|
霜月の花
霜月になり木枯し1号がやって来た。風邪を引いてしまった。急いでストーブだ、コタツだと慌てる私をよそ目に……。 朝顔がまだ咲いている。
木枯らしに揺れている。
一つは、零れ種子で毎年庭を覆う小さめの白いアサガオが、花を終え種子を零し早々に芽を出し、二度目を咲いている。二つ目は、例年生い茂る白いアサガオに彩りを添えようと、鮮やかな青紫色の札のついた苗を購入した。色札は鮮やかな青紫色だったのに、薄い薄い水色で、今は殆ど白色になっているが咲いている。これは琉球朝顔(リュウキュウアサガオ)で冬も咲く多年草らしい。
そして三つ目、極め付き!
風引きで熱にうなされた夜、植栽に雪かと幻覚するほどに、大きな白い花を咲かせている。ユウガオだ。
秋色が増す中で、これらの大中小の白い花が揺れている。まだまだ蕾も多く、いささかこの元気良さに私は疲れもしている。
夏には夏の花が咲き、また次の夏を待つ心を満たしてくれるのが花だと思う。
違和感を持つのは、私だけだろうか。
人間と花の間には細やかな交流があった。友とし、師と慕い、慰められ、そして文化があった。「草木言問ひし時」(風土記)にあるように。草木が物を言うのはごく当たり前のことで自然なことであった。そういう交流、記憶が、私の中で失われていくようで危惧される。私の腹時計ならず花時計が狂っていきそうな気がする。
人にはいろいろの思いがあろう。
咲き続ける三つ目の白い朝顔(ユウガオ)に私は不思議を思う。
ユウガオ(夕顔)といえば源氏物語を思い出す。しかしいつまでも咲き、地面を這う大きな白い花に、私は儚さやいじらしいと思える源氏物語の女人を感じられないのだ。
ユウガオは「干瓢(カンピョウ)」?
「枕草子」(清少納言)に、 夕顔は花のかたちも朝顔に似て言ひ続けたるに、いとをかしかりぬべき花の姿に、実のありさまこそいとくちをしけれ。 (夕顔の花は花の形も朝顔に似ていて、アサガオ・ユウガオと続けて言うような、しゃれた花の姿なのにあの実といったらもうぶち壊しだ。)とある。
また、正岡子規の 夕顔の棚つくらんと思へども 秋待ちがてぬ我いのちかも これは、瓢箪(ヒョウタン)?
清少納言は続けて言う。 されど、なほ夕顔といふ名ばかりは、をかし。 (そうはいっても、やはり夕顔という名前だけは素敵だ)と……。
私も「夕顔」という名前に、イメージを乗せていただけなのかもしれない。
干瓢にしろ、瓢箪にしろ、どれも夜に咲き、月の明かりを吸うことから幽玄化され、その名前から、イメージを膨らませていたのではないだろうか。
私は源氏物語より同じ千年記なら古事記の方が好きだし、紫式部より清少納言の方が好きだ。
しかし「夕顔」がどんな女性だったのかを感じられる花を見て見たいとは思っていた。佳人薄命を絵に描いたような女性。儚げながら可憐な女性……。そんな花を見てみたいと朝顔の苗を購入する時、「夕顔の苗」も注文しておいたのだ。
咲いたその花の大きなこと。確かに夕方から夜明けまで咲き芳香はある。しかし、アサガオのように漏斗状には開かない、平開している。そのベタッとした平開咲きは、しどけなさを思わせた。そのあまりの妖々しさに「これは上田秋成の雨月物語だ」と思った。
源氏物語「夕顔」の巻は、粗末な家垣に夕顔の花を見つけた光源氏に「心当てに それかとぞ見る 白露の 光添へたる 夕顔の花(ひょっとしたらあなた様かと思いました。 白露のような光を添えている夕顔の花のように美しい方なので)」と、女のほうが声を掛けた。光源氏は、女の和歌の才に心を奪われ通いつめる。が、女の住まいは粗末な家。世間を気にした光源氏は名も明かさず女性も正体を知らさぬまま、二人は幾度も逢瀬を繰り返すのだ。そしてある日、枕元に女性の幽霊が立ち、急いで太刀を抜いた光源氏。おびえた女は、息も絶え絶えとなり身体は冷たくなっていったのだった。その女の名前が「夕顔」だ。
園芸店に頼んでおき購入したのは、正しくは「ヨルガオ」らしい。園芸店はこれを「夕顔」だと言う。花が咲いたとき、夫が「おばけだ!」と言った。何事かと思い、庭に出た私にもそれは「お化けだ」と叫ばさせた。それほど大きく、儚げや内気さを感じさせない花だった。
清少納言の「夕顔」論(夕顔という名前だけは素敵だ)に拍手を送る。しかし紫式部は花の本質をよく見極めていたとも思う。源氏五十四帖の巻名をすべて自然の風物に則り、花のその性質を本能的に知っていたのだろうとも思う。
確かに月の夜、花が闇の中に浮き出し、じわじわと咲き出し、芳香を広げていくのは、えも言えぬ風情がある。それは「夕顔」の名にふさわしい。
しかし、源氏物語の<朝顔>は、現在の花の<槿(ムクゲ)・桔梗>とも言われる。あの時代の<夕顔(ユウガオ)>は、ほんとうはどんな花だったのだろう。<瓢箪? 干瓢? ヨルガオ?>
話は逸れるが、女優カトリーヌ・ドヌーブが大好きだ。あの美しい妖艶さにため息が出る。高齢になっても容色は衰えず美しい。彼女に「昼顔」という映画がある。昼顔の本質が見事に描け、彼女の美しさが増す。そして、その続編として「夜顔」があるらしい。ぜひ観てみたい。ひよっとすると我が家の夕顔(ヨルガオ)の疑問は解けるかもしれない。
たかが花、されど花、「草木言問ひし時」。いつまでも花はそうあって欲しい。
思いはそれぞれで良い。しかし人と花は、交流というより同等に扱っている文化であると思う。日本人の文化の記憶、祖先の記憶は体内にいつまでも残っていて欲しいと思う。
気候の変動があっても、残っていて欲しいと思う。木枯らしの中での朝顔(ヨルガオ)は疲れる。
九輪 _天王寺五重の塔_ 木村徳太郎
夕陽に鳴るよ
九輪が鳴るよ
ちりりん ちりりん
もう 日が暮れる
子供かくれて
伽藍に消える
まだだい まだだい
まだ きりがない
鳩も廂に
子守兒じれる
ほうほう ほろりよ
ほう 気がもめる
夕陽が光る
九輪が光る
ちりりり ちりりり
もう 門しまる
|