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のんびりしたブログですがよろしくお願いいたします。

エッセイ(秋)

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林檎かアップルか

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木から離れた林檎の軸の先は、お母さんとさっきまでのの話しの続きをしているようで可愛くまぁるいでした。
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臨床美術(脳いきいきアート)の林檎の量感画で描いてみました。店頭に並んでいる林檎の軸は平らなんですね。
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「木枯」の詩に挿絵を描いてみました。
 
 
    林檎(りんご)アップル
 
「木枯」  木村徳太郎
 
木枯の / 歯にしみる / 月の夜 /果実屋(かづつや)の / アップルが / 目に痛い。
木枯で / 待ってゐる / バスの舗道(みち)。

「木枯」木村徳太郎
 
 木枯の / 歯にしみる / 月の夜 /果実屋の / 林檎(アップル)よ / 目に痛い。
 木枯で / 待ってゐる / バスの路。
 

「木枯」  木村徳太郎

木枯の / 歯にしみる / 月の夜 /果実屋の / 林檎よ / 目に痛い。
木枯で / 待ってゐる / バスの路。
 
「木枯」(改作)木村徳太郎  楽久我ノート(昭和17年8月)

木枯が / 歯にしみる / 月の夜 /――果実屋の / アップルよ / 目に痛い。
木枯が襟に吹く / 更けた夜 /――並木道 / バスを持つ / ビルの壁。
 
上記の詩は木村徳太郎(父)が昭和の始めに作ったものである。同じ果物だが、林檎かアップルかで雰囲気が異なる気がする。私の知っている父は、ハイカラでお洒落な人だった。遠くを夢見て「アップルをほおばっている少年」の面影が似合う人だったように思う。
それにしても、一つの作品に何度も何度も推敲を重ねる父の姿勢に頭が下がる。
 
林檎とアップルはどう違うのか。私もこだわっていた。
林檎ジュースは国産の林檎を使ったもの、アップルジュースは外国産の林檎を使ったもので原料が国産か、外国産の違いで分けられる。俳句の季語(秋)に林檎はあるが、アップルはない。また林檎の花はあってもアップルの花とは言わない気がする。
 
十二月になろうという日、「林檎狩り」に同行した。長野県の最南端、伊那谷の中心である飯田市の天竜川東岸「天龍峡」の丘の上にある林檎園で、傾斜地の多いなか平坦な高台の林檎園だった。同行は車椅子や高齢者が多かったが不便はなく、シーズンオフ近いせいか入園者は私達だけだった。
 ゆったりと植えられている林檎の木々の間から木漏れ日がこぼれていた。木漏れ日まで林檎色をしていた。例年はもっと早く紅葉するのが今年は二週間も遅れて霜を受けているということで、周りの山々は縮れた色をしていた。余計に赤い林檎がまばゆかった。しかし冷え込みはきつい。遠景の南アルプスは冠雪している。冷え込みが増すと蜜が沢山入ると言う「ふじ」や「シナノスイート、シナノゴールド」が寒い陽を浴びて輝いていた。一口噛めば口中に果汁がひろがりかすかな冷たさも心地よい。林檎の採り方を教わった。棒の両側に林檎を挟む輪がありそれで林檎をつかみ棒を少し上に持ち上げるだけで、手のひらに林檎が包まれる。私は柿とりと同じように思っていたので拍子抜けするほど簡単だった。強風に林檎が散らばっている風景を映像で見ることがあるが、納得された。
「看板娘なので、これは採らないで下さい」と言われた樹は、真っ赤な実で覆われていた。そこだけ彩の嵐が吹いて高原の風に林檎の香りまでも動くようだった。こんなに実がいっぱいの大樹をみたことがない。一つ一つの林檎がとても可愛く見える。唐突にどっど どどうど どどうど どう 甘い林檎も吹き飛ばせ すっぱい林檎吹き飛ばせ原作はざくろ、くるみ、かりんだが)映画で見た「風の又三郎」の歌声が響き渡たり、空からガラスのマント、ガラスの靴を身につけた風の又三郎が舞い降りて来るような気がした。一緒に風の又三郎が林檎をもいでくれるのだろうか。
 
