旅は道づれ風吹くままに

ロングハイキングと地図と写真が好きなシニアです。

伊能図を歩く−甲州道中−

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2日目(4/6)はJR甲斐大和(かいやまと)から前回の到達点笹子峠入口まで行き、そこからスタートして、いよいよ笹子峠越えです。

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JR中央線大月駅で特急あずさ3号から普通電車に乗り換え9:07甲斐大和駅ホームに降り立ちました。標高が高いせいか、ここではまだ桜の蕾が多く五分咲きといったところです。

若い頃この駅から日川(ひかわ)を遡って小金沢連嶺のひとつ大蔵高丸に登ったことがありました。あの頃の駅名は、たしか初鹿野(はじかの)と言っていました。その思い出に耽りながら甲斐大和駅を出て坂を下っていくと突然「景徳院の住職がお亡くなりになりました。通夜は・・・」と訃報を告げる町役場の放送が山間にこだまします。

景徳院といえば武田勝頼の菩提寺。以前山門と桜を見に訪れたことがあります。
甲斐大和駅から日川沿いの天目山にかけては武田終焉の地として古跡が多いところです。

織田・徳川連合軍に敗れた勝頼主従は新府城(韮崎市)に火を放って岩殿城(大月市)に落延びようとしますが、岩殿城主小山田信茂の寝返りを知って天目山に敗走します。そして天目山手前の田野で捕捉され自害します。ここ甲斐大和町は甲斐武田氏の終焉の地でもあるのです。

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国道20号に合流する手前に諏訪神社がでてきます。案内板によると甲州街道三本杉と県指定の見事な本殿の彫り物があると書かれています。

残念ながら大杉は明治36年鉄道の開通に伴い衰弱、枯れて今では根株に往時の威容をとどめるのみです。
また、これでもかというほど見事な彫り物で埋め尽くされた本殿は一見の価値があります。特に昇り、下りの龍の彫り物は見事です。

諏訪神社を出て国道20号に合流すると目の前に巨大な中央高速道の橋梁が迫ってきます。旧甲州街道はこの下をくぐって左の山間に通じているのです。
途中、先週トラックに乗せていただいた石材店の前を通りましたが、あいにく社長さんは不在のようで挨拶はできませんでした。
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旧甲州道中の入口は注意していないと見落としてしまいます。

旧道は県道をはなれて次第に高度をあげ高速道の橋脚の下を通過するようになります。

伊能忠敬が現在によみがえったらこの光景をどう思うでしょうか。測量隊をこの風景にかさねて忠敬が巨大なブリッジを仰ぎ見るパロディを描いたらどうだろうと独り悦にいりました。

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笹子峠を越えるにあたって、「日本の街道 中部日本新聞社編」(人物往来社 s42.7.1)の中に出てくる甲州街道駒飼宿の写真をコピーしてきました。この本には東京オリンピック前の懐かしい日本の風景がたくさん出ています。
今回はこの写真が駒飼宿のどの辺りを撮ったものかを知るのも旅の目的の一つでした。

何人か年輩の住民に訊ねてみました。

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庭の手入れをしていた初老の男性に訊ねてみますと、写真の藁葺き屋根を指してこれがもと脇本陣をしていた自宅(叶屋)だといいます。そして案内板の屋号と写真を次々に照らし合わせてくれて、この写真は本陣あたりから撮ったものと特定してくれました。

今は藁葺(わらぶき)屋根もトタンで覆われ往時の姿はありません。

別れ際にわざわざ家に戻って、駒飼宿とこれから登る笹子峠までの文化財や旧跡を記した小冊子をくれました。地元の歴史を学ぶ故郷づくり推進の一環として作成したものだそうです。

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駒飼宿の街道風景

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駒飼宿の俯瞰

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駒飼宿を別れ、しばらくは笹子峠越えのかっては国道(現在は県道)たどるようになります。

やがて冬季通行止ゲートが出てきます。四月中ごろにはゲートが開くと書かれています。雪は消え木々はやっと春が始った風情です。

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旧道の山道は、県道ともつれ合うように笹子沢に沿って高度を上げていきます。

五月朔日の伊能測量日記には大雨の中を測量していったと記されています。平地と違って雨中のしかも山中の測量は困難をきわめたことでしょう。

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さらに険しくなった旧道が県道に合流すると突然トンネルが現われます。昭和11年に開通した笹子隧道です。
少し長くなりますが峠道の変遷を駒飼宿でいただいた小冊子で紹介してみたいと思います。

