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伊能図を歩く甲州道中の第4回目は前回の終点牧原交差点から韮崎宿まで歩いた。(2009.11.15) 今回は特に、寄り道して樹齢2000年の神代ザクラと江戸中期に開削された「徳島堰」を訪ねた。 前回の甲州道中歩きでは万休院の舞鶴松が切り倒されていて残念な思いをした。今回は牧原からスタートする前に寄り道にはなるが山高実相寺の神代ザクラを見に行く。 桜の時期ではないが、何しろ樹齢2000年という国の天然記念物であるから前々から一度訪れたいと思っていた。 シーズンともなれば大変な人ごみとなるが休日とはいえこの時季人影はまったくない。 桜花はないが周囲の展望はすこぶる清明で山岳展望をほしいままにできる。 季節を代えて再訪したいところだ。山門をくぐり牧原に戻る。茅ヶ岳の展望がすばらしい。 実相寺から約30分下り牧原の交差点にでる。国道20号を横切り牧原(まぎのはら)の旧道に入っていく。 牧原は「延喜式」にのる甲斐三御牧(みまき)の一つ真衣野原(まきののまき)からの遺称と国道脇の八幡神社にその由来が説明されていた。牧原の読みが「まぎのはら」であることがそれで分かった。 牧原の集落をすぎると旧道はやがて国道と合流する。 右手に武川町農産物直売センターが出てきたので寄ってみる。甘柿、柚子、ブロッコリー、切干だいこん・・・カミサンの購買意欲がザックを膨らませる。 黒沢川をこえ宮脇(みやのわき)を通過すると小武川を渡り韮崎市にはいる。 橋を渡ると右手に御座石鉱泉への案内がでてくる。鳳凰三山への登り口だ。 20代の若きサラリーマン時代、独りで鳳凰三山を縦走して御座石鉱泉から下りてきたことがあった。初夏のころである。 あの時はバス待ちの夏空に入道雲と遠雷が聞こえてきて、よい時間に下山できたものだと、昨日のことのように思い出される。 徳島堰取水口 今回の旅でぜひ寄ってみたいと思っていた「徳島堰取水口」に行く。 御座石鉱泉入口の看板から250mくらい行った上円井(かみつぶらい)集落で取水口への道を尋ねると親切に近道を教えてくれた。 徳島堰(とくしまぜき)とは農業用水路。上円井で釜無川から取水し等高線に沿うように甲府盆地西端の扇状地を横切り曲輪田新田(くるわだしんでん 南アルプス市)まで約17キロにわたって潅がい用水を供給している。 この堰は身延山参詣のおり釜無川右岸の窮状を知った江戸の商人徳島兵左衛門が甲府藩の許可を得て開削したもの。寛文5(1665)のことである。 グーグルアースにこの徳島堰をトレースしてみると甲府盆地西麓の扇状地を横切る徳島堰の様子がよくわかる。全長17キロメートルの長い距離を緩い傾斜(高低差約80m)で流れている。当時の土木技術や水準測量技術などかなり進んでいたのではないかと想像できて興味深い。 御勅使川(みだいがわ)が流れる扇状地中央砂礫地は地下水位が低い干ばつ地だったから、この堰の開削でおおいに恩恵を得たことであろう。 取水口近くの畦道で持参の昼食を摂る。右の山岳はオベリスクのある地蔵ヶ岳。 周囲は鳳凰三山、甲斐駒ヶ岳、八ヶ岳と遮るもののない大パノラマが展開する。 - 上円井の旧道を行くと右手に「徳島翁おはかみち」と刻まれた大きな石柱が出てくる。 なまこ壁がある細い道を抜けると妙浄寺が現われ、石段を登ると徳島兵左衛門翁夫妻の墓があった。 墓の石垣には徳島翁の徳をしのんで堰に沿った周辺の村々の村名が刻まれている。 - - 上円井(かみつぶらい)で徳島堰を横切る。 四月二十二日の伊能測量日記には ・・・牧原村、宮脇村、小武川渡幅九間。上円井村、往島堰(徳島堰?)、下円井村・・・ とあり、伊能忠敬もこの用水路を横切っている。 