林檎園は家族三代で運営され、いつも林檎の木たちに「りんごよ、りんご、おいしくな〜れ」と言い聞かせながら仕事をされているとのことだ。最近四代目が誕生した大家族で大福帳を預かる商家のおかみさんのように、高齢のお婆さんが采配を振って貫禄があった。どの人も林檎のような優しい方たちだった。人だけでない。人と同じく永い間美味しい林檎を実らせてくれた老木も、これからの若い幼木も、皆家族なのだろう。そんな空気が流れていた。
美味しい山菜のお蕎麦を食べ、林檎並木を通り(この並木道は、市街地の大半を消失する大火があり、その復興過程で当時の中学生たちの提案で生まれ、以後代々の生徒たちで慈しみ育てられ、防火帯となり、春には白い花、秋には赤い実で人々を和ませている)帰路に着いた。バスの中は林檎の匂いが充満している。十二月に入ると林檎は凍てるので凍てる前に収穫し、皮ごとジュースにすると言う土産の濃縮ジュースを早くも開け、飲んでいる人もいる。
林檎の世話は大変だろう。気候や自然災害の影響も大きく受けるだろう。が、人々の「おいしいね」とこぼれる笑みを思い出し、樹と共に頑張っておられるのだろう。そんなことを思いながらバスに揺られて、私は遠い遠い昔を思いだしていた。熱を出し、祖母がすりおろし林檎をスプーンで一口一口食べさせてくれたのだ。
 
そうだ! 林檎(りんご)は、
 母が割るかすかながらも林檎の音飯田龍太)
林檎は秋の季語である。秋は地上の事々を一旦静けさへ立ち戻らすようなところがある。割られる林檎の音、母親の存在、家の空気など、すべてに静けさが際立つ。観光農園でありながらも訪れた林檎園で、私は風の又三郎を想い、家族がいきいきと林檎と共に暮らすハーモニーが静かに流れているのを知った。 
 「林檎」は郷愁を誘う静かな流れであり、「アップル」と確実に異なることを感じた。林檎狩りに行き、林檎の大樹を見ることが出来て良かった。私の中で「林檎」と「アップル」の区別がついた気がした。


季語に「アップル」はないが、
キーボード押す指重くアップル忌スティーブ・ジョブス(Steve jobs)氏が2011/10/5に亡くなり10月5日はアップル忌と言うらしい)があった。
 
 父が最終改作で、林檎をアップルにしたのが理解できるような気がした。静かな林檎より、木枯しに負けず前を向いて行く元気な心象風景を父は描きたかったのではないだろうか。
 
 何度も何度も推敲を重ねる謙虚な気持ちを私も持ちたい。
そして林檎も愛しい。アップルのように前を向いて行くのも良い。
 

夕映え

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夕映え
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赤い葉、黄色の葉、虫食いの葉、栞にしましょう
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青い空に紅葉
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老樹は堂々とした夕映えです
 
夕映えのとき
もみじ便りが聞こえ始めた。散歩道の街路樹も色づき始め、そのあざやかさに足を止める。きらめく紅の葉にTさんが重なる。Iさんも、MさんもKさんも・・・(介護保険のデイサービス利用者さんたちだ。)
施設で運動会があった。椅子に腰掛けての綱引きに顔を真っ赤にし黄色い声が炸裂する。60歳後半から100歳に手が届く人たちの集まりだが、元気さ、明るさに陰りはない。服薬の要管理、体能力が衰えている人、老化による物忘れの進んでいる人、認知症そのものの人たちが集っているのだが、どの人も明るい、底抜けに明るい。夕映えのもみじのように輝いている。夕闇が訪れる頃、人生はもっとも華やいだ光に包まれるのだろうか。
日本の平均寿命は男性78.56 歳、女性85.52 歳(男女差は6.96 歳)健康寿命は男性71.9、女性77.2 歳(男女差は5.3 歳)で、1983 年に世界一の長寿国になり現在もそれを維持している。高齢認定者数(65歳以上)の約380万人の内、半分の200万人近くに認知症状が見られると言う。(65歳以上の約8%に認知症の症状が見られる事になる)
しかし長い人生の旅を続けた人たちはみな輝き夕映えのもみじのように赤々と燃えている人生を四季に例えると、誕生が春、死が冬・・・・・で、自然の四季は、繰り返すが人生の四季は、一度きりと言われる。
その一度きりの四季の輝きを肩意地を張らずに今満喫しているのではないだろうか。
 
