全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]

震災から5か月が経ちました。あの日、家にいた私は、地震の後につけたテレビの画面にくぎ付けでした。津波に襲われる被災地の映像は今も頭にくっきり焼き付いています。
二、三日して友人から「仙台に遊びに行っていて被災した姪が無事帰ってきて、『あっちでは日常を取り戻そうと頑張っているのに、東京で浮足立っていちゃダメじゃない』と言っていた」というメールが来ました。でも正直、私にはその意味がよくわかりませんでした。原発事故も相次ぎ、地震から一週間たっても、何が起こっているのかさえわからない状況でした。
そんな矢先、実家の母が手術をしました。
あれから五か月。どんなに時間が過ぎても、3.11以前に戻ることはできません。あの頃の「日常」はもうないのです。
東北の朝鮮学校の崩れた教室、灼熱の太陽が照りつける福岡の朝鮮学校の校庭で放射能の除染に汗を流す全国から集まった同胞たち、「フクシマ」という言葉を聞くたびに「また何か」と高鳴る鼓動、そして痩せて半分になってしまった母…。
今日、テレビのコメンテーターが「3.11で『すべては有限なのだ』ということを再認識した」と言っていました。そう、すべてのことには限りがあるのです。だからテレビを見たり、本を読んだり、家族や友人と一緒に食事をしたり、笑ったり、泣いたり、喧嘩をしたり、そんな「日常」の些細な一つ一つが大切に思える今日この頃です。

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

東北の朝鮮学校で行われた詩の朗読会&焼肉のイベントに行ってきました。大阪の詩人ホ・オンニョさんの企画で、京都、大阪、東京、群馬などから日本人の方を含め13人がおしかけました。

 前日には、韓国から僧侶の方々が支援金を持っていらしたそうです。支援金は四月に続いて二回目で、それ以外にも被災直後には11トンのミネラルウォーターや大量のスニーカーも送ってくださったそうです。お水は私もおいしくいただきました。
 
 土曜日の午後の詩の朗読会、居眠りしてしまったらどうしようと不安でしたが、とんでもありませんでした。低学年の子供たちもすっかり聞き入ってたまに笑い声をあげていました。童話「金の斧銀の斧」の朗読ではお面をかぶった三年生の児童たちが途中で出演、「アニエヨ、アニエヨ」と言いながら顔の前で手を振っていた姿を思い出すたびに顔がほころびます。

 焼肉と飲み物は群馬から参加した廉数昭さんご夫婦が準備してくださいました。気温は30度を超え、太陽はじりじりと照っていましたが、子供たちと食べる七輪の焼肉はそんな暑さも忘れさせるほどおいしかった!です。子供たちはもちろん、先生たちも、オモニやアボジたちも素敵なキャラクター満載で、魅力的な方々でした。

 けれどその笑顔の後ろには、壁の崩れた校舎、狭くて蒸し風呂のような寮を臨時教室した授業(この日も男子児童が鼻血を出して保健室に運ばれていました)などなど、被災の傷がくっきりと残っています。

朝鮮学校はどこも皆運営に四苦八苦しています。でも被災したこの学校をこれからもずっと忘れてはいけないと思いました。

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

韓国領事館から電話がありました。
先月更新を申請したパスポートのことだと言って、夫の職業や私の職場についてあれこれ聞いたあげく、朝鮮女性同盟の地元支部に「私は貴団体の活動とは一切関連ありません」というような内容の文書を送って、内容証明を領事館に送るよう指示されました。
 
「大韓民国の国民が大韓民国を反対する団体の活動をするのは許せない。法律でも禁じられているので、韓国に入れば捕まることもある」というのです。
 
私が韓国のパスポートをとったのは90年代末、2005〜06年にはソウルに居住して大学院に通っていました。
けれどこんなことは一度もありませんでした。これは脅しです。
 
女性同盟のオンニたちとは新年会や花見、クリスマスパーティで一緒に食事したり、山登りに行ったり、私にとってはかけがえのないコミュニティなのです。今回の震災でも、「こういうときに他の地方出身の私を捜してくれるのはきっと分会の人たちなんだろうな」と改めてその大切さを実感しました。
 
 
私としては、朝鮮半島の南北どちらかに肩入れしたり、敵対したりする気など毛頭ないのですが、彼らにはそれが許せないようです。
海外旅行はしばらくお預けです。
 
 

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

以前もお話ししたように、父は12人兄弟でした。
一人は幼くして亡くなり、二人の叔母は父が結婚する前に嫁ぎ、もう一人の叔母はシスターになっていました。
今は神父となって韓国にいる叔父もこの頃は東京の修道院にいました。
末の叔父は祖父が再婚した後に生まれたのでこの頃はまだおらず、叔父四人と叔母一人、そして祖父母が一緒に暮らしていました。

幼稚園に入る前のことです。
私は当時末っ子だった10歳上の叔父が学校から帰ってくるのを楽しみにしていました。
叔父が帰ってくると母から10円ずつもらって、一緒に近所のお菓子屋さんに走って行くのです。
叔父ちゃんに10円を渡してベビースターラーメンを手にすると、家にかけ帰ってお湯を沸かし、ラーメンにかけて三分間待ちます。
ふたを開けると湯気と香りが広がり、「いただきます!」と言い終わらないうちにラーメンを口にほおばっていました。

その後叔父や叔母が独立して、母が父とともに仕事に出るようになった後も、ラーメンには大変お世話になりました。
食べ盛りの私たち弟妹にはラーメンはおやつのようなもので、家にはいつもラーメンの箱がおいてありました。

大人になっても一年に何度かあの味が恋しくなることがあります。


開く コメント(1)

開く トラックバック(0)

祖母が床に伏していたので、私が5,6歳のころだと思います。
父のすぐ下の叔父に縁談が持ち上がりました。
叔父は大学を卒業して韓国学園の先生をしていました。
いつも単車に乗って学校に通っていたのを覚えています。
相手は名古屋の女性です。

祖父に連れられて汽車で名古屋に行った記憶があります。
新幹線の走る直前だったのでしょう。
祖父は私をたいそうかわいがっていたようで、よく連れて歩いていました。
外出して帰ってくるときも、数十メートル先の道路から大きな声で私の名前を呼ぶので、近所では有名でした。
私はただただ、恥ずかしかったのですが…。

名古屋のお嫁さんの実家には応接セットがありました。
縁談が決まるまで祖父は何度か名古屋を訪ねたようで、そのお土産が「ういろう」でした。
私の父は和菓子が大好きで、「ういろう」にも目がありませんでした。

そんなわけで幼かった私の頭には、生まれ故郷の京都の八つ橋よりも先に「名古屋名物ういろう」がインプットされたのです。

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事