけのことを喋りあっている学童たち。宿直室は子供たちの賑やかな声が響いていた。
「弘ちゃん、これ買ぅてきた。あ〜〜しんど!」
弘の話がとぎれた時、越出あや子が息を切らせて宿直室に上がってきた。
丸まった新聞紙の包みを持ってあや子が
「『先生が始業の鈴のなるまでに買ぅてこい』と言わはって、走ってきたんやで。あ〜〜しんどかった」と言いながら、くるんだ新聞紙をひろげて弘の枕元に置いた。赤いリンゴが三個転がりでた。
「僕にくれるんか」
「うん。先生が弘ちゃんにやってくれと言わはったんや」怪訝な顔の弘に、あや子が勢い込んで説明をする。
 みんなに囲まれ、その上に先生からリンゴをもらって弘は、いっそうにこにこ顔になる。弘の顔もリンゴのようだった。
「リンゴの皮は剥かなあかんがな。気のきかんやっちゃな」機転を利かした隆の言葉に、あや子はすまなそうに、はにかんで、やはりリンゴのように俯いた。
「うちが、剥いてきたろ」
「うちや」「うちやし」小使いさんのところへ包丁を借りて、リンゴをむきに行くのをとり合う女の学童たち。
「やかましい!」それを見て奥田君がどなった。
その声にあわせるように
「ええっ、何を喧しく言うとるんじゃ」と、校長先生が学童たちの知らない人を連れて、宿直室の入り口から、顔をのぞかせた。
女の学童も、にこにこ顔の弘も、どなった奥田君も、隆も、男の学童も、バツが悪そうな様子で入り口の方に向って、もぞもぞと行儀よく座りなおした。
「弘。どうじゃ」
校長先生がスリッパをぬいで、上がって来る。
いつもとは、何となく校長先生の様子が違う。それに知らない人も一緒に上がって来たので、学童たちは黙って、お互い指でつつきあいをしながら、しおらしく校長先生をみつめていた。校長先生から言葉をかけられることなどは、かってなかったことだ。
恥かしげに、にやりと笑ったまま弘は答えない。校長先生は、今朝の出来事を小さい声で知らない人に話している。聞いている人は「ふうん、ふん、ふん」と、にこにこ笑って合槌を打っている。
話し終わると「静かに賢くするんじゃ。よその人が来られて笑っておられるぞ」と、学童たちに注意をして、校長先生と知らない人は「あっ、はっ、はっ」と大きな声をあげて笑い、笑い終わると
「弘、気をつけて早よなおれよ」と、弘に言葉をかけ、きょとんとした学童たちを残して宿直室を出て行った。
「あれ、なんじゃろ」奥田君が正座の足をたまりかねたように投げ出し、けげんな顔をして最初に声を出す。
「校長先生、いつもと違ってどないかしょったんやろか」「あれ、だれじゃろ。何処へ行きよるのかの。ちよっと後ろついて行ってみよか」きょとんとしていた学童たちは、思い思いの姿勢にかえると今度は知らない人について、また騒ぎ出した。
「おい、あや子。リンゴを剥きに行くふりして、見て来い」奥田君が越出あや子に命令するように言う。
「うちも、ついて行ったろ」
おきゃんな中峰由子が立ち上がると、隆がリンゴを持って立ち上がりかけた越出あや子をとめて、
「見に行かんでもええ。おら、知っとるん。ありゃ校長先生やが」と、真顔で言う。
「何を言うてんねん。馬鹿にしよってからに。校長先生やて言うのは分かったるがな」
奥田君は、隆の冗談ごとのような説明に、喧嘩ごしの口調になる。
「ちがう。あの人やがな」
「あの人って」
「ほら、今、校長先生と来はった、あの人やがな」「あの人って、いま校長先生と来やはった人か? アホな! 校長先生が二人もおってたまるかい」説明不足の隆の言葉に、せき込んで自分のいったことに自分が頷いたふうに奥田君は言い、
「リンゴ早よむいて来い」と、越出あや子にふたたび指図をした。
どう話していいのか、暫らくとまどっている感じの隆が、やっと話の筋がまとまったのだろう
「おら、お父っあんに聞いとったんや。校長先生、こんどの四月にかわりよるんや」
傷をした弘を見舞って宿直室にきた学童たちは、弘のことよりも、隆の言葉に心をうばわれ先ほどよりも、さらに部屋の中はざわめきだした。
「へえっ。ほんと? ほんとか」