私は広い広い農地の中を走り、山に囲まれ、その山頂を流れる雲に想像を乗せ、四季の風を体一杯に受けデイサービスへ通勤している。そして思うのだ。環境が人を(四季が)育てるのではないだろうかと。ボランティアでいろんな施設へ訪問をすることも多いが、田舎はどこも良い。人間らしい。爺ちゃん婆ちゃんの大家族のような施設が多い。都会とは少し違う空気を感じる。
田舎の人は生まれたところと育ったところとお嫁に行ったところが同じと言う人も多い。施設の利用者は、それぞれに子供のころからの知り合も多く、同級生の集まりのようで同窓会をしているようにも見える。いろいろとそれぞれの人生を送り、そしてまた子供時代に戻っているみたいだ。「あの人、学校時代、頭良くて男前やった」と、頬を赤らめ耳打ちする八十代のお婆ちゃん。(初恋の人だったのかな)「あの人学校時代美人で走り早かったのに、あない腰曲がって、どんくさいなぁ〜」(学校時代ライバルだったのかなぁ)(そういうあなたも腰曲がっているよ)過去と現在が混ざり、悪口も憧れも飛び交うのだ。
それがなんとも微笑ましい。私は羨ましい。田舎の人はどの人も素朴で明るい。東北の人もそうだ。自然と共に生きている人は強いし明るい気がする。地域の中で一緒に暮らせた幸福感が高齢になって漂っている。一番の幸せはこれではないかと、都会育ちで個々で生き、根無し草のような私にはなんともまばゆく羨ましく映る。
夕日の光に反映し、物の色が照り輝いている眩ゆさに似、キラキラ満ちている。夕映えだ。
 
Tさんが運動会の応援歌を披露してくれた。松ノ木小唄の替え歌だ。「アルコール小唄」で行きましょう!
/菊正ばかりが酒じゃない/白鹿白鶴みなお酒/だけど私が欲しいのは/今夜のあなたの深情け(ふかな酒)/キリンばかりがビールじゃない/アサヒサッポロみなビール/だけど私が欲しいのは/今夜のあなたの口び〜〜〜る/
私は笑い転げた。なんと上手に作ることか。Tさんは認知症だ。
認知症は脳の病気と言うが、どうしてどうして私なんかより頭脳明晰だ(私も替え歌を作るのが好きだが、こんな上手には作れない)
Tさんは若いころ畑を耕し米をつくり、土木工事の手伝いをし(屋根の上を走っていたとか)家事をし育児をしそれは働き手で働くことが好きだったという。そうしないと生活がなりたたないらしい。(農家の人はみなそうだったらしい)、お酒も好きで、お祭りや一年に一度の地域のバス旅行が楽しみで、そのとき、いろんな替え歌で皆を沸かせたらしい。(それをこっそり歌ってもらい私は赤面したが)田舎の人は何事もおおらかでハレとケの区別があり、ドンちゃん騒ぎもなんだか神様の寄り合いのようなそんな気がした。
長い人生の旅を続けた者だけが豊潤な収穫の季節の喜びを知る。夕方の薄暗い頃、かえって物の色が鮮やかに美しく映えるように、Tさんはいま夕映えのときなのだ
運動会の綱引きを、昔と同じように同級生と力を合わせて引っ張っているのだろう。
フレフレー!頑張れ!
 