慶長八年から明治三十八年まで約三百年、峠の往来は盛んでありました。特に明治十三年天皇京都巡幸の折り道路が改修されて荷車が通れるようになりました。

明治三十八年国鉄中央線が開通してから人の往来は少なくなりました。

昭和十一年峠に二百四十米のトンネルが開通して街道は自動車道となって通行は劇しくなりましたが更に昭和三十三年国道に三千米のトンネルが開通したので峠を通行する車も人もなくなりました。

峠道は一部残っていましたが、荒れたり、流れて歩ける状態ではありませんでした。・・・

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路傍には馬頭観音像も残っていて、往時は牛馬の助けが必要であったことが分かります。

トンネル脇の左の山道を登って笹子雁ガ腹摺山に分岐する稜線にでました。

稜線を甲州道中が交差すると思っていたのですが道を間違えたのかもしれません。時間も午後1時すぎていましたので、とりあえずここで昼食です。

急な稜線の狭い道を西に一気にくだり切通しのような笹子峠(1096m)に到着です。これなら大名行列も通過できますね。
踏み跡を登ってきましたが、やはり峠に直接入る道は別にあったようです。日本橋から歩いてきた人はけっして間違わないのですが、諏訪方面からは注意する必要があります。

これでやっと甲州道中歩きも中間点に達しました。

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    笹子峠

トンネル上の旧道から笹子トンネル南側に降ります。
この隧道は昭和33年新笹子トンネルが開通するまで東京と山梨・長野を結ぶ幹線道路でした。大役を果したトンネルは今では交通遺産(有形文化財)として静かに佇んでいます。
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    笹子隧道(交通遺産)

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峠からは舗装された県道を「矢立の杉」入口まで一気にくだります。

南面の峠道は明るく北面の道とは対照的です。舗装された県道はまだ冬季閉鎖中で所々枯れ枝や落石がありました。

「矢立の杉」は根もとは洞になっていますが谷側の枝はまだ樹勢があります。(根廻り14.8m、樹高26.5m)

最近「矢立の杉」近くに歌謡碑と両面地蔵ができ、ハンドルを回すと杉良太郎の歌が流れるスタンドが出来ていました。大月市は何とか観光客をひきつけようと躍起のようですが少し違和感をおぼえます。
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大杉から県道を離れ山道にはいり新田の集落まで下ります。

近くの老夫婦としばらく立ち話。矢立の杉下の明治天皇野立所跡のところに往時茶屋が三軒あったこと、その内のひとつを先代が開いていて、それを記憶にとどめるため案内板を建てた、姉が駒飼宿に嫁いだことなど話がつきません。

国道20号に出たあたりは追分集落です。伊能図にも名称が出ています。一般に追分というと街道が二手に分かれる地名です。しかし地元の人に聞いても何処とどこに分かれるのか定かでありません。

(* 後日調べてみると、追分から南に女坂峠を越えて御坂町藤木野に通じる「御坂街道」があったことが分かりました。現在は不明で清八峠を経て三つ峠に向う山道があるのみとも書かれていました。)

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黒野田の一里塚跡(左)と 笠懸地蔵(右)
黒野田の一里塚跡をすぎると笹子川を渡ります。伊能測量日記では「笹子川渡十間」と記されていますから約十八メートルの川幅を渡渉したのでしょう。

JR笹子駅も近くなってきました。路傍に石を頭にいだいた石造がでてきます。案内板には笠懸地蔵とありますが、私には力士が頭に何かを載せて力自慢しているよう見えます。昨年房総歩きのとき出会った手水鉢を持ち上げる力士像を思い出しました。

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桜満開のJR笹子駅に午後4時すぎ到着。駅前の笹子隧道記念の巨大な一枚岩が迎えてくれました。

甲州道中の笹子峠の下には明治のトンネルに始まり鉄道と中央高速道まで四本のトンネルがあります。笹子は正にトンネルの町なのですね。

今回はJR初狩駅まで歩く予定でしたが、地元の人とのおしゃべりが長くなって笹子駅留まりとなってしまいました。

今日の歩行距離は迷い道を含みGPSログで25kmでした。
正月明けに勝沼宿入口まで歩いて以来の甲州道中です。今年は雪の降ることも多くて笹子峠越えもなかなかタイミングがあわずにいました。

今回は2日間(3/30と4/6)かけて笹子峠を越えました。

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1日目(3/30)は笛吹市(山梨県)の「熱気球で空から桃の花を眺める」イベントに参加してから前回終点とした勝沼宿入口から笹子峠の登り口まで歩くこととしました。
熱気球が昇る河川敷会場は前回通過した笛吹橋のすぐ下流にあります。