リンゴを剥きに出かけようとしていた越出あや子も、奥田君も男女の学童たちも、隆に念をおす。
隆の話はまっさら嘘ではない。
現在の校長は停年で、昨年に退職することになっていたが、一教室増築中でそれが落成するまで「もう一年」ということで、特に許可されて奉職していたのである。「校舎の落成も町村合併になる四月には、新しい校長が赴任して来ることになっている」とお父さんから聞いていたと隆は言う。
「いまのは、きっとその今度来る校長はんや。それがこっそり見にきやはったんや」
隆の話は筋が通っている。それに昨年、そのような噂のあったことも学童たちは知っている。まして、桐久保さんは育友会の役員さん。学校の話になると学童たちは隆の話を疑わない。隆の話に、得心したように中峰由子が
「そや、そや。こんどきはる校長はんや」と、言った。それにあわせて
「わあっ。校長先生、代わりはるんや」女の学童たちが、いっせいに手をうって騒ぎだした。
「そんなアホなこと言うたら、叱られるぞ」隆の話に手を打って騒ぐ女の学童たちを睨みながら、隆に言う奥田君。
「ほんまやから、しかたがあらへんわ」
言われた隆はちよっとバツが悪そうだが、言葉を改めない。
「ほんまか嘘か、小使いのおばちゃんに聞いて来たろ」越出あや子がリンゴを持って立ち上がって駆け出していく。二,三人の女の学童がそれに続いた。
その時、二時間目の授業の鈴が大きく鳴りひびいてきた。
「弘ちゃん。リンゴは小使いのおばちゃんに、剥いて持って来てもろたるわ」走りながらあや子が振り向きながら言う。弘を残して、奥田君も隆もほかの学童も「弘ちゃん、元気でな」「弘ちゃん、しっかりしいや」
と、口々にさけびながら、教室に向って駈けて行った。

弘ちやんは生きている  (5)    木村徳太郎

    ☆☆☆
弘と美代が学校に行った後、
「お早よう」
開けっ放しの家である。歩きの前田さんの遠慮のない大きな声に弘のお父は起こされた。
「歩き」と言われ、村人のこまごました雑用を請負い、生活の糧にしている前田さんは何処へも気安く入り込んでくる。とくに弘のお父うとは貧乏人どうしの気安さだった。
「早ようから、はりきって、なんや」
弘のお父うは、眠気い眼を擦りながら蒲団から抜け出し顔も洗わずに板の間に坐った。朝の陽射を受けた板の間は、目を覚ますのに心地良い。
「これが、張り切らずにおれるかい! 」
お母がお愛想に入れた番茶に片手を挨拶するように挙げ、一口すすりながらご機嫌を隠せないと言うふうに前田さんが答える。
「茶よりも、いっぱい、どうや」
茶をすする前田さんをみて、弘のお父うはそう言い
「おい。焼酒もってこい」
と、お母に指図する。
「顔も洗わんで」
お母は不服そうに言いながら、一升瓶と湯呑を台所から持ってきた。
ごぼ、ごぼ、ごぼっ……。二つの湯呑みに焼酎を注ぎ、一つを前田さんにすすめ、一つを、お父うはぐっとひといきに呑む。頭がすっきり目覚めていくようだった。
「朝から、えらい悪いな」
気がねをして、弘のお母の顔をうかがいながら言う前田さん。が、すぐ嬉しそうに湯呑みに口をあてて、ちびりと飲みながら話を始めた。
「矢野の製材所に朝から、山を買うてもらう話で行ってきた。矢野は『垣内の山やから、見んでも分かっとる。五万円で手を打とう』と言いよるんやが、もう少し欲しいと言うたら、そやったら、山を見に行くと言いよった。で、おらの配分の所は、山の背かぎりで自明区の峰垣さんとの境になっとる。五十年生の桧六本が、岩がじゃましてどっちのもんかわからんのじゃ。お前分からんかいの」と一気に喋る。お父は聞きながら焼酒をまた注ぎなおし喉へ上手そうに流しながら、ちよっと間を置き、
「そら、垣内のもんやろ。何十年と下草(したくさ)を刈(か)って、山の手入れをしていたのは桧牧区や。そやけど、もし間違ったら困るけん、おら、今日、桐久保さんとこへ、山を買うてもらう相談に行こうと思とったところや。桐久保さんに聞けば分かるやろ」
