旅は道づれ風吹くままに

ロングハイキングと地図と写真が好きなシニアです。

伊能図を歩く−房総半島−

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全国巡回伊能図のフロア展(東京都江東区深川スポーツセンター 4/11-12開催)があると、ブログ仲間の 宮崎の筋天さんが教えてくれた。

宮崎の人が知っていて 深川に近い千葉の人が知らないのも 迂闊な話だ。
宮崎だけでなく地球の裏側でも情報が得られるインターネットは、完全に地域間の情報格差をなくしている。
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深川スポーツセンター 体育館に並べられた 伊能大図(3.6万分の1)

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左は伊能小図(43.2万分の1) 右は伊能中図(21.6万分の1)

今回は 伊能大図(3.6万分の1)以外にも 小図、中図が 展示されていた。その地方の出身者か 皆思い思いに 座り込んで見入っている。

伊能忠敬は 第四次測量を終って、それまでの測量結果を 小図、中図、大図に仕立て、江戸城の 大広間に広げて 将軍の上覧を得たのだ。


以前 2009.02.14 のブログで 鴨川市磯村沖 弁天島の赤い測線の 「謎」について記したことがあった。
そこで、もう一度、畳一畳ほどの房総南部の伊能図を見てみた。

しかし、そこには 弁天島の赤線が消えている! 何度も目を凝らしてみてみるが無い。不審に思って会場スタッフに訊ねてみた。

スタッフは一瞬驚き、私が参照した「アメリカにあった伊能大図」を取り出して確認してくれた。そこには確かに紅い測線がある。

スタッフの話では、大図には色々あり 模写をするときの違いによるものか、彩色図にしたときの違いかも知れないということになった。(忠敬は隠密ではなかった! 少しガッカリ)

この老齢のスタッフは 極めて伊能図に精通している。胸のプレートに「渡辺」と記しているので、もしやと訊ねると、やはり、あの2001年 アメリカ議会図書館に 所蔵されている 伊能大図207枚を発見した、「渡辺一郎氏」その人であった。
忠敬の足跡について疑問に思ったことを、訊ねることもできたのは収穫であった。
(宮崎の筋天さんに感謝!)

なお、氏によると、このフロア展図と同じ内容のものが「伊能大図総覧」として河出書房新社から発刊されているという。(価格40万円)千葉中央図書館も購入しているから閲覧してはどうかとコメントを頂いた。
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自宅に帰って、フロア展よろしく、これから歩く九十九里浜の地形図を並べてみた。(現在の2.5万分の1地形図)

先触れをだして村役人の協力を頼んだのは昔のこと。
どのように60キロの行程を組むか思案のしどころである。九十九里浜は内陸のJR線から10キロも離れている。
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九十九里浜(現代の地形図)

続・雀島考

前回 (2009.02.28) のブログで 房総半島の 「雀島」 について紹介してみた。

その後、太東漁港まで歩を進めたところ、地形図に載っていない「雀島」 「雀岩」が 他にもあることが 分かってきた。

今回は、それらの紹介と若干の考察を加えてみることにする。

(1) 昭和初期には 大原漁港堤防付近に 八幡岬のシンボルとして 「スズメ岩」 があったことが分かった。
この岩はその後、海蝕により 消失したということも知った。図は 往時の「スズメ岩」を 塩田川からみたもの。
(ふるさと外房の大原 岩瀬吉雄著より)

昭和初期のスズメ岩
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(2) 太東漁港南の 津々ヶ浦「雀島」 地形図には島として表現されていないが、実際に見てみると 陸との結合が弱く、今後陸から 切り離されて 島になることが想像できる。

津々ヶ浦「雀島」
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(3) 岩船地蔵隣の「雀島」 これも地形図には示されていない。今は防波堤で囲まれているが、以前は外洋にさらされていたようだ。(大原漁港の漁師は これも スズメ岩と言っていた)

岩船地蔵の隣の「雀島」
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(4) 釣師(つるし)海岸(いすみ市)にも「雀島」があって 潮が引くと 渡れると 大原漁港の漁師は言っていたが 私は まだ確認できていない。

