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(その1より) 小原本陣を出ると国道に沿って旧道は小仏峠に向って登っていきます。底沢橋の手前で国道から美女谷温泉郷方面にわかれていきます。下り中央線普通電車をみながら高速道路の高架下を通過します。 美女谷温泉入口を左にみて道は大きく屈曲し、やがて峠の登り口にさしかかります。 高度差250メートルの山道をのぼりきると小仏峠(548m)です。(15:42) 相模(神奈川県)と武州(東京都)の境となります。 戦国時代にはここに関所があり富士見関と呼ばれていました。その後徳川の時代になり天正8年(1580)関所は駒木野に移り小仏関所と呼ばれるようになったといいます。 富士見の関とはいえ残念ながら今日は富士を望むことはできません。 峠には朽ちた小屋が晒され、傍らには道標を兼ねた庚申塔(寛政7)がしっそりと佇んでいます。 伊能日記には 立場屋五軒があったと記されていて往時の賑わいが知られます。また外国人向けの明治日本旅行案内書には 峠の頂上(茶屋二軒、海抜1850フィート)からそして登山中もずっと、遠方に海を望む江戸平野全域の広大な風景が得られる。・・とあります。 たしかに東側の展望は開け眼下に八王子の市街が見渡せます。水蒸気の少ない時期なら東京湾までも視界に入ることでしょう。 時間もだいぶ遅くなってきました。若いときの気分で急坂を転げるように峠道を降ります。しかし脚がついていかないのがもどかしい限りです。 膝が笑い出すころS字のヘアピンカーブが現われます。このカーブは明治中期の地図にも、もちろん伊能図にもありません。中央高速道路の工事にともなってできたものらしいようです。 事前のチェックでこの近くの宝珠寺の境内に小佛のカゴノキ(鹿子の木 天然記念物)と甲府三度飛脚中の常夜灯があることを知りました。旧道ウォーカーとしては、どうしても立寄りたい誘惑にかられるポイントです。 カゴの木は本堂登り階段口左にありました。木肌が鹿の背の模様(鹿の子の木)です。 常夜灯は階段を上りきって庫裏を右に廻った山王神社前にあります。常夜灯の台座に甲府三度飛脚中の文字が刻まれています。甲府と江戸の間を月三度往来した町飛脚の常宿が小仏宿にあって、その飛脚達が奉納した記念塔です。彼らの定宿は三度屋と呼ばれていたと言います。 伊能図にはこの辺りから高尾山薬王院に向って朱線が延びています。計画では、この朱線に沿って高尾山に登る計画でしたが、前半の資料館や本陣見学、迷い道のロスタイムなどで、とても余裕がなくなってしまいました。次回登ることにして通過です。(17:20) 国の史跡小仏関所跡を左に見て影の長くなった街道をひたすら東に進みます。 小仏からこのあたり現代地図では裏高尾町とひとくくりになっていますが、伊能図では長房村の小字として小仏−摺橋(するはし)−新井−駒木野−小名字の村名がでています。地図には無くなりましたがバス停にこれらの名を残しているのは嬉しいかぎりです。 今日の終点高尾駅も近づいてきました。旧道は国道20号に合流してJR中央線のガードに交わる両界橋を通過します。 両界橋の名はこの橋が駒木野宿と上大椚田(おおくぬぎだ)境の位置に架かるゆえの呼称であるといわれています。 18:05 長かった一日も終わりJR高尾駅(北口)に到着です。高尾山薬王院の門前駅にふさわしい駅舎が出迎えてくれました。 高尾駅は年輩の人には淺川駅といったほうが懐かしいかもしれません。1959に淺川村が八王子市に編入されて高尾に変ったのです。 本日の歩行距離は地図上の区間距離は17キロにもかかわらず、迷い道や寄り道、写真撮影で歩きまわったためGPSログで28kmとなっていました。 同行のK氏はヒラメ筋 肉ばなれ後のハイキングとなりましたが問題なく良い汗をかいた一日でした。