垣内のものだと思うが、もし間違ったら困る。一緒に桐久保さんと山に行って、尋ねてみようと弘のお父うは言う。
「桧がこちらのものか、自明区の峰垣さんのものかで、三、四万円は違うてくる。小せがれ四人もかかえて村にもどり、その日の飯も満足によう食わん俺んちや。それに村入りが浅うて、みんなより半分しか配分がないよってに、ちよっとでも多い方が良いと慾も出るわいな」前田さんは笑いながら言う。
 山の区切りがはっきりしない。隣は山持ちの峰垣さんのもの。五、六本の桧を強引におしてしまえば、二、三万円は余計にころがりこむと言う慾心が、前田さんを朝からかけずりまわらせているようだった。
「いっしょに、今から桐久保さんへ行こう」
弘のお父うは前田さんをうながし、普段着の仕事着をつけて庭に出て、山から取り水をして木々の映っている水溜りで顔を洗いながら、
「そやけどもな、そんなこと、桐久保さんに聞かんでも、切ってしもたらええやないか。どっちのもんやわからへんものは、考えるだけ損やで」
弘のお父うは、前田さんに加勢して言ってみる。顔に勢いよく水をかける。朝陽に水しぶきが散っていく。
前田さんはお父うの言葉に
「垣内の山は杉やけど、峰垣さんとこは桧や。杉ばっかりのところに、どうして桧を五、六本植えといたんやろか」そんな事を独り言のように言い、心の中で伐ろうか、伐るまいかと迷っているのだ。
顔を拭きながら、弘のお父うは、板の間に戻ってくると
「そんなこと分からん。杉苗がたりんで桧苗を植えたかも知れんがな。桐久保さんとこに、山の図面があるかも知れんで……」と、言い
「とにかく行ってみょうやないか。矢野の製材所は、いつ山に来よるんや」
話をかえて前田さんに訊ねてみる。
「めし食ったら行くから、先に山へ行っといてくれと言いよった」
「そぅしたら、早いとこ、桐久保さんとこへ行かんとあかんなぁ」
お父は前田さんの迷っているのをほぐすように言った。
「お父うさん。食事は・・・」
「めしみたいなもん、食っておられるかいな。おれんちの相談もせにやならんし、前田さんも金がいる。早よう、話をつけなあかん」
箱膳を置き味噌汁をよそっていた母親の言葉に答えた。そして、横から
「早ようから、すまんなぁ」とお母とお父うに恐縮そうに言う前田さんに、
「貧乏人はお互いさまや。二、三万円儲かるか、損するかのどっちかや。うちも、今度の事で大助りやけど、お前はんとこは、いっそうやからな」
慰めるようにお父は言い、食事のかわりに湯呑に三度目の焼酒を入れ、ぐいと喉に流しこみ、
「そらそうと、お母。うちの借金いくらほどあるんや」
と、お母のほうに向きなおってたずねた。
     ☆☆☆
 五、六十年生の杉がよく枝打ちされ、すくすくと林立した薄暗い中は冷気が背中を這ってくる。
 弘のお父うは、そのひんやりした杉林の空気に先ほどの酒の気配も消える爽やかさを感じながら、桐久保さんを促した。桐久保さんを、右にちよっと廻り木漏れ日の明るい弘のお父うの配分の山の所に案内した。
 桐久保さんが立ち止まってぐるりを見回し、
「案外よう伸びとぉるのう」初めて見るもののように感嘆の声をあげた。
それを耳にして、弘のお父うは
「どうだす。ええとこが当りましたやろ。隣は中西さん。その向こうが旦那はんとこで、その隣が前田はん。どうせ前田はんは木を伐った後の裸山を、旦那はんに買うてもらいよるつもりだっしやろ」と、顔色をうかがいながら、桐久保さんの心をさぐるように言う。
弘のお父うの配分の山を手に入れれば、中西さんとも前田さんとも話はすぐつくだろう。ごっそり、桐久保さんの山に都合よくなってしまう。桐久保さんは、
「うん」
大きく頷きながら此処を買ってしまおうと思った。
隆が大きくなり、金銭的に困った事が起きればこれで救われるだろう。いま苦しくっても、そうしておいてやるのが親と言うものだ。隆の顔をちらりと思い浮かべて
「よっしゃ!十万や! 貸金と差引いて、五万円をを渡そう」と、明るい声で桐久保さんは言った。
「わしも金はないけん。主伐して売る。その仕事はお前はんにやってもらいたい」ともつけ加えた。