午前3時自宅(千葉市)を出発しました。熱気球は風の少ない早朝が良いらしく搭乗受付は先着順の午前5時50分で、これに合せるためにはどうしてもこの時間の出発になってしまうのです。

満月に照らされた中央高速をひた走り笛吹市役所前の河川敷に午前5時すぎ到着です。
夜明け前の河川敷はけっこう寒いです。天候は快晴。しかし一時的に冬型の気圧配置になったらしく風があります。

河川敷の会場に行くと、「今日は中止を決定しました」と告げられました。なんとも残念です。しかし天候まかせの気球にあっては仕方が無いですね。

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笛吹川の河川敷からは桜の並木を前景に白根三山から甲斐駒ヶ岳のパノラマが見渡せます。

この景色を熱気球から眺めるはずであったのですが・・・。
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イベント会場から前回甲州街道歩きの終点とした勝沼宿入口近くに移動して、近くのぶどう園に駐車させてもらい甲州街道に戻ります。

付近は一面の葡萄(ぶどう)畑が広がり甲府盆地の背後に残雪の南アルプスが望めます。

ひときわ白く輝く連山が白根三山で右のピークが最高峰北岳(3192m)です。富士山についで日本第2の高峰です。

この付近は岩崎地区で葡萄栽培発祥の地でもあります。

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勝沼宿に戻り街道を歩きます。左は旧田中銀行の洒落た洋館。右は街道風景です。

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3階建ての土蔵も残っていますがかなり老朽化しています。右は本陣跡の見事な松です。

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街道を俯瞰(ふかん)したく上町の交差点近くの金毘羅神社に登ってみました。

ここには四等三角点(上町)があり隣接して水準点もならんでいました。

境内には芭蕉句碑などもあって奥秩父連山の眺めもよいところです。

ここにも球形の道祖神がありました。
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街道に戻りしばらく行きますと、右手にぶどう棚からたくさんの鉢がぶら下がって、何やら手入れをしているのが目に入ってきました。

訊ねると「ぶどう盆栽」を作っているのだといいます。これは枝を鉢の底から挿入して中に土をいれ房が出来ると出荷するのだそうです。価格は4千〜7千円くらい。デラウエアだと10房くらい、巨峰だと3〜4房くらい付くらしいです。テレビ取材が多いとニコニコ顔で話していました。

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ぶどう園を別れてすぐ国道20号に合流し数百メートル行くと左手に大きな山門が見えてきます。国宝薬師堂がある大善寺です。

この寺は伊能忠敬測量日記にも出てきます。また広重の甲州写生帳にも大善寺が描かれていて堂宇の配置は今も当時と変わっていません。国宝は右の写真の薬師堂と内部の厨子で拝観料500円を払うと厨子や仏像を説明してくれます。

昨年上野で奈良薬師寺の日光、月光菩薩を観ましたが、ここにも腰を優美に傾けた日光、月光菩薩がありました。大きさも薬師寺に匹敵する大きなもので大迫力です。残念ながらご本尊の薬師如来像は5年に一度のご開帳で今回は観ることができませんでした。

ここは「ぶどう寺」とも云われ、僧行基の夢枕にぶどうを手に持った薬師如来が現われ、これを基に薬師如来を彫ったことが大善寺の起こりといわれています。

薬師堂の欄干から遠くに残雪を反射させる高山が見えます。係りの女性に山の名前を訊ねましたが、不明でした。
帰宅して山岳同定してみたら南アルプス南部の三千メートル級の高山(赤石・悪沢岳)でした。左のかすかな白いピークは聖岳(ひじりだけ)ということも分かりました。
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大善寺から150メートルくらい進み柏尾橋を渡ると左手に近藤勇の像が出てきます。板垣退助を総督府とする官軍3000兵と近藤勇率いる甲陽鎮撫隊300兵がここ柏尾の地で戦ったところです。

結局近藤勇は江戸に敗走してJR板橋駅近くの刑場で斬首されます。先年中山道を歩いたときJR板橋駅近くの近藤勇の首塚を訪れたことがありましたが、さらに理解が深まりました。柏尾橋近くの歴史公園には柏尾戦争の絵図などがプレートに焼き付けられて周囲の地形と陣地の様子が分かるようになっています。

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柏尾橋から鶴瀬宿までは日川(ひかわ)右岸の国道20号をただひたすら1時間歩き鶴瀬宿に着きます。

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鶴瀬宿には幕末までは御関所があり、いよいよこれから甲州道中の難所笹子峠にかかります。

