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今年になって4回目の南房総沿岸歩きである。 今回もまた伊能忠敬の測量ルートをたどって、安房鴨川から行川(なめがわ)アイランド駅まで歩いた。(2/21) 千葉駅前6:45発の高速バス(千葉中央バス 1,800円)にて先週到達した安房鴨川へ。 このバスルートは館山自動車道を姉崎・袖ヶ浦ICでおり久留里街道を南下し、鴨川有料道路を経て鴨川に至る約1時間半の行程である。前回の高速バスと違って車体が一回り小さくトイレも付いていない。少々不満であったが、道路の狭さとカーブ、トンネルの高さ制限などで納得した。 津波避難丘 前回時間がなくてパスしてしまった 日枝神社の 津波避難丘(鴨川市前原)を訪ねる。 伝承では「 慶長大津波 で大きな被害を受けたので盛り土をした。元禄の大津波 でここに逃げた人は助かったので、次の襲来に備えて更に盛土した。」 という。盛土5m、丘の高さ海抜10m。 道しるべ 日枝神社を離れ北に500メートルくらい進むと変形三叉路に明治43年11月に建てられた道しるべが出てきた。 房州往還と 長狭街道の 分岐点である。 あまつみなと かつうらみち・・・房総往還天津湊、勝浦 かもかわ あさひ ほうでうみち・・・房総往還鴨川、朝夷(千倉)、北条(館山) たはら おほやま ほたみち・・・長狭街道田原、大山、保田 と彫られている。 長狭街道は 外房の物資を 横根峠を経て 内房の保田に 運び、ここから 江戸に 五大力船で 運んだのだ。 鴨川横渚海岸 いったん海岸に出て今日たどる浜辺を眺める。大雨をもたらした低気圧も北上し、冬型の気圧配置となった。風と浪はあるが気持ちよい。東北・北海道は大雪になっているとニュースは報じている。 リタイアーして好いことは、天気予報をみて好天を狙って旅に出られることだ。 軍鶏(しゃも) 待崎川の河口から諏訪神社に寄ったあと新田の道しるべを訪ねるため、また海岸を離れ旧房総往還をたどる。(国道128号とJR外房線の間の道) 待崎川に架かる橋を渡って国道128号を横切り旧道に入っていく。 450メートルくらい行くと左手に 軍鶏(シャモ)を飼っている家があった。 昔はけっこう見たものだが最近では珍しい。 ご主人に写真を撮らせてくれと頼むと、ケージから取り出して地面に放してくれた。これは若鶏で羽根の艶もいい。精悍な体躯だ。 「ご夫婦で羨ましい!」とエールをもらって別れる。 新田の道しるべ 日蓮上人受難の旧跡夜長川の手前の三叉路に新田の道しるべが出てくる。 道しるべは地蔵尊の 左面に なご道八り、 右面に 小松原十一丁 と彫られ、天明五年1785年十月に建立されたもの。(赤いよだれかけを外させてもらって撮影する。) 往還から小松原山鏡忍寺への案内である。 この辺りから 日蓮上人が 東条氏ら念仏門徒に 襲撃された 小松原遭難の旧跡 が次々に出てくる。 夜長川 これも旧跡の一つ、疵をおった日蓮上人が夜明けを待って、夜が長いと嘆いた夜長川。 旧跡を示す石碑が二つに折れて転がっている。観光の鴨川市としては粗末な扱いである。 巨大病院 夜長川沿いに再び海岸(東条海岸)に出る 海岸に出ると左手に巨大な亀田 総合病院 が出てくる。都心から離れた外房の地にこのような巨大な病院があるのを不思議に思う。 地元の話ではドクターヘリもあり地域の中核救急救命病院で病室もホテルなみだが、入院費も結構すると言っていた。 東条海岸 伊能図に出てくる東条村は現代図には東条海岸に名を残すだけで地名がない。 昔はこの辺一帯を東条といい、その後分立して東、西、広場となったという。 こぶこぶの特徴ある小山が葛ヶ崎に連なる。右端は二ツ山の葛崎城址。 疵洗いの井戸 浜荻(はまおぎ)の多聞寺の境内にある「疵洗いの井戸」も日蓮上人小松原遭難の旧跡である。 多聞寺では丁度法事が終った喪服の人々が寺から出てきたので見学をパスする。 ロシア人上陸の碑 葛ヶ崎にさしかかるとロシア人上陸の碑が出てきた。 1739年(元文4年)ロシアの探検隊船からボートで乗組員数人がこの地に上陸したとある。 幕府が伊能忠敬に命じて正確な地図を作らせたのも、このような日本沿海に現れる外国の影が背景にあってのことかもしれない。 清澄道標 二タ間川を渡り安房天津に入ると往還から清澄寺への分岐が出てくる。分岐の右手 公民館入口に清澄道 を示す道しるべがあった。 50年以上前の高校生の頃、高体連集中登山で 養老渓谷から 清澄山に登り 鴨川の海岸で 幕営する2泊3日の山旅をしたことがあった。 清澄山からの下山で、ここを右折して鴨川に向ったと思うのだが、全く憶ええていない。 清澄寺は 日蓮上人が 修行し 開宗宣言を したゆかりの地だ。 (その2に続く)
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2009年02月24日
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