山を買ってもらい、仕事まで与えられたお父うは「仕事までおくれやして、どんなにか助かります」と、すっかりいい気持で、
「それにしても前田はん、遅いなあ」と、腰をかがめて木々の間をすかし下の方を見る。
それが通じたように前田さんが山を登ってくるのが見えた。急いで来たのだろう。前田さんは「本田のおじじも分からんと言いよるんや」と、息切れをしながら桐久保さんとお父うに言いながらも、もう自分のものと言いたげな口ぶりで、桐久保さんの方をじいっと見た。
「ほう」と桐久保さんは答えて、「垣内がいつも下刈りしとったし、本田のおじいも分からんと言いよるんなら、まあいいじゃろうがな」と、前田さんの心の中を見透かして同意するように言った。その言葉に前田さんは、三万ほど余分に金がはいるか入らないかのことなので、
「旦那!切りまっせ」と、自分に言い聞かせるように意気込み、けじめをつけるように言いきった。

「おぅ〜〜い。弘ぼうが、お宮の木から落ちて怪我をしよったぞう」と大声を出しながら、製材所の矢野さんが登って来た。

       ☆☆☆
 弘に応急手当てをしたあと、梶野先生は五粁ばかり離れた町の医者へ弘を自転車の後ろに乗せて走った。梶野先生の背に手を回し弘は痛いのを堪えていた。切り口は痛むが、梶野先生の匂いが伝わってくる。弘はなんとなく嬉しい気持にもなっていた。傷は二針縫うだけの怪我で済んだ。
「今日はもう休んで寝とれよ」ペダルをふみながら梶野先生が休校をうながす。
「帰ったら叱られる」
「先生が行って事情を話してあやまる」
「お父うが家におったら、ええけど……」
山の話でお父うは、きっともう桐久保さんへ出かけて留守だろう。お母だけだと、どんなに叱言を言われるかもも知れない。それが怖くて弘は、
「いやや。休まんと先生といっしょに学校に戻る」
自転車の後ろから、傷の痛みよりも頭と足の甲に巻かれた白い包帯を気にしながら言い張った。
田畑では、太陽の陽をうけ村人が汗を流していた。珍しそうに弘の包帯姿に目を向けている。梶野先生はそんな村人に軽く頭を下げ、スピードをあげ弘の家に向った。
「降りよ」と、梶野先生。
「ううん」自転車の荷台に捉ったまま、お父がおらないかと気配を伺いながら降りようとしない弘。
降りない弘にかまわず「今日は」と梶野先生は、ハンドルから手を離さずに家の中に大きな声をかけた。
「はい。どなたはん」と、家のなから出てきたお母は
「まあ、先生。弘がどうかしたんですか」
自転車の後ろに乗って俯いている包帯姿の弘を見て、大袈裟に驚く。
梶野先生はそれに答えて、ハンドルを握ったまま事情を話した。
お母は「弘、降りんかい。」と、弘に向ってたしなめるように言う。
梶野先生に甘えて降りない弘も、お母に言われてしぶしぶ降り、梶野先生の後ろに隠れるようにして家の中に入る。
「お主人はお留守ですか」
母親の挨拶を受け、勧められた座布団に腰をおろしてながら聞く梶野先生。
「はあ、さきほど、前田さんと山のことで出かけましたんや」
「じゃ、また後ほどご主人にもお目にかかって、お詫びをいたします」と、
手短に今朝の出来事を話し終え、怪我は四、五日もすれば全治し、登校にも差し支えないが今日一日は休養をとらせるようにと話し、弘にも
「今日は休んで良い」と、念をおして梶野先生は外に出ようとした。
「服に血をつけよってからに。早よ脱がんとあかんがな」
「痛いっ。もっとゆっくりして……」の声に、思わず梶野先生はふりかえった。
母親が弘の胸をじゃけんにぐいと引っぱり、服を荒々しく脱がしている。
 梶野先生が振り返ったのに気がついたお母は、少し手をゆるめ
「お宮の木になんか登るから、神さんがばちあてはったんや。死んでしもうたらええねん」と、ふくみ声で弘に叱言を言いながら、服を剥ぎ取るように脱がせている。
梶野先生は弘のおどおどした目とぶつかり、また中に引き返した。
「どうも気が付かなくってすみませんでした」梶野先生の素直に詫びるその言葉に
「六年生にもなって、自分の始末も出来ん子で、本当に悲しゆうなりまっさ」