今日はここまでとし、次回のために峠の入口からJR甲斐大和駅あたりのルートを下調べして帰路につきました。

マイカーを駐車した勝沼に戻るために鶴瀬バス停で市民バス(一律300円)を待っていますと、トラックが停車し「よかったら乗っていきませんか」と声を掛けられました。ドライバーは笹子峠入口近くで立ち話をした石材店の社長さんで勝沼まで行くといいます。また親切にも次回車でくることがあったら敷地内に駐車させても良いとまで言ってくれました。
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勝沼上町の交差点でお礼を言ってトラックを降り、祝橋経由でぶどう園にもどりました。途中、往きには気付かなかった勝沼氏館跡に寄ってみました。
ここは甲府盆地を見下ろす斜面にあって1973年(昭和48年)県立のワインセンター建設に伴って発見された中世館跡です。

今日の歩行距離はGPSログで16km、ドライブ距離は往復で約300キロでした。

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(その2につづく)
松も明けて、いよいよ今年最初のロングハイキングです。

伊能図を歩く甲州道中第6回は甲府から勝沼まで歩きました。(2010.1.11)

冬至をすぎたのに日の出が思ったほど伸びていないなあと話しながら早朝6時すぎまだ暗い街を駅に向いました。
(帰ってから日の出・入りを調べてみると、そのはずです。日の出は1月15日が折り返しで、それまではまだ遅くなるのですね。逆に日の入りは12月14日が折り返しで今は冬至の頃と比べると22分伸びて夕方の明るさが徐々に戻ってきているのです。冬至の日が両方の折り返しと思っていたのですが・・以外でした)

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いつものとおり特急あずさ3号を利用し甲府駅に午前9:7分に到着です。
駅からは近くの舞鶴城公園を訪ねてから前回の終着点警察署前の交差点に向いました。

舞鶴城天守閣跡からは甲府盆地と周囲の山並みが一望に見わたせます。旧甲州街道はこの盆地を横切り左奥の笹子峠へと続いています。
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舞鶴城址からのパノラマ

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スタートしてから約500メートル右手に新聞発祥の碑が出てきます。

新聞発祥というと横浜や神戸などと思うのですが、「峡中新聞」(今日の山梨日日新聞)の創始者である内藤伝右衛門が始めたとあります。この内藤伝右衛門の名前はアーネストサトーの明治日本の旅行案内にも出てきます。
少し長くなりますが紹介してみます

 甲府(旅館、桜町の奥村、柳町一丁目の藤野屋、同三丁目の佐渡屋、魚町に料理店松亭)は人口一万六〇〇〇人でその進取の精神は有名で住人にも活気がある。日本において県都の規模から見てこれほど西洋式の建築物がある所はない。なかでも目を引くのは尋常小学校、県庁、銀行、裁判所、公会堂、授産場、名取雅樹が発明した水力製糸工場、内藤伝右衛門の本屋と印刷所などである。内藤は「甲府デイリーニュース」の発刊者でもある。・・・

新聞発祥の碑から700メートルで最初の鍵の手が出てきます。道は大きく左にクランクして更に小さな第二の鍵の手に向かいます。
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甲府付近の衛星写真。黄線は旧道を歩いたルートです。
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伊能大図に描かれた甲府付近。赤線は伊能忠敬が測量したルートです。正確さに目をみはりますね。

第二の鍵の手を過ぎると直ぐ左手に甲斐善光寺への参道が見えてきます。寄り道にはなりますが、ここは是非寄ってみたいと思っていました。
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善光寺(甲斐善光寺)由来によりますと、
・・・武田信玄が川中島の合戦の折、信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ本尊阿弥陀如来その他諸仏、寺宝、大梵鐘に至るまでことごとく甲斐に招来し、大本願第三十七世鏡空上人を開山に迎え信濃善光寺開基本田善光公追葬の地ここ板垣の郷に新たに建立せられたものである。・・・

と説明されていました。
たしかに本堂は長野の善光寺を彷彿とする立派なものです。

話はそれますが、伊能図の中に板垣村という名前が出てきます。現在の地形図にはなくなっていますが、この板垣村がどの辺のことを指すのであろうかと疑問に思っていたのですが、この由来の記で疑問がとけました。
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歌川広重の善光寺スケッチ

これは歌川広重が「甲斐善光寺」の境内をスケッチしたものです。

先年千葉市美術館で開催された「広重二大街道浮世絵展」で見かけました。天保12年、歌川広重が「甲府道祖神祭り」の幕絵を描くために甲府に招かれたときに写生したものです。
この中で金仏は右に描かれていますが実際は左にあります。これは戦後左に移動したそうです。
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善光寺から旧道に戻り1.5キロ行くと青梅街道への分岐が出てきます。

