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松も明けて、いよいよ今年最初のロングハイキングです。 伊能図を歩く甲州道中第6回は甲府から勝沼まで歩きました。(2010.1.11) 冬至をすぎたのに日の出が思ったほど伸びていないなあと話しながら早朝6時すぎまだ暗い街を駅に向いました。 (帰ってから日の出・入りを調べてみると、そのはずです。日の出は1月15日が折り返しで、それまではまだ遅くなるのですね。逆に日の入りは12月14日が折り返しで今は冬至の頃と比べると22分伸びて夕方の明るさが徐々に戻ってきているのです。冬至の日が両方の折り返しと思っていたのですが・・以外でした) いつものとおり特急あずさ3号を利用し甲府駅に午前9:7分に到着です。 駅からは近くの舞鶴城公園を訪ねてから前回の終着点警察署前の交差点に向いました。 舞鶴城天守閣跡からは甲府盆地と周囲の山並みが一望に見わたせます。旧甲州街道はこの盆地を横切り左奥の笹子峠へと続いています。 - スタートしてから約500メートル右手に新聞発祥の碑が出てきます。 新聞発祥というと横浜や神戸などと思うのですが、「峡中新聞」(今日の山梨日日新聞)の創始者である内藤伝右衛門が始めたとあります。この内藤伝右衛門の名前はアーネストサトーの明治日本の旅行案内にも出てきます。 少し長くなりますが紹介してみます 甲府(旅館、桜町の奥村、柳町一丁目の藤野屋、同三丁目の佐渡屋、魚町に料理店松亭)は人口一万六〇〇〇人でその進取の精神は有名で住人にも活気がある。日本において県都の規模から見てこれほど西洋式の建築物がある所はない。なかでも目を引くのは尋常小学校、県庁、銀行、裁判所、公会堂、授産場、名取雅樹が発明した水力製糸工場、内藤伝右衛門の本屋と印刷所などである。内藤は「甲府デイリーニュース」の発刊者でもある。・・・ 新聞発祥の碑から700メートルで最初の鍵の手が出てきます。道は大きく左にクランクして更に小さな第二の鍵の手に向かいます。 第二の鍵の手を過ぎると直ぐ左手に甲斐善光寺への参道が見えてきます。寄り道にはなりますが、ここは是非寄ってみたいと思っていました。 善光寺(甲斐善光寺)由来によりますと、 ・・・武田信玄が川中島の合戦の折、信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ本尊阿弥陀如来その他諸仏、寺宝、大梵鐘に至るまでことごとく甲斐に招来し、大本願第三十七世鏡空上人を開山に迎え信濃善光寺開基本田善光公追葬の地ここ板垣の郷に新たに建立せられたものである。・・・ と説明されていました。 たしかに本堂は長野の善光寺を彷彿とする立派なものです。 話はそれますが、伊能図の中に板垣村という名前が出てきます。現在の地形図にはなくなっていますが、この板垣村がどの辺のことを指すのであろうかと疑問に思っていたのですが、この由来の記で疑問がとけました。 歌川広重の善光寺スケッチ これは歌川広重が「甲斐善光寺」の境内をスケッチしたものです。 先年千葉市美術館で開催された「広重二大街道浮世絵展」で見かけました。天保12年、歌川広重が「甲府道祖神祭り」の幕絵を描くために甲府に招かれたときに写生したものです。 この中で金仏は右に描かれていますが実際は左にあります。これは戦後左に移動したそうです。 善光寺から旧道に戻り1.5キロ行くと青梅街道への分岐が出てきます。 左に行くと柳沢峠を経て奥多摩湖の方に抜けます。山好きな人には懐かしい街道です。もちろん旧甲州街道は直進します。 甲運橋の西詰に道しるべがでてきました。石和温泉の入口です。 石和温泉の開湯は新しくて昭和36年(1961)に果樹園の中から突如として温泉が湧き出したそうです。そんなことで青空温泉とか葡萄温泉とも言われています。湯量が多くて東京から1時間半と近場にあるため奥座敷として発展してきました。 昔々サラリーマン時代社員旅行で来たことがありましたが記憶はまったく薄れていてどの辺に泊まったか思い出せません。 