イメージ 4塩田川から見た八幡岬の今は無い「スズメ岩」を見ていて、思いつくことがあった。

と言うのは、この「スズメ岩」は 明治初期の 地図には イボのように小さく突き出ているが 島にはなっていない。

そして昭和初期の写真では 円錐形の岩となって 陸地から分離されている。その後昭和30年以降に消滅した。

想像するに、このスズメ岩の誕生から消滅の過程は、

先ず陸地の先端下部が激しい波浪により浸蝕され空洞ができる。やがて空洞上部が崩落して、初めは陸との結合が強かったが、やがて陸から切り離されて円錐の島になる。

島の頂上は陸地であった頃の植生が残っている。さらに浸蝕が進むと頂上の植生も消え背が低い島となり、やがては暗礁となって消滅した。

と考えても、そう無理な想像ではない。

津々が浦の「雀島」を見ていると、この島も太平洋の果敢な侵攻で「スズメ岩」となり、やがて消滅していくのかも知れない。

イメージ 5このように考えると今まで紹介してきた「雀島」の共通した形が説明できるのではないか?(陸地近く、背が高く、頂上に植生がある、周囲は岩礁、無人島)

これに当てはまらない大房岬南の背の低い「雀島」も消滅直前の姿と考えれば説明がつくような気がする。

このように考えて崖下を見て周ると、これから「スズメ岩」になっていく 予備軍 をみることができる。

今も海と陸との戦いのなかで、スズメ岩は生まれている。


ところで なぜ「スズメ」と命名するのであろうか。

これは全くの私の思いつきであるが、「スズメ」は「ひづめ(蹄)」が転化したもので、島や岩の形が牛や馬の蹄に似ていることから付けられたのではないか、と思うのだ。

実際「島嶼(とうしょ)事典」には、「 蹄島(すずめじま) 宮城県桃生郡北上町」が載っている。

牛馬の 蹄が 本当に 島の命名に結びつくものなのか、実際に 市内の動物園に 行ってみた。
皆さんはどうイメージするだろうか。これは、あくまで私の思いつきで根拠がある訳ではない。

島や岩の形としては、「蹄」以外にも「筆島」「烏帽子岩」 などがあり、これらはイメージ的に分かり易い。
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牛の蹄(左) と 馬の蹄(右) 


最後に、山本有三が「真実一路」の中で、八幡岬の スズメ岩 にふれた一節を紹介してみる。

・・・ここはオオイソ、カマクラのように、名が通っていない。しかし、名が通っていなくとも、そう悪い海水浴場ではない。ことに、大きな岩を裁ち割ったようなハチマン崎の突きだしている風致や、白いスズメ岩 に太平洋の荒ら波が折りかさなって砕ける光景なぞ、女性的なカマクラの浜に比べて、けっしてまさるとも劣るけしきではないように思う。・・・
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(その1から続く)

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八幡神社 と 大原漁港
大原漁港を見守るように 八幡(はちまん)神社 が建っている。漁港の端から長い階段を登って社殿に詣でる。

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丹が浦の眺め
案内板によると、ここにはかって「帆万千(ほまち)館」という旅館があって、森鴎外や鈴木信太郎などの文人・画家が好んで滞在し、ここから眺める「丹が浦」の景観を題材にして創作活動をしたという。
今は草はらで 小浜城址 の石柱と 牧水の碑 があるのみ。

しかし自然は変わることなく悠久の時を刻んでいる。

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八幡岬をあとにして大原漁港に出る。岸壁いっぱいに網を広げて補修作業をしている。
柿渋色の網は イワシ用、水色の網はワラサ用の刺し網 と教えてもらう。
漁師さんはいつも親切だ。

漁港に面した「船頭の台所」という食堂に入り昼食(ホウボウの煮付け定食)を注文する。
約40分体を休め、再び歩き出す。

一路橋
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漁港の北端をすぎると「一路橋」。ここ 塩田川は山本有三の小説「真実一路」に登場する。有三は塩田川畔に3ヶ月間滞在し、名作「真実一路」を執筆した。