 どの高齢者も夕映えの輝きを放って欲しい。そして私自身も美しい夕映を映したいものだ。
 

自然の中で

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以前の投稿 http://blogs.yahoo.co.jp/hanahitohira06/49891275.html
 に使った挿絵です。あのときの椎茸の夢は今は宝物になりました。
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自然の中の宝物収穫
 
秋日和が続く。夏の俊敏さを無くしてはいるものの貪欲な蚊が襲ってくる。紫蘇の実採りの腕まくりした腕に容赦なく止まる。それが嫌で庭に降り立たないようにしているのだが、別の楽しみのために蚊に負けてはおられない。
私も貪欲である。捨て去られるものが大好きだ。実成りを終えた唐辛子の葉をむしり、甘辛く醤油で煮しめる。さつま芋のツルを集める。煮ても炒めても美味しい。土に落ち腐るヤマイモの実(ムカゴ)も落としてなるものかとエプロンを広げる。さつま芋や山芋はツルやムカゴを採るために植えているようなものだ。サトイモの芋茎も大好きだ。知人がこういうものを好んで食べる私を揶揄して「人の捨てるものばかり食べてお金が溜まるやろ」と言う。生憎お金は溜まらないが、好きなものを自分の手で収穫し料理できる幸せはお金に変えがたい。
例年に比べ暖かいせいか、蚊も多いが捨てるものも大収穫だ。天高く馬肥ゆる秋の実践だが、これらは本来捨て去るものかいくら食しても肥ゆることはなく、なおさらに良い。
芋のツルをたぐって茂みに入って行く。木の根元に椎茸の原木が無造作に置かれている。なにか大きな白いものが目に入った。昨年桜の木を伐採したときにモッタイナイと、シイタケを植える団栗の木と一緒に「ヒラタケやシメジ」の菌を夫が植えていた。しかし、キノコ類は植菌して一、二年は経ないと出ないし気温がぐんと下がらないと生えてこないはずだ。果たしてこれはなんだろう?。
鼻を近づけて嗅いでみると清らかなシメジの香りがした。店頭に並ぶキノコ類は僅かな香りしかないが、キノコ類は本来香りの強いものだ。マツタケがそうだ。シイタケも家で採れたものは匂いがキツイ。どれも人を惑わせそれでいて清らかな匂いがする。人を誘惑する匂いである。誘惑されて毒を食らうキノコもある。
戸惑ったが思い切ってその白いものを摘み採った。緊張して大きな息を吐き出す。そして、ふと横をみると大きなシイタケが出来ていた。キノコ類はもっと寒くならないと出ないとばかり思って油断をしていたら、びっくりするほど大きくなっていた。大きくなりすぎると味が落ちる。それに冷蔵庫には買い置きのシメジ、マイタケ、エリンギ、エノキ、シイタケ(キノコ類も大好きなのだ)が詰まっている。大きく朽ちかけたシイタケは煮出して、出汁にすることにし、他は干しシイタケにした。
問題は白いキノコだ。夫が帰宅しこれが何か問うまで、この香りには待っておられない。手で裂くと気持ちよく裂ける。裂くたびに鼻腔をくすぐる香りに誘惑される。
思い切ってバター炒めにした。香りよく、歯ざわり良く、味も良く、もし後でお腹が痛くなっても許されるような、うっとりした気分になる。これがキノコの誘惑だろう。
 
誘惑され食してからでは遅いのだが、白いキノコを調べてみた。シメジの一種でヒラタケのようだ。ヒラタケは今昔物語集では役人の強欲さを示す材料になり、平家物語では木曾義仲の野卑さを示す場面に使われたりしている。不浄説法した僧侶の変身した姿がヒラタケになった伝説もあった。 古くから日本では親しまれている食材のようだ。修行僧の間ではマツタケよりも珍重されたものらしい。手のひらの形に似ているところから名前がつけられ、免疫能増強、抗ガン、鉄吸収促進、動脈硬化、生活習慣病を予防。整腸、循環器疾患抑制、老廃物を排出、と良いこと尽くめのキノコだ。
我が家に捨てるものの宝以外に、新たに宝物が加わった気分がする。なるほど、
ヒラタケは私の手のヒラに宝物を包み込んでくれる。自然を包み込んでくれたようだ。
 