弘に当っているのか、先生にあてつけを言っているのか、顔をこばらせてにこりともしないお母だ。
「おら、学校へ行く。学校に行って服洗う」母親に脱がせてもらっている手を振り切り弘も意地を張ったように言う。
梶野先生がいて平手打ちも出来ないお母は「勝手にせえ」と言はぬばかりの様子で目を尖らせている。
梶野先生は弘を学校に連れて行こうと決めた。
「すみません。服は学校で洗います。かわりの身につけるものを……」
「そんな迷惑ですがな。弘、先生が気の毒やおまへんか」言葉で断わりながらも、すぐに上にあがっていき、部屋に積み重ねられた柳ごうりを開けて、弘の着替えをさがし始めた。(つづく)

弘ちゃんは生きている  (4)    木村徳太郎

 家から東へ二百米ばかり行くと消防器具庫があり、その前に垣内の学童が集まっている。
越出綾子。炭谷勇。本田務。古川由子。前田朝子。伊藤孝子・・・。十一人の垣内の学童
が一年生から六年生まで一列に並び、みんなが揃ったのを確めると、当番の隆が引率して学校に向う。
 昨日のラジオ番組の話などに興じながら学童たちは通学路を急ぐ。学校の隣りのお宮の参道までくると、鳥居を入った二本目の大きな松の木を囲んで、他の垣内の学童たちが空に向いなにやら、がやがやと騒わいでいた。
「なんじゃろう」
真っ先に、五年生の炭谷君が列を乱して走り出した。
それにならって、学童たちは列を崩し我さきにと松の木に駈けよって行った。
「兄ちゃん。走ったらいやや」
走りしぶってぐずる美代に、
「早よ、走れ!」
と美代に構わず、他の学童に負けまいと弘も駈けだした。
高木区の5年生の奥田君が、隆と弘を見て
「狸じゃ。狸が木にとまっているんじゃ」と
松の枝をすかして空を指差し、いつにない真剣な顔付きで言う。
学童たちの声に怯えているのだろう、松の葉にひそんだ動物はじっとして動かない。石を投げるものや叱声をあげる学童もいる。
 動かない動物にしびれを切らしたように、とうとう奥田君が木に登り始めた。
松の木を抱きかかえるような格好で、足をふんばって登りはじめる。が、廻り三米ほどの松の木はそうたやすくは登れない。二米ほど登ると力が足りないのかずり落ちてくる。ほかの学童の二、三人も試みるが、誰も一番初めの枝に手が届かない。
女の学童が大勢見ているためか、五年生の男の学童は気負って順番に松の木に手をかける。そして少し登っては滑り落ちてくると
「わっ」と、女の学童がはやす。
木にいる動物よりも誰が登りきるだろうかと、木の裾を囲んでいつしか学童の心は、そのほうに奪われているかのようだった。
五年生でまだ木に手をかけていないのは、弘一人になった。
「弘ちゃん。やれよ」
滑り落ちて、手についた松皮の屑を服でこすりながら隆が言う。
引っ込み思案の気の弱い弘だ。いつもなら「ううん」と、曖昧にはにかんで引き下がるのだが、越出綾子、古川由子、伊藤孝子、前田朝子・・・と、女の学童が大勢いる。みんなが弘をの方を見てなにか囁きあっている。
「お前、よう木にあがらんのやろ」と高木区の奥田君がからかう。
そこへ、「弘ちゃん。落ちても死なへんで。昨日、不老不死の薬飲んだやんか」
と、隆が昨夜弘が口にした霊薬テンダイウヤクの葉のことを、真面目な顔付きで言う。弘は口に入れて渋かった昨夜の事を思い出すと、今でも口の中が渋くなり唾気が出てくる。そして「ほんとかな〜〜」と、薬のききめがあるように思えてきた。
 弘がためらっているその時、ちらりと動物が動いた。弘は、それに心がはやり、テンダイウヤクを思い出し、とうとう松の木に手をかけた。
 木に手をかけると女の学童たちがいっせいに拍手する。
「兄ちゃん。やめとき」
二年生の妹の美代がとめるが誰もそれに同調しない。登ることを誰も止めない雰囲気が満ちていく。
 弘は、太い登りにくい松の幹を、顔を真っ赤に力ませ、じりじりと一寸刻み、二寸刻みに上がっていく。
一番下の一本目の枝まであと三十糎ほど。片手をのばせば届きそうだ。