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伊能図を歩く甲州道中第11回はゴールデンウイーク(GW)に入った4/30に藤野から小仏峠を越えて高尾まで歩きました。 今回はいつもブログにコメントをくれる友人のK氏が同行です。 今回は甲州街道歩きのウォーカーに何人も出会いました。さすがGWです。 藤野駅を8:33分に降り立ち前回の終了点駅前から国道20号に沿って歩き始めました。 正面に陽をあびながら30分くらい進みますと旧甲州街道は一度国道から離れますが、250m先ですぐ合流し深沢橋を通過するようになります。 この深沢橋の下には、伊能忠敬測量日記にも出てくる小猿橋という断崖に架けられた橋がありました。今ではダム湖の出現で水中に没しています。伊能日記には小猿橋渡幅十四間(25.2m)と記載があります。 今回は往時の姿を再現しているパノラマ模型があるというので本陣前の藤野郷土資料館に寄ってみました。 往時の小猿橋はパノラマの下の木橋です。上の橋が新小猿橋で現在の深沢橋の近くになります。往時の街道はアップダウンが激しかったのですね。 現在の深沢橋の鉄橋工事の写真も残っていて橋の変遷を知る上では貴重なものです。 この写真を見ると命綱をつけていない鳶の姿や、竹で作られた櫓(やぐら)が写っています。信じられない工事風景です。 この資料館は無料で人の良い担当者が丁寧に説明してくれます。また民具や懐かしい生活用具などの展示もあり街道歩きの方はぜひ立ち寄ってほしいところです。 資料館を出て直ぐ右手前方に斜張橋の近代的な勝瀬橋が見えてきます。隣には旧勝瀬橋が役目を終えて橋脚だけが取り残されています。 ところで明治の中ごろにこの地を旅行した外国人の日本旅行日記によりますと、小仏峠を越して小原に出て、ここから馬入川(相模川)の舟運を利用して勝瀬に渡り、急坂を上って吉野宿に出ている記述があります。明治の旅は徒歩、駕籠、俥(くるま)の他に舟も使用していたのですね。 旧道は勝瀬橋の手前を国道から離れて北上するのですが、勝瀬橋の威容に集中力が一時欠けて国道を中央高速の相模湖IC先まで進んでしまいました。やむなく旧道分岐まで戻る羽目になりました。(約1キロの迷い道です) 道祖神などの石造物も路傍にあらわれ旧道らしい雰囲気のなかを進みます。 途中、ヤマブキの見事な民家のご主人と立ち話。入口の傍らには釣る瓶井戸が残っています。御当主と話している中で、以前勤めていた会社の八王子工場に大学時代アルバイトで勤めたことがあると聞かされビックリしてしました。この辺までも東京の通勤圏なんですね。 馬頭観音が今も往来する人を見守ってくれています。時代が下って交通手段も変わりましたが観音さんにはこれからも交通の安全を見守っていって欲しいですね。 北に進んだ旧道もやがて東進するようになり横橋集落にさしかかります。南面の高速道路の先には相模湖が開けてきました。勝瀬橋があった所からかなり上がってきました。 高速道路の北側に沿ってきた旧道も相模湖町与瀬で国道に合流します。与瀬の急坂を下ります。 旧甲州街道は国道に合流したあと相模湖駅の東で国道を分かれ北に進むようになります。この辺り旧道は複雑で地図を見比べながら悩んでいる街道ウォーカーを何人も見かけました。 大いに惑わされた旧道も何とか抜けて坂を下って相模湖東ICのある国道に合流し小原宿へと下っていきます。 小原宿は甲州道中の難所小仏峠の西の麓にあります。(標高200m)
小原には今も現存する立派な本陣清水家住宅があります。(現在は管理が相模原市に移管されています) - (その2につづく) |