左に行くと柳沢峠を経て奥多摩湖の方に抜けます。山好きな人には懐かしい街道です。もちろん旧甲州街道は直進します。

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甲運橋の西詰に道しるべがでてきました。石和温泉の入口です。

石和温泉の開湯は新しくて昭和36年(1961)に果樹園の中から突如として温泉が湧き出したそうです。そんなことで青空温泉とか葡萄温泉とも言われています。湯量が多くて東京から1時間半と近場にあるため奥座敷として発展してきました。

昔々サラリーマン時代社員旅行で来たことがありましたが記憶はまったく薄れていてどの辺に泊まったか思い出せません。

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石和温泉中央の小林公園で自販機の缶コーヒーと持参のバナナ、蜜柑、菓子パンで昼食をとりました。ここには足湯もあり冷えた手足を温めるには都合よい休憩場所です。

昼食を早々に切り上げて先を急ぎます。本陣跡碑を左にみて遠妙寺に寄ってみました。大きな山門が歴史を感じさせます。

遠妙寺の名称は二万五千の地形図にも記載されています。お寺マーク(卍)でなく地形図に載っている寺社はそれなりに由緒ありますから、事前に地図にマークして見所を決める際の参考にしています。

遠妙寺を出て笛吹川に沿った旧道を北上し笛吹橋の西詰に出ます。ここには笛吹権三郎の像と球形の道祖神がありました。
鎌倉幕府に追われた父を探す笛吹母子のが洪水にあって目的を果せない悲しい物語です。笛吹川の名の由来はこの母子によるとのことです。傍らの球形の石は甲州独特の道祖神です。
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伊能測量日記文化8年(1811)4月30日の記述によりますと、

甲府の宿を出立した伊能忠敬・坂部は勝沼宿に直行。残りは2隊に分かれ、一隊は忠敬を追って川中島村から勝沼宿まで測量。他は富士追分から一宮浅間神社まで測量して勝沼宿で本隊に合流しています。

なぜ忠敬は坂部を伴って勝沼宿に直行したのでしょうか。体調でもくずしたのか、翌日越える甲州道中最大の難所笹子峠の調べのためでしょうか。このとき忠敬は67歳になっていました。

伊能測量隊はどの辺を渡渉して笛吹川を渡ったのだろうか。広い河原を眺めながら笛吹橋を越えました。

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甲斐国一宮浅間神社表参道への分岐を右に見て笛吹川左岸の歩道の無い土手道を行きます。大型のダンプカーの往来が多く歩行者のことは考えていない道ですが展望がひらけ眺めは抜群です。

笛吹川に右から日川(ひかわ)が合流してきて旧道は日川に沿うようになり田中の集落に入ります。この辺りは桃の栽培がさかんで、あと4月にもなると辺り一面ピンクにそまるのでしょう。

田中の集落を抜け道は日川を渡り一町田中の集落に入っていきます。
日川橋からは上流の奥に小金沢連嶺が見えてきます。次回越えることになる笹子峠はこの連嶺の南端にあります。
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カミサンのトイレブレークにコンビニを探していたのですがなかなか出てきません。とうとう我慢が越えてコーヒー店に入ることにしました。次の回からは事前にコンビニを地図に記入しておこうと話していたら皮肉にも間もなくコンビニが現われました。しかし予期せぬ挽きたてコーヒーは旨かったです。

路傍に妙な石積みを見つけました。60センチ四方の石囲いの中に丸い石を積み中央に直立した石を配しています。石囲いの四隅には篠竹も立っています。
アーネストサトーの明治日本旅行案内、甲州街道の等々力村(勝沼町)の件(くだり)に、

・・等々力村で入念に芝を植え込んだ塚の上に道路の神様に捧げる陽物像を目にする。

との記述があります。ここは等々力に隣接する上栗原ですから記述の道祖神と同じ種類のものでしょうか。それにしても甲州では丸い石の道祖神を多く目にします。

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街道に沿って葡萄園が続きます。葉の落ちた枝がぶどう棚に広がって見事なオブジェとなっています。植物なのに哺乳動物の毛細管のように相似しているのが面白いですね。

旧甲州街道に沿ってきた国道411号はここで左に分かれ塩山方面に入って行きます。もちろん旧道は真っ直ぐ進みます。(16:09)

ここから今日の終点勝沼ぶどう郷駅まで登りで約4キロメートル。日の入りが16:52分。明るいうちにJRの駅に着くのは微妙になってきました。17:01の特急の発車時刻も気になります。

