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(その1から続く) 八幡神社 と 大原漁港 大原漁港を見守るように 八幡(はちまん)神社 が建っている。漁港の端から長い階段を登って社殿に詣でる。 丹が浦の眺め 案内板によると、ここにはかって「帆万千(ほまち)館」という旅館があって、森鴎外や鈴木信太郎などの文人・画家が好んで滞在し、ここから眺める「丹が浦」の景観を題材にして創作活動をしたという。 今は草はらで 小浜城址 の石柱と 牧水の碑 があるのみ。 しかし自然は変わることなく悠久の時を刻んでいる。 八幡岬をあとにして大原漁港に出る。岸壁いっぱいに網を広げて補修作業をしている。 柿渋色の網は イワシ用、水色の網はワラサ用の刺し網 と教えてもらう。 漁師さんはいつも親切だ。 漁港に面した「船頭の台所」という食堂に入り昼食(ホウボウの煮付け定食)を注文する。 約40分体を休め、再び歩き出す。 一路橋 漁港の北端をすぎると「一路橋」。ここ 塩田川は山本有三の小説「真実一路」に登場する。有三は塩田川畔に3ヶ月間滞在し、名作「真実一路」を執筆した。 塩田川を越えると 長い砂浜が 夷隅川の 河口まで続く。 ここは日在(ひあり)浜。 房総東岸の崖が波浪で浸蝕され海岸流にのって漂砂となり長大な浜を形成した。 遠くに太東崎(たいとうさき)が目に入ってきた。今日はあの岬を越えたあたりが終点となる。 日在浜は 林芙美子の「放浪記」にも登場する、 「私は 日在浜 を一直線に歩いていた。十月の外房州の海は黒くもりあがっていて、海のおそろしいまでな情熱が私をコウフンさせてしまった。只海と空と砂浜ばかりだ。それもあたりは暮そめている。この大自然を見ていると、なんと人間の力のちっぽけな事よと思うなり」 と表現している。たしかに大自然は、浮世の憂さを癒してくれる。都会のどろどろした愛憎から逃れてきた芙美子は、この日在海岸にふれて心を洗われたのだろう。 大原町と 岬町の 境に ウミガメ産卵保護 の看板が出てくる。 護岸工事など 自然のバランスが崩れて ウミガメの産卵 も数少なくなったと聞く。 この辺り、明治初期の地図では 夷隅川が「うの字」に大きく南行して海に流れ出ている。現在の河口はここから1キロ北に行ったところに変わっている。 砂丘を 越えて旧夷隅川(日在潟)に出る。ラグーン(潟)と 養殖池の 間にある 枯れ草の道をたどると大きな鯉や水鳥が 驚いたように逃げ出す。 太東崎 と 太東崎灯台 日在潟を抜けて 夷隅川に架かる江東橋を越え 太東崎に向う。岬手前に 国指定の「太東海浜植物群落」が出てくるが 時季が早く 花は見られない。 この群落も海蝕によって規模がかなり減少したらしい。 太東崎灯台へは 灯台の建つ丘陵の裾を 大きく迂回して 灯台口から急坂を登る。 息を弾ませて展望台に到着。(15:57) 振り返ると 大原漁港から 日在の砂浜が見える。今日は良く歩いた。 北に目を転じると 次回たどることになる 九十九里浜が 丘陵越しに霞んで見えてきた。 「雀島」 灯台下で 持参の リンゴと クルミあんぱんで エネルギーを補給し、今回最後のチェックポイント「雀島」を訪ねる。 この島は地形図には記載されていないが典型的な「雀島」だ。明治の地形図では規模も大きく、陸地との結合度合いも大きい。太平洋に面した崖は、絶えず浸蝕を受けている様子が分かる。 太東崎付近の地形 現在の 地形図と 明治初期の地形図を 旧房総往還を「見当」にして重ね 現代図に 旧海岸線を書き入れてみた。 大きく陸地が 後退して 激しい海蝕が あったことが 良く分かる。 多いところではこの一世紀の間に100m以上後退している。海と陸との戦いが今も続いているのだ。 また 伊能図や 明治初期の地形図で示されている 太東岬の位置が 大きく南に変わっている。 実際、案内板によると現在の灯台の位置も昭和47年、激しい海蝕により灯台敷地が危険な状態になったため、100m後退したとある。 ハイキングコース 雀島から太東漁港へ向う道で、近道と思い案内に従ってハイキングコースに入る。 たしかに 眺めは 雄大で 太平洋と 太東漁港を 眺めるには絶好のコース であったが、時間的には大きなロスとなって 夕陽の山道を漁港に下る。(17:18) 今日の終着JR東浪見(とらみ)駅まで、ここから北に約3キロ。 千葉行きの 発車時刻は 17:55 で残り時間は37分。夕暮れのなか、沿道のおばさんが 振り向くほどの速足で 発車3分前にホームに立つ。がんばった甲斐があった。 帰宅してGPSログを見ると 32キロ のロングハイキングとなっていた。