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矢坪をすぎ甲州道中は緩いアップダウンを繰り返しながら野田尻宿に入っていきます。 昔の道は徒歩の道、自然に逆らわないようにつけられ、それが心地よいリズムを作っています。 そのうねうねした旧道の中を中央高速道路が縦貫していきます。かっての旧道は高速道を跨ぎながら集落をつないでいます。野田尻に入る橋には、往時の石畳の記憶を残すため石畳をデザインした模様が付けられていました。 地元の人のはなしでは、年寄りから聞いたことがあると前置きして、はじめ高速道のルートは鉄道敷設のルートであったが蒸気機関車の吐く煙が養蚕に影響するとか、火の子による火災の心配などの反対で鉄道ははるか下の桂川に沿うようになったと話してくれました。 野田尻宿にはコンビニはおろか一軒の食堂もありません。しかし地元の人は隣接する談合坂サービスエリアのレストランや売店を利用するといいます。その出入りには緊急車両用ゲートの脇を歩いていくんだと耳打ちしてくれました。 近いうちにETCを利用して車両も出入りができるようになるらしいのです。 談合坂サービスエリアも野田尻の枝郷団子坂に名前を由来しているとも聞きました。 街道に面して花と見間違う金色の庭木を褒めると、梨の花やクマガイソウも見ていってくれと裏庭に案内してくれました。今年の梨の開花は2週間も遅いと心配顔です。 野田尻宿をあとにし中央高速道を縫うように東に進みます。 やがて長峰砦跡の案内板があらわれます。この辺りは武・相両国にたいする国境警備の城塞群があったと説明されています。遺跡の中を高速道が走っているのですね。 「夏草や兵どもの夢の跡」の句が浮かんできます。 往く手に大杉が見えてきますと、大椚(おおくぬぎ)集落の入り口です。観音堂の境内には二十三夜塔などたくさんの石造物があります。 大椚(おおくぬぎ)集落を抜け、大椚一里塚跡をへて鶴川宿に下っていきます。 鶴川橋を越え対岸の急坂を登り返して行きます。振り返ると鶴川橋と鶴川の集落が見渡せるようになります。 当時の鶴川は通常八間(14.4m)、出水時は二十間(36m)から四十間(72m)あったといいます。 伊能測量日記には鶴川渡二十一間(37.8m)とありますから伊能忠敬が通過したときは、かなり水量があったことがうかがえます。水量が少ない冬から春にかけては仮の板橋が架けられていましたが、夏から秋は徒歩渡りであったといいます。 またこの川は流れが速いため川越人足の助けを借りなければなりませんでしたが、人足の人気が悪く法外な賃銭をゆすられる難所でもあったらしいのです。そこで旅役者などはこれを避けて大菩薩峠越えの青梅往還をとったともいいます。 鶴川橋を渡り、対岸を登り返して上野原宿に入ります。この町は鉄道が開通する前は相模川の舟運を利用した流通の中心であったといいいます。 上野原を過ぎると、やがて紅い鳥居の前に塚場の一里塚跡がでてきます。この神社良く見ると疱瘡神社とあります。白ペンキで書かれた防火水そうの文字を水ほうそうと錯覚して独り苦笑してしまいました。 中央高速を越して諏訪集落にはいり、諏訪の口留番所(境川番所)跡のある急坂乙女坂を下ります。 乙女坂の屈曲した坂をくだり、境川橋(鉄橋)の手前でヘアピン状に左折し境沢橋を渡ります。 国境(くにざかい)の境沢橋(境川)を渡り、甲斐(山梨県)から相模(神奈川県)に入っていきます。 笹子峠に源を発した笹子川は大月で桂川に合流して桂川に変わり、更にこの国境で相模川に名前が変わって相模湾にそそいでいきます。 境沢橋から上り返し下小渕で国道20号に合流します。 藤野駅近くの街道からあの緑のラブレターに再会です。 この野外アートについてはこの伊能図を歩く旅の第2回目に、特急あずさ3号の車窓から見て以来の再会です。[http://blogs.yahoo.co.jp/hanamipark/31561940.html] これだけ大きいと、もしかしたら宇宙からも見えるかも知れないと、帰宅してからグーグルアースを覗いてみますと、やはり写っていました。宇宙飛行士の山崎直子さんにも教えてあげればよかったですね。 17:10藤野駅に到着。終点にするにはまだ惜しいような明るさです。 藤野からは高尾で乗換え普通電車で帰宅しました。 今回の歩行距離はGPSログで28kmでした。 |