時雨の花

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「風に吹かれて山頭火」池田遥邨小画集・講談社発行 <山頭火行く1984年>ヨリ

山頭火野に咲く
 秋の野に好きな花があります。コスモスが鮮やかな色に揺れ、ノギクがいじらしく咲いています。そんななか目立たないけれど私の大好きな花。ノゲシのように花びらが多く、黄の色は濃くありません。淡い黄色、花びらに可愛い切れ込みが入っています。鄙の里の少女の髪を飾るリボンのようです。
アキノノゲシ(秋の野芥子)=高さ50〜200cm。花期は8〜12月。花は淡い黄色、種子はタンポポの綿毛を小さくしたような形をしている。
レタスの仲間で、葉や茎を切ると白い液が出る。生葉でも食べられる。

花言葉「幸せな旅」  


秋の七草はもちろん、彼岸花・竜胆・野菊・麒麟草・釣鐘人参・吾亦紅・水引草に蓼の花……。数え上げればきりがない。色とりどりに咲き乱れる花野である。
そんな中十月も終わりに近づくと、百彩の花色を一つづつ浚って行くように寂しい風が吹き、晩秋の足音が忍び寄って来る。そして花野に時雨が来て、花は色褪せて行く。しかし最初から目を引くような彩も持たず、褪せもしないで悠然と、時雨の野を飾る花がある。
 アキノノゲシだ。夏の終わりから次々と淡黄色の花を咲かせ次第に草丈を増し、一メートル以上にもなる。その茎は太く堅く除草作業も困難だ。地味な花と大きな草丈に不思議な存在感を覚える。この花を見つけると、花の周りにいろんな色をつけた風が吹き始め、私を想像の世界へ連れて行く。
風の走る音がした。「種田山頭火」が歩いて行く。

 
すわれば風がある秋の雑草 / 秋となつた雑草にすわる  山頭火

私も、アキノノゲシの前に座ってみよう。

やつぱり一人がよろしい雑草 / いつも一人で赤とんぼ  山頭火

私は、いつのころからか山頭火の句の雑草はアキノノゲシだと勝手に思っている。そして想像の旅をする私に、山頭火が「水、空、草、夕焼け、赤とんぼ」を一緒に連れて行ってくれる。
ノギクのようなたおやかな美しさはない。むしろ地味で無骨で粗野と言えよう。花は夕方には閉じ、閉じると渋い臙脂色と緑に包まれ硬くなり、寂寥感も漂わせる。そしてなによりも、時雨が似合う花だ。山頭火も時雨が似合う。傘を持たずに慌てて走り抜ける花野で、この花に出会ったら濡れるのもかまわず立ち止まり、耳をすませ、周りの空気に目を凝らすのだ。


