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春一番が吹いた大荒れの前日(2/12) 伊能測量隊のルートをたどり、
江見から横渚(よこすか 鴨川市)までを歩いた。
前回同様、千葉駅前から高速バスを利用して館山に行き、そこから内房線を乗り継いで江見に降り立つ(9:22)江見駅から緩い坂道をくだり海岸に出る。 「炭焼き島」を見に江見漁港突端に行く。「炭焼き」とは変な名前だ。 この島は現代図にあって明治初めの地形図には表されていない。 実際に眺めてみると島というより岩礁だ。隆起で暗礁が姿を現したのかもしれない。 国道沿いに今も漁船を改造した食堂が健全であった。 カミサンと結婚した頃、義父母と一緒にここで昼食をとったことがあった。 カミサンの出身は海無し県の群馬で義父母も喜んでくれた。 道の駅「鴨川オーシャンパーク」のある太夫崎の海岸を周ると 房州大橋 が目に飛び込んできた。 大橋(国道128号)の左はJR内房線の鉄橋、更にその左上を旧房総往還が走っている。 伊能忠敬はこの海岸線を測量して北上して行ったのだ。 遠くに太海(ふとみ)の仁右衛門島が見えてきた。 天面(あまつら)の集落に入ると特異な形をした 竹の子岩 と 仁右衛門島 がはっきり見えるようになってきた。 磯では小舟が出て 鮑(あわび)の稚貝をまいている。この稚貝は千倉の蓄養センターで育てられたものを漁協が購入して磯にまいているとのこと。 まいたものは貝の色に段差があり天然物とはっきり区別できる。この情報は地元の婦人から聴いた。 天面とは「あまつら」と読む。 かってここでは 両墓制 が行われていたという。 人が死ぬと国道沿いの「埋め墓」に埋葬し、年忌を重ねて13回忌になると掘り出し、骨揚げをして西徳寺、善光寺の先祖代々の墓(参り墓)に納められた。 今は火葬だからこの風習はなくなった。 このような風習はカミサンの故郷群馬県吾妻郡でもあったという。 遺体と霊魂を区別する考えから発生したものか。 天面の集落を離れ南面の旧道をまわると赤く塗った「西院の河原地蔵尊」が出てきた。 崖に嵌め込まれたようなお堂の中に沢山のお地蔵さんが並んでいる。こどもや若くして亡くなった人の写真もたくさん添えられている。 お堂に入ると陽だまりで新聞を読んでいた婦人が笑顔で起き上がって、お茶を出してくれた。さらに煎餅や夏みかんまで接待をしてくれるのには驚いた。 やがて自転車でお参りにきた老人も加わり1時間超のおしゃべり。 内容は大したものではないが、話題が次から次にでてきて長おしゃべりになってしまった。 別れ際に、これを持っていきなさいと夏みかんまでくれた。 Sさんというこの婦人は年のころ50代で、ここに来る前に訪ねた西徳院・善光寺の住職の奥さんであった。安房勝山の竜島から嫁いできたという。両墓制 薩摩の出身のこと 弁天島の大祭 大津事件畠山勇子の話 など色々な情報を得た。 太海(ふとみ)フラワーセンター 旧道から国道に合流して少し行き、また国道を離れて右に下って行くと、旧道下に太海フラワーセンターが出てきた。 予定では 小舟で仁右衛門島に渡る積りであったが、河原地蔵尊で予想外の時間を費やしてしまったので パスすることにした。 仁右衛門の名前は伊能測量日記にも出てくる。 石橋山の合戦で破れた源頼朝をかくまった功績から島と漁業権を与えられ、それが現在も世襲として続いている 個人所有の歴史の島である。 現在の地形図では仁右衛門島となっているが、明治初期の地形図では波太島(なぶとじま)となっている。 仁右衛門島付近の地名は 浜波太(はまなぶと)で、岬をまわると岡波太(おかなぶと)と集落の名前が変る。 岡波太のほうがはるかに民家が多い。昔は浜は漁業の村、岡は農業中心の村であったそうだが、今でもそうなのであろうか。(見わたしたところ平地は少ない) その集落の境に波打ち際から鳥居と急な階段が出てきた。 ちょうど自転車を押して坂に向う老人を呼び止めて神社の名称を訊くと「香指神社(かざしじんじゃ)」で浜波太村と岡波太村が合同で建立したといい、北側にもう一つ鳥居があるとも教えてくれた。 夫々の鳥居はそれぞれの村用のものなのだろうか。境内には「文政元寅年 奉寄進 岡 若者中・・」の手洗石がある。寄進者に岡とあるから岡波太村が寄進したもののようだ。 文政元年は伊能忠敬がここを通過した17年後のことだ。 千葉県立鴨川 青年の家 がある小さな岬から 弁天島 が真近に見えてきた。 伊能大図を見ていて不思議に思ったことがある。 それは磯村の沖に浮かぶ「弁天島」のことである。 伊能大図では弁天島の周囲が朱線で縁取られている。 測量日記には特に記載は無いが、なぜこんな小さな島を測量したのであろうか。 仁右衛門島には島名が表されていないのに弁天島には島名が記入されている。 伊能忠敬の注意を引く何かがあったに違いない 今は漁港から突き出た堤防の先端から渡ることができるが、その当時は孤立した岩礁の島であったはずだ。 この不思議を確かめるため橋を渡って弁天島に行ってみた。 立派な鳥居が出てきた。 鳥居を進むと、高い塀と鍵の掛った厳重な扉が行く手を遮っている。 扉から覗くと奥に立派な社殿 が、そして入口右に「厳島神社中開帳記念碑」と彫られた大きな石造物があった。 碑の裏には「大正十二癸歳五月一日 當日舩橋架設」とあった。 舩橋架設とは船を並べて橋を架けたということか。だとしたら凄い! ここ弁天島では61年目毎に弁財天祭があり、中開帳とは本開帳中間の30年目の御開帳のことらしい。 河原地蔵のSさんも見にきたと言っていた。それにしても 奇祭 である。 昔なら一生に一度見られるかどうかの本開帳である。次回の大祭は5年後の2014年だ。 いつ頃から始まった祭りなのであろうか。 面白くなってきた。伊能忠敬が、この島を測量した謎解きをしたくなってきた。 伊能忠敬は、実は幕府の隠密(おんみつ)で、測量は仮の姿だという風説がある。 このような憶測も、こんな疑問から生まれるのかもしれない。 (その2に続く)
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2009年02月14日
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