大家族の食卓

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以前もお話ししたように、父は12人兄弟でした。
一人は幼くして亡くなり、二人の叔母は父が結婚する前に嫁ぎ、もう一人の叔母はシスターになっていました。
今は神父となって韓国にいる叔父もこの頃は東京の修道院にいました。
末の叔父は祖父が再婚した後に生まれたのでこの頃はまだおらず、叔父四人と叔母一人、そして祖父母が一緒に暮らしていました。

幼稚園に入る前のことです。
私は当時末っ子だった10歳上の叔父が学校から帰ってくるのを楽しみにしていました。
叔父が帰ってくると母から10円ずつもらって、一緒に近所のお菓子屋さんに走って行くのです。
叔父ちゃんに10円を渡してベビースターラーメンを手にすると、家にかけ帰ってお湯を沸かし、ラーメンにかけて三分間待ちます。
ふたを開けると湯気と香りが広がり、「いただきます!」と言い終わらないうちにラーメンを口にほおばっていました。

その後叔父や叔母が独立して、母が父とともに仕事に出るようになった後も、ラーメンには大変お世話になりました。
食べ盛りの私たち弟妹にはラーメンはおやつのようなもので、家にはいつもラーメンの箱がおいてありました。

大人になっても一年に何度かあの味が恋しくなることがあります。


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祖母が床に伏していたので、私が5,6歳のころだと思います。
父のすぐ下の叔父に縁談が持ち上がりました。
叔父は大学を卒業して韓国学園の先生をしていました。
いつも単車に乗って学校に通っていたのを覚えています。
相手は名古屋の女性です。

祖父に連れられて汽車で名古屋に行った記憶があります。
新幹線の走る直前だったのでしょう。
祖父は私をたいそうかわいがっていたようで、よく連れて歩いていました。
外出して帰ってくるときも、数十メートル先の道路から大きな声で私の名前を呼ぶので、近所では有名でした。
私はただただ、恥ずかしかったのですが…。

名古屋のお嫁さんの実家には応接セットがありました。
縁談が決まるまで祖父は何度か名古屋を訪ねたようで、そのお土産が「ういろう」でした。
私の父は和菓子が大好きで、「ういろう」にも目がありませんでした。

そんなわけで幼かった私の頭には、生まれ故郷の京都の八つ橋よりも先に「名古屋名物ういろう」がインプットされたのです。

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祖母が亡くなる少し前のことです。
家の前で、強烈なにおいに思わず鼻をつまみました。
犯人は大きなお鍋で煮立っている犬の肉でした。
病床の祖母に食べさせようと、祖父がどこからか調達してきたようです。

朝鮮では昔から赤犬を食べる習慣があります。
滋養強壮にはもちろん、呼吸器に特に良いようで、犬を食べて結核を直した人もいるようです。

この後も、私は二度犬の料理に出会っています。
一度は京都で、同胞の家を訪ねた時、
もう一度は大阪で、朝鮮学校の高体連加盟問題について取材に行ったときです。
一緒に行った同胞はもちろん、日本の方も「おいしい、おいしい」と肉をほおばっていましたが、
本来肉が苦手な私は空腹を抱えてただただ彼らの食べる様子を見守っていました。
最近は加工が進んで、以前のように強烈なにおいを発することはないようです。
東京の大山あたりにも、犬肉料理を提供するお店があるようで、夫は誘われて何度か行ったようです。







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京都市の太子道というところに「コリアンカトリックセンター」という在日朝鮮人の教会があります。
私の実家は父方も母方も、五代目とも六代目とも言われるカトリックの家庭です。
二人が出会ったのもこの教会でした。

普段は地元教区の教会に行くのですが、月に何度かはこの教会に行っていました。
きっと「頼もし」の開かれる日だったのではないかと思います。
当時、在日朝鮮人に門戸を開く銀行はありませんでした。
そのため同胞にとって「頼もし」は、冠婚葬祭や商売で急な大金をやりくりするために必要不可欠だったのです。
同胞のコミュニティーにはどこでも「頼もし」がつきものでした。

青年会や婦人会など教会ならではの活動も盛んで、日曜には多くの人が集って、たいそうにぎやかでした。
午前中にミサが終わると、昼食は決まってうどんでした。
オモニたちが割烹着を着て食事の準備をしていました。

当時、カトリックセンターには「カール神父様」と呼ばれる人気者の主任司祭がいました。
子ども好きで、フランケンシュタインなどのゴムの仮面をかぶって私たち子どもを驚かせていました。
今は東急ハンズやドンキホーテで売っていますが、当時は大変珍しく、休暇でアメリカに帰った時に持ち帰ったのだと聞いていました。
恐くて涙を浮かべながら逃げていたのを覚えています。

もう一つの名物は、音程のそろわない「聖歌」です。
ミサの合間の聖歌を、お年寄りがそれぞれオリジナルの音程で、ここぞとばかりに大きな声でうたうのです。
日本語のよくわからないおばあさんも、聖歌の歌詞だけは覚えていたのでしょう。
委縮して暮らす日常の憂さを晴らすかのようでした。

今も当時の歌を思い出すと思わず笑いがこぼれます。








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母は実の父親と一緒に食事をしたことがありません。
毎回父親の部屋に食膳を運んでいたそうです。
お嫁に来て、家族が皆一緒に食事することに驚いたと言います。
「一人ぽっちの食事なんか味気なかったやろな。かわいそうに」と言っていました。

とはいえ、わが家の食卓でも祖父は特別でした。
祖父の前にだけは毎日、朝は卵、夜は魚の料理がありました。
孫の私はよくそのおこぼれに授かっていたようです。

叔父や叔母は学生で、大学生だった叔父たちはアルバイトに明け暮れていたようですが、大黒柱は父でした。
三輪トラックで古紙や古鉄を集めて、一人生活を支えていましたが、豊かなはずがありません。

父は地元国立大の医学部に入学したものの、生活に追われ、学問を断念したようです。
息子を医者にすることは祖父の宿願でした。祖父は勝手に大学を辞めた父を許せなかったようです。
大学など通ったことのない祖父には理解ができなかったのでしょう。
一方、父もやめたくてやめたわけではありません。
家族を断ち切って勉強に専念しようと寮に入った時期もあったようですが、そこにも途方に暮れた弟妹が生活費の無心に来たといいます。
医学生から廃品回収へ、誰も父の挫折感をはかり知ることはできませんでした。

その後、恋愛で母と結婚し、私が、そして一年後に弟が生まれ、新しい光がさしたように感じたころもあったようです。
ところがそれもつかの間、
今度は一歳だった弟が祖父に連れられて行った銭湯で事故死してしまいます。
一つ屋根の下に住みながらも、祖父と父の溝は深まるばかりでした。

しかし祖父の食膳から朝食の卵と夕食の魚料理が欠けることは一度もありませんでした。



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