予め調べておいたタクシー(勝沼タクシー)を携帯で呼ぶことにしました。次回はここまで戻ってスタートになります。
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JR勝沼ぶどう郷駅

今回の歩行距離はGPSログで26キロでした。
伊能図を歩く甲州道中の第5回目は、前回の終点韮崎から甲府まで歩いた。(2009.12.8)
年末は何かと忙しくブログアップが年を越してしまった。

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伊能忠敬測量日記によると、
文化8年(1811)4月23日韮崎宿を二手に分かれて出立している。
先手坂部隊は釜無川を渡り身延へ、後手伊能本隊は甲府に向かい府中に到着後正装して甲府御役所へ赴く。そして翌日はルートを南にとり身延に向かい坂部隊に合流して身延山に参拝している。

そしてその後甲府にもどり江戸に向う。今更ながら伊能忠敬のエネルギッシュな行動に脱帽だ。

韮崎からの伊能忠敬測量ルート
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復元伊能大図(赤字は追記した文字)

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韮崎から甲府に向う前、前回時間切れでカットした七里岩洞窟と懸崖造り窟観音堂で知られる駅近くの雲岸寺を訪ねる。
昨年房総一周歩きで訪れた那古の崖ノ観音の懸崖造りを思い出す。(那古の崖ノ観音
ここも観音堂は西向きで眼下に街並みと自然のパノラマが広がっている。険しい崖をのぼって観音堂から息を呑む景観は見事な演出を感じられる。

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本町交差点(佐久道追分)
本町交差点から歩き出す。ここは佐久往還追分で、佐久街道は甲州方面から信濃善光寺への参詣道に信州側では身延参りや伊勢参宮道となった。

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左に韮崎宿本陣跡碑をみながら下宿交差点に向う。この辺り宿場の雰囲気を彷彿とさせる街並みが残っている。

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下宿(身延道追分)

甲州道中と駿州往還の追分の下宿交差点に出る。

伊能測量隊の坂部隊はここから本隊と分かれ身延に測量の歩を進めたのだ。坂部隊が釜無川のどの辺を渡ったのであろうかと船山橋のたもとまで行ってみる。
釜無川をはさんだ鳳凰三山と残月が旅情をさそう。

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旧甲州街道は塩川にかかる塩川大橋を渡ると国道を分かれ左に金剛地の集落に登っていく。金剛地と田畑の集落の境に二十三夜塔と道しるべが出てくる。

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旧道のかたわらに切干し大根を広げているのを見かけ立ち話。この辺り昔は養蚕が盛んであったこと、道しるべのある辺りに馬方宿があったこと、甲府へは3里の道のりなど話してくれる。

志田の集落に入ると左手に船形神社の低い鳥居が出てくる。案内板には室町時代の遺構と説明されている。以前葡萄畑の中に低い鳥居に出会ったことがあったが低く建立することに何か理由があるのであろうか。

このあたりなまこ壁の古い屋敷が多い。
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前方に中部横断自動車道の高架橋が見えてくる。この辺りJR中央本線が横切り中央高速道の双葉インターチェンジや国道20号なども近く交通網が集中している。旧道はその中をレンガ造りのJRガード下を通過していく。

旧甲州街道は坂道が多いが全体として下諏訪からの行程は下り坂となっている。ここは下今井は標高は320mで第2回目に通過した原の茶屋(長野県諏訪郡富士見町)あたりの海抜961mから比べると640メートル近く下ってきたことになる。登り坂が苦手な人には逆コースがお勧めかもしれない。

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さらに1.5キロ行くと標高差70メートルの急坂(赤坂)が出てくる。甲府側からの登りには一汗かくところだ。眼下に甲府の街並みが望めるようになる。
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JR竜王駅の踏切をこえ国道52号線に合流してしばらく行くと清水まで91キロのポストが出てくる。

清水とは東海道の清水である。何か違和感を感じるが52号は西で国道20号線と重なったあと塩川大橋まで北上し20号と分かれ南下して身延線に沿って興津(おきつ)で東海道に接続する。

往時は身延参詣道として、また信州の物産を駿河に運ぶ富士川舟運がもたらす塩の道でもあった。
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道はやがて右側に芸術の森県立美術館が見えるようになる。
ここはミレーの「落穂拾い」で良く知られている。しかし、いつも「落穂拾い」が見られるとは限らない。県外に出展されていることが多いから事前にチェックすることが必要である。