石和温泉中央の小林公園で自販機の缶コーヒーと持参のバナナ、蜜柑、菓子パンで昼食をとりました。ここには足湯もあり冷えた手足を温めるには都合よい休憩場所です。 昼食を早々に切り上げて先を急ぎます。本陣跡碑を左にみて遠妙寺に寄ってみました。大きな山門が歴史を感じさせます。 遠妙寺の名称は二万五千の地形図にも記載されています。お寺マーク(卍)でなく地形図に載っている寺社はそれなりに由緒ありますから、事前に地図にマークして見所を決める際の参考にしています。 遠妙寺を出て笛吹川に沿った旧道を北上し笛吹橋の西詰に出ます。ここには笛吹権三郎の像と球形の道祖神がありました。 鎌倉幕府に追われた父を探す笛吹母子のが洪水にあって目的を果せない悲しい物語です。笛吹川の名の由来はこの母子によるとのことです。傍らの球形の石は甲州独特の道祖神です。 伊能測量日記文化8年(1811)4月30日の記述によりますと、 甲府の宿を出立した伊能忠敬・坂部は勝沼宿に直行。残りは2隊に分かれ、一隊は忠敬を追って川中島村から勝沼宿まで測量。他は富士追分から一宮浅間神社まで測量して勝沼宿で本隊に合流しています。 なぜ忠敬は坂部を伴って勝沼宿に直行したのでしょうか。体調でもくずしたのか、翌日越える甲州道中最大の難所笹子峠の調べのためでしょうか。このとき忠敬は67歳になっていました。 伊能測量隊はどの辺を渡渉して笛吹川を渡ったのだろうか。広い河原を眺めながら笛吹橋を越えました。 甲斐国一宮浅間神社表参道への分岐を右に見て笛吹川左岸の歩道の無い土手道を行きます。大型のダンプカーの往来が多く歩行者のことは考えていない道ですが展望がひらけ眺めは抜群です。 笛吹川に右から日川(ひかわ)が合流してきて旧道は日川に沿うようになり田中の集落に入ります。この辺りは桃の栽培がさかんで、あと4月にもなると辺り一面ピンクにそまるのでしょう。 田中の集落を抜け道は日川を渡り一町田中の集落に入っていきます。 日川橋からは上流の奥に小金沢連嶺が見えてきます。次回越えることになる笹子峠はこの連嶺の南端にあります。 カミサンのトイレブレークにコンビニを探していたのですがなかなか出てきません。とうとう我慢が越えてコーヒー店に入ることにしました。次の回からは事前にコンビニを地図に記入しておこうと話していたら皮肉にも間もなくコンビニが現われました。しかし予期せぬ挽きたてコーヒーは旨かったです。 路傍に妙な石積みを見つけました。60センチ四方の石囲いの中に丸い石を積み中央に直立した石を配しています。石囲いの四隅には篠竹も立っています。 アーネストサトーの明治日本旅行案内、甲州街道の等々力村(勝沼町)の件(くだり)に、 ・・等々力村で入念に芝を植え込んだ塚の上に道路の神様に捧げる陽物像を目にする。 との記述があります。ここは等々力に隣接する上栗原ですから記述の道祖神と同じ種類のものでしょうか。それにしても甲州では丸い石の道祖神を多く目にします。 街道に沿って葡萄園が続きます。葉の落ちた枝がぶどう棚に広がって見事なオブジェとなっています。植物なのに哺乳動物の毛細管のように相似しているのが面白いですね。 旧甲州街道に沿ってきた国道411号はここで左に分かれ塩山方面に入って行きます。もちろん旧道は真っ直ぐ進みます。(16:09) ここから今日の終点勝沼ぶどう郷駅まで登りで約4キロメートル。日の入りが16:52分。明るいうちにJRの駅に着くのは微妙になってきました。17:01の特急の発車時刻も気になります。 予め調べておいたタクシー(勝沼タクシー)を携帯で呼ぶことにしました。次回はここまで戻ってスタートになります。 今回の歩行距離はGPSログで26キロでした。
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2010年01月15日
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