塩田川を越えると 長い砂浜が 夷隅川の 河口まで続く。
ここは日在(ひあり)浜。
房総東岸の崖が波浪で浸蝕され海岸流にのって漂砂となり長大な浜を形成した。

遠くに太東崎(たいとうさき)が目に入ってきた。今日はあの岬を越えたあたりが終点となる。

日在浜は 林芙美子の「放浪記」にも登場する、

「私は 日在浜 を一直線に歩いていた。十月の外房州の海は黒くもりあがっていて、海のおそろしいまでな情熱が私をコウフンさせてしまった。只海と空と砂浜ばかりだ。それもあたりは暮そめている。この大自然を見ていると、なんと人間の力のちっぽけな事よと思うなり」

と表現している。たしかに大自然は、浮世の憂さを癒してくれる。都会のどろどろした愛憎から逃れてきた芙美子は、この日在海岸にふれて心を洗われたのだろう。
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日在浜

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大原町と 岬町の 境に ウミガメ産卵保護 の看板が出てくる。
護岸工事など 自然のバランスが崩れて ウミガメの産卵 も数少なくなったと聞く。

この辺り、明治初期の地図では 夷隅川が「うの字」に大きく南行して海に流れ出ている。現在の河口はここから1キロ北に行ったところに変わっている。

砂丘を 越えて旧夷隅川(日在潟)に出る。ラグーン(潟)と 養殖池の 間にある 枯れ草の道をたどると大きな鯉や水鳥が 驚いたように逃げ出す。

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太東崎 と 太東崎灯台
日在潟を抜けて 夷隅川に架かる江東橋を越え 太東崎に向う。岬手前に 国指定の「太東海浜植物群落」が出てくるが 時季が早く 花は見られない。
この群落も海蝕によって規模がかなり減少したらしい。

太東崎灯台へは 灯台の建つ丘陵の裾を 大きく迂回して 灯台口から急坂を登る。
息を弾ませて展望台に到着。(15:57)
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日在海岸遠望

振り返ると 大原漁港から 日在の砂浜が見える。今日は良く歩いた。


北に目を転じると 次回たどることになる 九十九里浜が 丘陵越しに霞んで見えてきた。
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九十九里浜遠望

「雀島」
灯台下で 持参の リンゴと クルミあんぱんで エネルギーを補給し、今回最後のチェックポイント「雀島」を訪ねる。
この島は地形図には記載されていないが典型的な「雀島」だ。明治の地形図では規模も大きく、陸地との結合度合いも大きい。太平洋に面した崖は、絶えず浸蝕を受けている様子が分かる。
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太東崎付近の地形

現在の 地形図と 明治初期の地形図を 旧房総往還を「見当」にして重ね 現代図に 旧海岸線を書き入れてみた。
大きく陸地が 後退して 激しい海蝕が あったことが 良く分かる。

多いところではこの一世紀の間に100m以上後退している。海と陸との戦いが今も続いているのだ。

また 伊能図や 明治初期の地形図で示されている 太東岬の位置が 大きく南に変わっている。
実際、案内板によると現在の灯台の位置も昭和47年、激しい海蝕により灯台敷地が危険な状態になったため、100m後退したとある。

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ハイキングコース
雀島から太東漁港へ向う道で、近道と思い案内に従ってハイキングコースに入る。

たしかに 眺めは 雄大で 太平洋と 太東漁港を 眺めるには絶好のコース であったが、時間的には大きなロスとなって 夕陽の山道を漁港に下る。(17:18)
イメージ 16太東漁港と九十九里浜南端

今日の終着JR東浪見(とらみ)駅まで、ここから北に約3キロ。

千葉行きの 発車時刻は 17:55 で残り時間は37分。夕暮れのなか、沿道のおばさんが 振り向くほどの速足で 発車3分前にホームに立つ。がんばった甲斐があった。

帰宅してGPSログを見ると 32キロ のロングハイキングとなっていた。
どうしてもJR線が 海岸から離れていると 行程上 長距離になってしまう。
(帰宅して3日間は筋肉痛が残ったので、現状の体力では30キロ位が限界のようだ。)
変化に富んだ 南房総の沿岸歩きも 今回で 丘陵地帯を抜ける。