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今年は4月の半ばを過ぎたというのに気温の上下が激しい。昨日は冷たい雨が関東地方をおおっていました。しかし今朝は一転して気温が上昇し爽やかなウオーキング日和です。 伊能図を歩く甲州道中の旅は先週につづいてJR鳥沢駅から藤野駅まで歩きました。(4/21) 前回の終着点鳥沢駅から歩き出し800m先で左折し急坂をのぼっていきます。(9:10) これから犬目宿まで高度差200メートルの坂道がつづきます。道はやがて中央高速の下をくぐるようになります。 近くにはウグイスのさえずり、時おりコジュケイのかん高い鳴き声が響きます。遠くからはツツドリの鈍い鳴き声も聞こえ春の到来をつげています。 左手の山並みの中腹を甲州道中は東に続き、旧道は犬目宿に向って一途ののぼりです。 石垣の上の馬頭観音像が旅人を見守ってくれます。 鳥沢の国道から分かれて2百メートルくらい登ってきました。 ここは道路が南に回りこみ視界が大きく開け、晴れていれば富士山の絶景ポイントです。 あいにく今朝は頂上が雲に覆われ裾野の残雪が雲間に光ってみえるだけです。下の写真は一昨年(2008年秋)にここを訪れたときのもの。雲がなければこのように見えます。期待して来ただけに本当に残念です。 北斎もこの景色に感動して富嶽三十六景「犬目峠の富士」を残しました。 富士山のビューポイントをすぎ、しばらくいくと左手に旧道の石畳入口がでてきます。往時の坂道はこのように石で敷き詰められていたのですね。牛にも草鞋をはかせて登ったのでしょうか。 坂を上り詰めたところに何軒かの民家がならんでいました。 その一番手前の築250年という大きな民家のご婦人とおしゃべりをすることができました。 くぐり戸を入ると軟らかい感触の土間、見上げると黒光りした太い梁、かって養蚕をしていた二階床下の煤けた竹。 昔は入口を入って左が馬屋で今は畳敷きの居室に改装されています。その名残りを 馬せん棒 受けに残していました。 話がすすむうちに千葉市とここ恋塚を半々で生活している様子で、子供たちは千葉に住み、ご夫婦でこの家を守っているとのことです。文化財的価値を持つ古民家を守る現実を垣間見た思いです。 「さしみ蒟蒻を食べていきませんか」と勧められましたが、一見の旅人にそこまではと固辞してお暇しました。 - さしみコンニャクに未練を残して県道にでますと前方に恋塚の一里塚がみえてきます。 塚が現存しているのは珍しいことです。御射山神戸の一里塚以来です。 近くには君恋温泉もありロマンチックな処です。だいぶ前、友人と連れ立って百蔵山から扇山をハイキングして君恋温泉に下り、湯につかり山菜料理を堪能して四方津に下ったことがありました。この付近にはお勧めの日帰りコースがたくさんあります。 一里塚をすぎると道は緩く下って犬目宿に着きます。 街道に面した民家の玄関先に座っている老婆に挨拶すると、綺麗に咲いたクンシランの写真を撮っていってくれと自慢されました。 車の往来といえば宅配便のトラックくらいの静かな佇まいの街道です。 犬目の東の端で道は三叉路にさしかかります。右は大野貯水池方面、中央は野田尻方面、そして左の坂道は新田集落への道。古道は左の道をたどります。 伊能忠敬の五月三日の測量日記にもこれまで辿ってきた中野、三谷(山谷)、恋塚、犬目とこれから辿る安達野、新田、矢坪、野田尻の地名がでてきて、測量隊のたどったルートであることが分かります。 新田集落の東の外れで旧道は舗装から山道に変わりますが手入れがされていて歩きやすいです。 水平につけられた山道はやがて右側が鋭く削ぎ落とされた急峻な崖道になってきます。 ここは座頭転ばしという難所。 アーネスト・サトウの明治旅行案内にも ・・・往時、一人の目の不自由な乞食がここ座頭ころばしで休んでいたところ突然仲間が下から声をかけたので、絶壁を通り越して真直ぐに歩き転落死したと語られている。新道が下部を通過している。 ところで、この明治日本旅行案内には、この座頭転ばしから江戸湾が遠望できると書かれています。少し紹介してみましょう。 ・・道は野田尻へと降り立つ。