私ひとりの音させてゐる       山頭火     

 時雨に野の音が吸収され、アキノノゲシが一本揺れている……。
そんな想像は、池田遙邨画伯の山頭火シリーズ、「山頭火行く1984年」の絵を観て、私を飛び上がらせてしまった。
 山頭火は多くの人に語られ、多くの画家に描かれる。それは無常感であったり、放浪の旅であったり、流れる水であったりする。しかし、私は山頭火に「優しさ」をみる。「惑いの中に有る優しさ」とでも言えば良いだろうか。無常や宿命や病み疲れを、足で歩き、心で歩き、歩き倒した後に残ったものが、「優しさ」ではないだろうか。いろんな評が有り、私ごときが山頭火や池田遙邨画伯を語るのはおこがましいが、山頭火に、そして遙邨画伯の絵に心が癒されるのは事実だ。
遙邨画伯の描く山頭火シリーズには、小動物や野の花が多く出てくる。野に咲く花や小動物が、まるで山頭火を見守るように小さく描かれている。小さい花は具象的に描かれていないので、こちらのイメージで花姿を膨らませる楽しみも有る。
そんな中で、「山頭火行く」は画面に大きく野の花が野蔓をからませて描かれている。陽が沈みかける空に立つ山頭火と二分するぐらいに大きく描かれている。
「この花はアキノノゲシだ!」私は飛び上がった。私がアキノノゲシに山頭火を重ねるのは、あながち間違いではないのかも知れないと思った。
 山頭火を思いアキノノゲシを眺め、池田遙邨画伯の絵を観て私も旅をする。
 山頭火も、アキノノゲシを見ただろう。花の前に座り、夜露に濡れ萎んだ蕾のもとで野宿をしたのだろう。アキノノゲシは、他のどの花よりもいつも何かの虫が寄ってきて休んでいる。


とんぼとまつたふたりのあひだに / ほんにしづかな草の生えては咲く    山頭火

アキノノゲシに蜻蛉がとまったのだろう。そして、夜が明けると山頭火はまた旅を続ける。花は咲き続ける。彼はどこまでも野の花を連れて旅をする。
 山頭火も見た? 池田遙邨画伯も見た? 同じものを見られる幸せだ。実際に旅が出来なくても、想像できる幸せは何にも代え難い。


笠にとんぼをとまらせて歩く   山頭火

空は真っ赤な夕焼けだ。アキノノゲシも燃えている。私も好きなアキノノゲシを連れて歩く。
「幸せな旅」に出よう。

山頭火の花

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         山頭火  野に咲く        

 秋の七草の萩(ハギ)尾花(オバナ)葛の花(クズノハナ)撫子(ナデシコ)女郎花(オミナエシ)藤

袴(フジバカマ)桔梗(キキョウ)はもちろん、彼岸花(ヒガンバナ)竜胆(リンドウ)野菊(ノギク)