 弘は幹の凸部に左手をかけ、右手を空間に泳がす。樹上の動物が身に危険を感じたのか
「キイツ クワツ キイッ キイツ」
 と、赤子のような鳴声をあげ、三米程離れた隣の桧の枝に空中滑走して逃げてしまった。それは狸(たぬき)ではなく、ばんどり(むささび)だった。
「わぁっ〜、わぁっ」。女児は「きゃ〜」と黄色い声を上げる。
木の下の学童たちが動物の姿をまじまじと見ていっせいに声をあげた。
 弘はばんどりの空中滑走に目をうばわれたのと、学童たちの声に心をとられて瞬時手の力がぬけてしまい、「あっ」と思うまもなく、ずるずると四米ばかりすべり落ちた。
 隣の桧の木にばんどりを追って、走り寄っていく学童達が、いっせいに立ちどまった。
弘が「ドスン」と大きな音と共に木から滑り落ちたのだ。
滑り落ちながらどうやってこすったのか、弘の額と右足の甲から血がこんこんと湧き出している。
桧の枝に移ったばんどりどころではなくなった。落ちたままの格好で座り込み泣きだす弘の周りをみんなが取り囲んだ。
 越出綾子がハンカチを弘に渡した。みるみるうちにハンカチがまっ赤に染まっていく。
「兄ちゃんのアホ。登るなと言うたのに。アホ。アホ」
弘の背中をたたきながら美代も泣き出した。誰かが
「先生を呼んで来る」と参道の横の運動場を急いで横切り駆け出していった。
「弘ちゃん、しっかりせい。大丈夫や。テンダイウヤク飲んだから死なへん」
隆は血で赤く染まり泣く弘を元気づける。怪我の責任の幾分かは自分にもあるように思えてオロオロした顔だ。
「奥田さんが悪いんや」「登れ登れ言うからや」
女の学童たちが口々に言い立てた。奥田君がそんな声に耳も貸さず、弘の足の甲から噴出す血を懸命にタオルで結んでいると、梶野先生と伊藤先生が走ってきた。
「誰か水を持ってきて、此処の血を流しておきなさい」
梶野先生は学童たちに指図し、泣きじゃくる弘の肩に手をかける。
それを手助けて弘の両足を伊藤先生が両脇に抱えこみ、学校に急いだ。
参道は、赤い百合が点々と咲いたように血が地面を染めていく。
「水、水、水。水を早よ持ってこい! 」
弘が先生に運ばれた後、奥田君が女の学童たちに大声で指図している。
女の子たちの四、五人が学校の運動場を走って、運動場にある井戸のポンプに走った。急いでポンプ繰るが、あまり急ぎすぎたためか、バケツ一杯にもならないうちに「ガチャン」とポンプの把手がぬけて繰(こ)げなくなってしまった。みんなは呆然とする。そこへ奥田君が
「なにしてんのや。早よもってこんか」とまた怒鳴る。
「ポンプ、壊れてしもうたんよぅ」
男の学童が二、三人駆け寄ってきて手助けを始めたが、壊れた把手はすぐには直らない。
越出綾子がさきに繰(く)った、わずか五合ばかりの水のバケツを持って走ってきて、地面に流した。しかし、それだけではとても足りなく血の跡形は消えない。水がたらないのだ。
(百八十人ほどの学童がいるのに、井戸一つしかなく、拭き掃除にも、飲料水にも不自由を欠く学校だった。しかもその水は鉄分が多く赤茶けた水で湯も湧かせない。水の不自由さを言われながらいままで何事もなく過ごしているのが不思議な位だった。それはきっと、渓(たに)川の水や山の出水が周囲に豊富にあるため、気づかずに過ごされて来たのであろう)
井戸が駄目と知った二、三人は、騒ぎながら急いで参道を走って、山から取(とり)水をしているお宮の手水舎へバケツをさげて走っていった。(続く)

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
花ひとひら
花ひとひら
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
友だち(7)
  • ハマギク
  • plo*er_*un*yama
  • まんまるネコ
  • あるく
  • こうげつ
  • 吉野の宮司
友だち一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事