どうしてもJR線が 海岸から離れていると 行程上 長距離になってしまう。 (帰宅して3日間は筋肉痛が残ったので、現状の体力では30キロ位が限界のようだ。) |
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変化に富んだ 南房総の沿岸歩きも 今回で 丘陵地帯を抜ける。 今日(4/3)は前回終点とした JR浪花駅から 大原漁港を訪ね、日在(ひあり)浜を北上し 九十九里浜南端の 太東崎を周って JR東浪見(とらみ)駅までの ロングハイキングだ。 JR浪花駅から 水の入った田圃の 中の道を 蛙の鳴き声を聞きながらスタートする。 この道は旧房総往還でもある。 歩き始めてから約15分くらい歩いたところで国道128号線に合流する。 ここから100m北に行ったところで国道を分かれ 右に 矢差戸・大舟谷へ入っていく。 曲がり角には半分に折れた 道しるべ が塀に立てかけられていた。石柱には 矢差戸・大舩谷 と刻まれている。 道標から 600mくらい 行くと正面に 神社がでてくる。(日月神社) 集落の戸数の割には立派だ。 「お参りできなくて、すいません」と 入口で会釈して通りすぎようとしたが、手洗石の 屋根を支える柱が 細い石で 造られている のに気付き境内に上がってみた。 近くに「力石」も置いてある。この石の柱は 道標の石柱と 同じ材質だ。地元の石工が造ったものに違いない。それにしても地震で折れないのだろうか。 お参りをした後、拝殿の格子越しに中を覗いてみた。目をこらして暗い中を覗くと 絵馬 が掛かっている。 良く見ると 二艘の手漕舟に 大勢の漁師が乗って 網を引いている光景だ。 真っ赤な 太陽が 水平線から昇っている。紀州から伝わった イワシの 八手網(はちだあみ)漁 の様子を描いたものだろうか。 絵馬には「明治弐拾八年 雑鋪区願主 永野政七」と願主が書かれている。「雑鋪」 はこの辺りの地名 「造式(ぞうしき)」 と読めるので、地元民が豊漁を祈願して奉納したものだろう。 大舟谷(おおぶなや) トンネルを二つ通過して大舟谷(おおぶなや)集落に出る。 集落を見下ろす 八幡神社 に登ってみた。 浜にはボートのような小舟が数隻あるだけで漁業で生計をたてているようには見えない。豊な家々の佇まいが不思議に思う。 他県との比較はできていないが、房総沿岸の集落は都会に比べて概して豊だ。 こざっぱりとして道にゴミがほとんど無い。ゴミの分別収集コーナーがきれいに掃除されている。 昨日に比べると大分風もおさまったのに押し寄せる波は高い。 伊能測量隊も この絶壁では 沿岸の測量を あきらめ 陸地を辿っている。 浪に さらわれない様に 注意して 北に隣接する 矢差戸(やさしど) 集落に向う。 入り江の高台に神社(飯縄神社) がある。 ここで 不思議な記号のある「手洗石」に出会った。 重量感のあるシャープな手洗石の 側面に 縦横の 幾何学的な 線 が刻まれた正方形が 陽刻されている。 文政十三庚寅年四月に造られたものだ。 この記号は何を意味するものであろうか。修験道者が印を切る形にも見える。 社殿横の 流木と 大鈴と 注連縄が さらにミステリーを増す。 南川海岸 伊能忠敬が辿ったと思われる内陸の道を北上する。 今日の行程は長いので、寄り道をできるだけしないようにと思いつつも、集落とその先に水平線が見えると、誘惑に負けて寄り道してしまう。 ここは 南川海岸。大波をもろともしないで釣り人が糸を垂らす。カサゴを狙っているが型は小さい。 防波堤横の 砂場に しゃがみ込んで 何かを 篩(ふる)いにかけている老人に出会う。 訊ねると 光沢のある 角のとれた 綺麗な貝の 破片を 集めて お墓の周りに撒くのだという。 歳のころは80歳代。貝を選り分ける 日焼けした指が 何か寂しい。連れ合いに 先立たれた のだろうか。 大聖寺 不動堂 大原漁港のシンボル 八幡岬を訪ねる前に 近くの大聖寺に行く。 ここには国指定の 重文「大聖寺不動堂」がある。 室町時代に建立されたと聞く。 (その2へ続く)
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