山梨美術館前に「ほうとう」の大きな看板が目に入ってきた。昼食には「ほうとう」と思っていたので都合がよかった。アツアツのかぼちゃ、里芋が美味い。

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旧道は荒川を渡り甲府駅南の官庁街に入って行く。甲府市役所がある警察署前交差点が今回の旅の終点。歩道橋を越え甲府駅に出る。駅前の堂々とした武田信玄像が出迎えてくれた。

甲府からの特急出発時刻まで一時間近く余裕があったので駅北口から武田神社を往復することにした。
武田神社には武田氏館跡がある。以前NHKの趣味悠々の番組(地形図片手に日帰り旅)の中で紹介されていたところだ。
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今回の歩行距離はGPSログで21.4キロであった。

帰路、八王子で途中下車しブログ仲間の忘年会に参加してから帰宅した。

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伊能図を歩く甲州道中の第4回目は前回の終点牧原交差点から韮崎宿まで歩いた。(2009.11.15)

今回は特に、寄り道して樹齢2000年の神代ザクラと江戸中期に開削された「徳島堰」を訪ねた。
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前回の甲州道中歩きでは万休院の舞鶴松が切り倒されていて残念な思いをした。今回は牧原からスタートする前に寄り道にはなるが山高実相寺の神代ザクラを見に行く。

桜の時期ではないが、何しろ樹齢2000年という国の天然記念物であるから前々から一度訪れたいと思っていた。
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神代ザクラ
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実相寺付近から望む甲斐駒ヶ岳
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シーズンともなれば大変な人ごみとなるが休日とはいえこの時季人影はまったくない。

桜花はないが周囲の展望はすこぶる清明で山岳展望をほしいままにできる。

季節を代えて再訪したいところだ。山門をくぐり牧原に戻る。茅ヶ岳の展望がすばらしい。

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実相寺から約30分下り牧原の交差点にでる。国道20号を横切り牧原(まぎのはら)の旧道に入っていく。

牧原は「延喜式」にのる甲斐三御牧(みまき)の一つ真衣野原(まきののまき)からの遺称と国道脇の八幡神社にその由来が説明されていた。牧原の読みが「まぎのはら」であることがそれで分かった。

牧原の集落をすぎると旧道はやがて国道と合流する。

右手に武川町農産物直売センターが出てきたので寄ってみる。甘柿、柚子、ブロッコリー、切干だいこん・・・カミサンの購買意欲がザックを膨らませる。

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黒沢川をこえ宮脇(みやのわき)を通過すると小武川を渡り韮崎市にはいる。

橋を渡ると右手に御座石鉱泉への案内がでてくる。鳳凰三山への登り口だ。

20代の若きサラリーマン時代、独りで鳳凰三山を縦走して御座石鉱泉から下りてきたことがあった。初夏のころである。

あの時はバス待ちの夏空に入道雲と遠雷が聞こえてきて、よい時間に下山できたものだと、昨日のことのように思い出される。

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徳島堰取水口

今回の旅でぜひ寄ってみたいと思っていた「徳島堰取水口」に行く。

御座石鉱泉入口の看板から250mくらい行った上円井(かみつぶらい)集落で取水口への道を尋ねると親切に近道を教えてくれた。

徳島堰(とくしまぜき)とは農業用水路。上円井で釜無川から取水し等高線に沿うように甲府盆地西端の扇状地を横切り曲輪田新田(くるわだしんでん 南アルプス市)まで約17キロにわたって潅がい用水を供給している。

この堰は身延山参詣のおり釜無川右岸の窮状を知った江戸の商人徳島兵左衛門が甲府藩の許可を得て開削したもの。寛文5(1665)のことである。

グーグルアースにこの徳島堰をトレースしてみると甲府盆地西麓の扇状地を横切る徳島堰の様子がよくわかる。全長17キロメートルの長い距離を緩い傾斜(高低差約80m)で流れている。当時の土木技術や水準測量技術などかなり進んでいたのではないかと想像できて興味深い。

御勅使川(みだいがわ)が流れる扇状地中央砂礫地は地下水位が低い干ばつ地だったから、この堰の開削でおおいに恩恵を得たことであろう。
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徳島堰(水色のライン)

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取水口近くの畦道で持参の昼食を摂る。右の山岳はオベリスクのある地蔵ヶ岳。

周囲は鳳凰三山、甲斐駒ヶ岳、八ヶ岳と遮るもののない大パノラマが展開する。
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甲斐駒ヶ岳
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八ヶ岳、手前の丘陵は七里岩(七里岩は八ヶ岳噴火の泥流跡であるという)

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上円井の旧道を行くと右手に「徳島翁おはかみち」と刻まれた大きな石柱が出てくる。