麒麟草(キリンソウ)釣鐘人参(ツリガネニンジン)吾亦紅(ワレモコウ)水引草(ミズヒキソウ)に蓼

の花(タデノハナ)・・・。数え上げればきりがない。色とりどりに咲き乱れる花野が広がる。しかし、

10月も終わりに近づくと、少し寂しい風がその百彩を一つづつさらっていくように吹きはじめ、晩秋の足

音が忍び寄ってくる。花野に秋の時雨がやってくる。そんななかを、最初から目を引くような彩も持た

ず、かわりに褪せもせず、悠然と時雨の花野を飾る花がある。秋の野芥子(アキノノゲシ)だ。夏の終わ

りから晩秋まで次々と淡黄色の花を咲かせ、次第に草丈を増し一メートル以上にもなる。その茎は太く堅

く、機械の除草作業さえやりにくい。子供のころ、この硬い茎を使って男の子がチャンバラごっこの刀に

していた。私はただそれを見ていただけ?それとも悲運のお姫様役だった?記憶にはない。しかし、その

地味な色合いと大きな背丈には、不思議な存在感を覚えていた。今も、野原にこの花をみつけると懐かし

く、たちまち花の周りにいろんな色をつけた風が吹きはじめ、私を想像の世界に連れて行く。


  風の走る音がした。そこに俳人、種田山頭火が歩いている。


      すわれば風がある秋の雑草  「山頭火俳句集 草木塔」

      秋となつた雑草にすわる         山頭火


  私も、アキノノゲシの前に座ってみよう。


      やつぱり一人がよろしい雑草       山頭火

      いつも一人で赤とんぼ           山頭火


 私は、いつのころからかこの(雑草)をアキノノゲシのことだと、そしてアキノノゲシを山頭火と勝

手に結びつけている。

 想像の旅をする私に、山頭火が(水、空、草、夕焼け、赤とんぼ)をいっしょに連れて歩いてくれる。

アキノノゲシは野菊(ノギク)のような、たおやかな美しさはない。色は地味で無骨で粗野と言えよう。

花は夕方には閉じ、渋い臙脂色と緑に包まれて硬くなった花は、寂寥感を漂わせているようにも見える。

そして、この花はとても時雨に似合う花だ。傘を持たずに慌てて走り抜ける花野でこの花に出会ったら、

思わず濡れるのもかまわず立ち止まり、そして耳をすませ、風に、周りの空気に、目を凝らすだろう。


       わたしひとりの音させてゐる        山頭火


  時雨に野の音が吸収され、ただ一本アキノノゲシが揺れるだけ・・・。

 そんななか、池田遙邨画伯の「山頭火シリーズ」(山頭火行く1984年)を観て飛び上がってしまった。

山頭火は多くの文人に語られ、多くの画家に表現されている。その表現は無常感であったり、放浪の旅で

あったり、流れる水であったりする。

しかし、私が山頭火に惹かれるのは、「優しさ」だ。「惑いの中に有る優しさ」とも言えば良いのだろう

か。どの句も、私を優しさで包んでくれるのだ。無常や宿命や病み疲れを、足で歩き、心で歩き、歩き倒

した後に残ったものが、「優しさ」ではないかと思わせる。いろんな評が有り、私ごときが種田山頭火や

池田遙邨画伯を語るのはおこがましいことだが、山頭火にそして池田遙邨に心を癒されるのは事実だ。

池田遙邨画伯の描かれる山頭火には、そこかしこに小動物や野の花が出てくる。そして、私が遙邨画伯の

絵をみて飛び上がったのは「山頭火シリーズ」の(山頭火行く1984年)だ。

                   https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/cc/79/hanahitohira06/folder/1604285/img_1604285_21799094_0?1161241697-10-19池田遙邨


 遙邨画伯の絵は、季節の野を旅する山頭火と、野に咲く花(ススキが多い)や小動物が、まるで山頭火

を見守っているように同じ画面に描かれている。小さい花は具象的に描かれていないので、「これはミゾ

ソバ?ヒガンバナ?ノギク?」と、こちらがイメージで花姿を膨らませる。そしてそれは小さく描かれて

いるので見落とすこともあるほどだ。そんななかで、「山頭火行く」は画面に大きく野の花が、野蔓をか

らませて描かれている。陽が沈みかける空に立つ山頭火と二分するぐらいの大きさで野の花が描かれてい

る。私はこの花が、アキノノゲシだと思うのだ。そして、私がアキノノゲシに山頭火を重ねるのは、あな

がち間違っていないのではないだろうかと思うのだ。


    私も旅をしてみる。山頭火を思い、アキノノゲシを眺め、池田遙邨画伯の絵を観て・・・・。

    なんて幸せな「時」だろう。


 山頭火も、このアキノノゲシを見ただろう。花の前に座り、夜露に濡れて萎んだ蕾のもとで野宿をした

だろう。アキノノゲシは、他のどの花よりも、いつも何かの虫が寄ってきて休んでいる。


  とんぼとまつたふたりのあひだに       山頭火

  これはアキノノゲシにとんぼがとまっているのだろう


  ほんにしづかな草の生えては咲く       山頭火


 そして、夜が明けるとまた旅を続けるのだ。花は咲き続ける。どこまでも野の花を連れて旅をする。


 山頭火も見た?池田遙邨画伯も見た?同じものを見ている幸せ。そして実際には、旅が出来なくても

(想像できる幸せ)これは、なににも代え難い楽しい一時である。

       笠にとんぼをとまらせて歩く          山頭火

  珍しくアカトンボが寄ってきた。空は焼ける入日だ。夕焼けだ。






            月光(ひかり)の銛        木村徳太郎
          
          光の銛を

          見ましたか。

          夜の四つ角

          寒の街

          ぐさっと刺さって

          居りました。

          光の銛を

          見ましたか。

          月が怒って

          投げた銛

          何故だか恐くて

          ありました。
 

2006.10.19

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