この村から旧道が座頭ころばしに向って登り、そこから振り返ると晴れた日には山間の窪みの向こうに江戸湾に浮かぶ船を望むことができる。左手には小仏峠が見え、茶屋の上方に案山山がそびえている。・・・ こんな山中から、江戸湾が見える。本当だろうか。今回はそれを確認したく双眼鏡を持ってきました。 たしかに青く塗られた相模湖大橋方向の山間がV字に開けているのが認められ、双眼鏡で覗くと揺らいだ視界の中に都市の家並みらしきものが見えます。 しかし東京湾までは確認できません。時刻は11時54分。水蒸気の無い早朝か秋の澄んだ時には見えるのかもしれません。帰宅して地図で座頭転ばしからV字の山間に直線を引くと、その延長線は海ほたるに達します。直線で67キロメートル。充分に視認可能な距離です。 難所もすぎ道は春満開の矢坪集落に下っていきます。桜窪とその名も素適なバス停が現われ、ここで県道に合流です。そして旧道は中央高速道の上を越して野田尻宿に向っていくようになります。 (その2につづく)
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今回の伊能図を歩く旅は先週に続いてJR笹子駅から鳥沢駅までを歩きました。(4/13) 今朝のJR中央線は人身事故や強風による徐行運転などでダイヤが大分みだれていました。 特急あずさ号も遅れはしましたが大月駅の乗り継ぎ時間で、それも吸収され予定通り笹子駅に到着です。 前回の到達点笹子駅前から歩き出します。今朝は昨日とはうって変わって暖かく気持ちよい街道歩きです。 歩き始めて1.2キロ行った左手に滝子山の入口を示す看板が出てきます。旧道は国道とわかれ左折してJR線のガードをくぐって吉久保・原集落に入っていきます。 旧道の良い雰囲気にひたりながら歩いていくと左に稲荷神社がでてきます。 境内に入ると合体道祖神と説明がある石造物がありました。五穀豊穣を願った道祖神で勝沼宿についで二度目です。 このあたり旧道は国道については離れて緩いカーブを描いて続きます。JRのガードをくぐって国道に合流すると左手に、本殿を立派な屋根で覆った子(ね)神社があらわれます。 本殿の割には不釣合いな大屋根に、近くの住民に訊ねますと「あれは中央高速の建設時に本殿を曳家(ひきや)してこの地に移動したときに覆った」とのこと。「あのときは、おお事だったよ」と指さしながら曳家の様子を話してくれました。 雨降って地かたまる。神様も転んでもただでは起きないようです。 鉄道敷設で寺社の参道が分断された様子を房総海岸歩きで多くみてきましたが、高速道路の建設でも同じようなことが起っていたのですね。 この山は空気が澄んでいると千葉からも東京湾越しに見えることがあります。そのことを地元の人に話しても、にわかには信じてもらえません。 初狩駅手前で、寄り道してリニア実験線を見に行きました。(南に700メートル) 今回の旅の事前調べで、この近くにリニア実験線があることが分かりました。ぜひ訪れて見たいと思っていたのです。このときの写真は[http://blogs.yahoo.co.jp/hanamipark/32825317.html]にアップしています。覗いてみてください。 旧甲州街道は初狩宿東で国道と分かれ、緩く登りながらやがて踏み切りを越えるようになります。 踏み切り手前に今回の旅でぜひ確認したいと思っていた聖護院道興歌碑が出てきました。この歌碑は伊能測量日記に出てくるのです。 文化8年(1808)5月2日の日記には 往古は初雁ともいえしが、聖護院大僧正道興の歌に文明九年きさらぎの初かた、初雁の里という所を通り抜ける折から帰る雁を聞て、「今はとて霞を分て帰るざに、おぼつかなしや初雁の里」と刻める碑あり。 と記されています。 帰雁を詠んだこの歌に、忠敬は二年の長きにわたって九州地方の測量を終え江戸に帰るわが身を重ねて感慨にふけったことでしょう。 JR中央線の踏み切りを越えると、右手山肌を大規模に崩した大きな砕石場(甲州砕石)がでてきます。旧道はこの中を通じているらしいのですがダンプカーが土煙をあげて往来しているので右手の広い道を迂回することにしました。 