なまこ壁がある細い道を抜けると妙浄寺が現われ、石段を登ると徳島兵左衛門翁夫妻の墓があった。

墓の石垣には徳島翁の徳をしのんで堰に沿った周辺の村々の村名が刻まれている。

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上円井(かみつぶらい)で徳島堰を横切る。

四月二十二日の伊能測量日記には
・・・牧原村、宮脇村、小武川渡幅九間。上円井村、往島堰(徳島堰?)、下円井村・・・
とあり、伊能忠敬もこの用水路を横切っている。

旧甲州道中は上円井から釜無川を渡って左岸に出るようになるが、このまましばらく徳島堰沿いのプロムナードを行くことにする。

徳島堰はほぼ等高線に沿うようにして流れている。そのため釜無川右岸の山から沢などの水路の交差点が発生する。徳島堰は沢の下をくぐって流れているのだ。右上の写真は寺沢の下をくぐるサイホンである。

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地元の土木工事会社が寄贈した等身大の警察官が出てきたが殆ど車は通らない。
水路には金網のしっかりしたフェンスがあって用水路に落ちないようになっている。
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用水路の左手には釜無川の河岸段丘に水田が広がり、その向こうに富士が見えてくる。

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水路に沿った道を行くと戸沢が道を横切っている。昨日降った雨のせいか水量が多い。

もちろんここも用水路は沢の下をくぐって延びている。ジャンプして越えるには不安があったので県道を迂回して戸沢橋を渡る。
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戸沢橋から戸沢を見る。この沢の下を徳島堰は通過しているのだと思うと、当時の工事がいかに大変であったかがしのばれる。

清哲町折居で徳島堰に別れ桐沢橋で釜無川左岸にわたる。振り返ると前衛の山の上に鳳凰三山(左から薬師ヶ岳、観音ヶ岳、地蔵ヶ岳)が再び姿をあらわした。
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桐沢橋から振り返る鳳凰三山

ところで、この鳳凰三山は伊能中図の中にも出てくる。しかし、よく見てみると山の配列が北から鳳凰山、観音岳、地蔵岳と並んでいて、現在とは違った配列になっている。

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伊能中図の鳳凰山(左)          現代図の鳳凰山(右)

詮索くせがでてきて何か名称の変遷が分からないかと図書館で調べてみた。

明治20年の参謀本部陸軍部測量局の20万分の1地形図やアーネストサトウの明治日本旅行案内、「日本百名山」、三省堂日本山名事典など色々調べていたところ、「新日本山岳誌」(日本山岳会2005.11.15)に鳳凰山について詳しく述べているのを見つけた。

これによると
 鳳凰山の山名由来については、オベリスク(尖塔)である岩峰が鳥のくちばし、山稜が鳥の羽を広げた姿に見えることから仏教上の「おおとり」「鳳凰」になっていったとする説が有力としている。

また鳳凰三山のなかで一番高い観音ヶ岳2840mに1902年(明治35)に三角点が設置されたが、その「点の記」には「麓の清哲村役場で調べたが薬師岳と呼ぶ者もいて、いずれが本当だろうか。入戸野では中ノ岳、農牛ノ岳と呼ぶ」。

そしてそれから100年以上たった現代でも未だ由来について論争がつづいているともある。

このように鳳凰山について理解を深めて、あらためて桐沢橋からの鳳凰山の写真を眺めてみるのだが大とり(鳳凰)をイメージするのは難しい。先人の豊なイマジネーションを羨ましくもおもう。


桐沢橋で釜無川左岸に渡り祖母石の集落に入る。

四月二十二日の伊能測量日記には
・・・下円井村、釜無川幅九間(16.2m)、川原四十五間(81m)。下円井村、穴山村境先手初迄測る。
とあるが伊能測量隊はどの辺りから釜無川左岸穴山に渡ったのであろうか。

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祖母石付近の旧道 韮崎駅

正面に斜陽の富士を見ながら夕暮れせまる旧道を今日の終着JR韮崎駅に向う。
16:35韮崎駅に着く。

前回この駅を利用したのはいつのことだっただろうか。当時はスイッチバックで駅ホームに列車が出入りしていた。急勾配の斜面を上っていく線路であったから韮崎駅に入線するときは、進行方向とは逆向きにスイッチバックしてホームに入ったのだ。
Webで調べてみると1970年に貨物営業廃止にともないスイッチバックを解消しホームが本線上に移設したとあった。ホームを水平にするためにスイッチバックが必要と思っていたが、どうもそうではなかったらしい。

今回の歩行はGPSログで19.8kmであった。

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