旧甲州道中は上円井から釜無川を渡って左岸に出るようになるが、このまましばらく徳島堰沿いのプロムナードを行くことにする。 徳島堰はほぼ等高線に沿うようにして流れている。そのため釜無川右岸の山から沢などの水路の交差点が発生する。徳島堰は沢の下をくぐって流れているのだ。右上の写真は寺沢の下をくぐるサイホンである。 地元の土木工事会社が寄贈した等身大の警察官が出てきたが殆ど車は通らない。 水路には金網のしっかりしたフェンスがあって用水路に落ちないようになっている。 用水路の左手には釜無川の河岸段丘に水田が広がり、その向こうに富士が見えてくる。 水路に沿った道を行くと戸沢が道を横切っている。昨日降った雨のせいか水量が多い。 もちろんここも用水路は沢の下をくぐって延びている。ジャンプして越えるには不安があったので県道を迂回して戸沢橋を渡る。 戸沢橋から戸沢を見る。この沢の下を徳島堰は通過しているのだと思うと、当時の工事がいかに大変であったかがしのばれる。 清哲町折居で徳島堰に別れ桐沢橋で釜無川左岸にわたる。振り返ると前衛の山の上に鳳凰三山(左から薬師ヶ岳、観音ヶ岳、地蔵ヶ岳)が再び姿をあらわした。 ところで、この鳳凰三山は伊能中図の中にも出てくる。しかし、よく見てみると山の配列が北から鳳凰山、観音岳、地蔵岳と並んでいて、現在とは違った配列になっている。 伊能中図の鳳凰山(左) 現代図の鳳凰山(右) 詮索くせがでてきて何か名称の変遷が分からないかと図書館で調べてみた。 明治20年の参謀本部陸軍部測量局の20万分の1地形図やアーネストサトウの明治日本旅行案内、「日本百名山」、三省堂日本山名事典など色々調べていたところ、「新日本山岳誌」(日本山岳会2005.11.15)に鳳凰山について詳しく述べているのを見つけた。 これによると 鳳凰山の山名由来については、オベリスク(尖塔)である岩峰が鳥のくちばし、山稜が鳥の羽を広げた姿に見えることから仏教上の「おおとり」「鳳凰」になっていったとする説が有力としている。 また鳳凰三山のなかで一番高い観音ヶ岳2840mに1902年(明治35)に三角点が設置されたが、その「点の記」には「麓の清哲村役場で調べたが薬師岳と呼ぶ者もいて、いずれが本当だろうか。入戸野では中ノ岳、農牛ノ岳と呼ぶ」。 そしてそれから100年以上たった現代でも未だ由来について論争がつづいているともある。 このように鳳凰山について理解を深めて、あらためて桐沢橋からの鳳凰山の写真を眺めてみるのだが大とり(鳳凰)をイメージするのは難しい。先人の豊なイマジネーションを羨ましくもおもう。 桐沢橋で釜無川左岸に渡り祖母石の集落に入る。 四月二十二日の伊能測量日記には ・・・下円井村、釜無川幅九間(16.2m)、川原四十五間(81m)。下円井村、穴山村境先手初迄測る。 とあるが伊能測量隊はどの辺りから釜無川左岸穴山に渡ったのであろうか。 祖母石付近の旧道 韮崎駅 正面に斜陽の富士を見ながら夕暮れせまる旧道を今日の終着JR韮崎駅に向う。 16:35韮崎駅に着く。 前回この駅を利用したのはいつのことだっただろうか。当時はスイッチバックで駅ホームに列車が出入りしていた。急勾配の斜面を上っていく線路であったから韮崎駅に入線するときは、進行方向とは逆向きにスイッチバックしてホームに入ったのだ。 Webで調べてみると1970年に貨物営業廃止にともないスイッチバックを解消しホームが本線上に移設したとあった。ホームを水平にするためにスイッチバックが必要と思っていたが、どうもそうではなかったらしい。 今回の歩行はGPSログで19.8kmであった。
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2009年11月17日
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