すると登りきった先で後からクラクションの音がします。軽トラックが追いついきてて「ここは会社の敷地内なので車で出口まで案内します、乗ってください」と慇懃無礼に摘み出されてしまいました。笹子川に架かる橋のたもとまで送ってもらい国道に戻ります。 初月橋で真木(まぎ)川を渡ります。 もう30年以上前、この真木川を遡ったところの大峠から雁ケ腹摺山(1874m)に友人と登ったことがあります。 その頂上から眺めた富士山が秀麗で五百円札の裏面の図柄に採用されました。そのことを知ってその撮影ポイントに立ちたいと思ったわけです。撮影者は大月市の名取久作氏。昭和17年11月3日。午前7時15分です。 同時刻に五百円札をかざして富士山を見比べた思い出が今も鮮明に残っています。 下花咲宿(本陣跡) 中央高速大月インターチェンジの下をくぐって下花咲宿に入ります。左手に重要文化財の星野家住宅が出てきます。江戸後期のこの地方の大規模民家です。これぞ大黒柱という欅の太い柱は見ごたえがありました。時期は過ぎていますが当家に伝わる雛人形がたくさん展示されていました。 - 笹子峠に源を発し、今まで街道によりそってきた笹子川も大月宿手前で桂川に合流します。 往還は今は鉄橋で対岸に容易に渡ることができますが、往時は崖を下り登り返して富士山道追分に通じていました。
笹子川の桂川合流点
明治日本旅行案内(アーネスト・サトウ)では、ここの様子を大月で道は右に折れ急な崖を下降し桂川を越え、引続きいくつかの村を抜けながら花咲渓谷を登る。・・・ とあります。現在は桂川に下降する道はないので、橋を越えた先で直角に折れ富士急行線の陸橋を越えて行きます。 富士山道追分(道しるべ) 左ふしみち(富士道) 右甲州道中 と刻まれています。 富士山道追分から東に大月駅前を通過してJR中央線の跨線橋(高月橋)南を右折して国道20号に合流します。振り返ると岩殿山が眼前にどっしりと広がり、中腹には桜が見えました。 - 桜吹雪の駒橋の旧道を下っていきます。左手に神社があらわれ花びらが境内一面を埋めつくしています。しばし足を留めて見とれてしまいました。 - 旧道は一旦国道に合流したのち、すぐ離れて狭い踏切を越え下っていきます。導水管を右にみて左に東京電力駒橋発電所がでてきます。 東京電力の前身東京電燈株式会社が桂川の水力を利用し5万5千ボルトの高圧で東京に送電を開始したといいます。1908年に完成しました。敷地内には駒橋発電所で使用されているのと同型式のフランシス水車が屋外展示され旧道から見下ろせます。 駒橋の旧道を過ぎ国道に合流し、しばらく行くと左手に百蔵山と扇山が気持ちよく見えるようになります。 名勝猿橋に到着です。(15:48) 旧道に架かる猿橋には橋の手前で国道から分かれて進みます。現在は上流に隣接して鉄橋があり旧道の猿橋は人の通行だけですが、往時は橋の上を甲州道中が通じていたわけです。 - この橋についてアーネスト・サトウは大分興味を持った様子で、明治日本旅行案内に詳しく紹介しています。 当所では垂直にそそりたつ絶壁が、狭く深くそして濃いエメラルドグリーンの流れを威圧的に見下ろしている。橋の造りは技術面で興味深い。岩を覆う両岸の土中に深く埋め込んだ何本かの横梁がそれぞれ対岸に向って突き出されその中央部に橋が置かれているかたちだ。横梁は層をなしており上になる梁ほど前に突き出て、各梁の間に直角に交わるように置かれている。・・・ 伊能日記にも記されていますが 猿橋あり。長十七間、奇功。と簡単です。 橋のたもとの大黒屋でざるそばを注文して休憩です。。 猿橋を出た先でふたたび国道に合流し今日の終着鳥沢駅に向かいます。 長かった一日も終わりJR鳥沢駅に17:12に到着。 中央線は新たなトラブルが発生して混乱は夜まで続いていました。 今回の歩行距離は寄り道も含めGPSログで27kmでした。
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