今日(4/3)は前回終点とした JR浪花駅から 大原漁港を訪ね、日在(ひあり)浜を北上し 九十九里浜南端の 太東崎を周って JR東浪見(とらみ)駅までの ロングハイキングだ。
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JR浪花駅から 水の入った田圃の 中の道を 蛙の鳴き声を聞きながらスタートする。

この道は旧房総往還でもある。

歩き始めてから約15分くらい歩いたところで国道128号線に合流する。

ここから100m北に行ったところで国道を分かれ 右に 矢差戸・大舟谷へ入っていく。

曲がり角には半分に折れた 道しるべ が塀に立てかけられていた。石柱には 矢差戸・大舩谷 と刻まれている。

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道標から 600mくらい 行くと正面に 神社がでてくる。(日月神社) 集落の戸数の割には立派だ。

「お参りできなくて、すいません」と 入口で会釈して通りすぎようとしたが、手洗石の 屋根を支える柱が 細い石で 造られている のに気付き境内に上がってみた。
近くに「力石」も置いてある。この石の柱は 道標の石柱と 同じ材質だ。地元の石工が造ったものに違いない。それにしても地震で折れないのだろうか。

お参りをした後、拝殿の格子越しに中を覗いてみた。目をこらして暗い中を覗くと 絵馬 が掛かっている。
良く見ると 二艘の手漕舟に 大勢の漁師が乗って 網を引いている光景だ。

真っ赤な 太陽が 水平線から昇っている。紀州から伝わった イワシの 八手網(はちだあみ)漁 の様子を描いたものだろうか。

絵馬には「明治弐拾八年 雑鋪区願主 永野政七」と願主が書かれている。「雑鋪」 はこの辺りの地名 「造式(ぞうしき)」 と読めるので、地元民が豊漁を祈願して奉納したものだろう。
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大舟谷(おおぶなや)
トンネルを二つ通過して大舟谷(おおぶなや)集落に出る。
集落を見下ろす 八幡神社 に登ってみた。

浜にはボートのような小舟が数隻あるだけで漁業で生計をたてているようには見えない。豊な家々の佇まいが不思議に思う。

他県との比較はできていないが、房総沿岸の集落は都会に比べて概して豊だ。

こざっぱりとして道にゴミがほとんど無い。ゴミの分別収集コーナーがきれいに掃除されている。




昨日に比べると大分風もおさまったのに押し寄せる波は高い。

伊能測量隊も この絶壁では 沿岸の測量を あきらめ 陸地を辿っている。
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大舟谷海岸の崖

浪に さらわれない様に 注意して 北に隣接する 矢差戸(やさしど) 集落に向う。
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入り江の高台に神社(飯縄神社) がある。

ここで 不思議な記号のある「手洗石」に出会った。

重量感のあるシャープな手洗石の 側面に 縦横の 幾何学的な 線 が刻まれた正方形が 陽刻されている。

文政十三庚寅年四月に造られたものだ。

この記号は何を意味するものであろうか。修験道者が印を切る形にも見える。

社殿横の 流木と 大鈴と 注連縄が さらにミステリーを増す。
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南川海岸 
伊能忠敬が辿ったと思われる内陸の道を北上する。

今日の行程は長いので、寄り道をできるだけしないようにと思いつつも、集落とその先に水平線が見えると、誘惑に負けて寄り道してしまう。
ここは 南川海岸。大波をもろともしないで釣り人が糸を垂らす。カサゴを狙っているが型は小さい。

防波堤横の 砂場に しゃがみ込んで 何かを 篩(ふる)いにかけている老人に出会う。
訊ねると 光沢のある 角のとれた 綺麗な貝の 破片を 集めて お墓の周りに撒くのだという。

歳のころは80歳代。貝を選り分ける 日焼けした指が 何か寂しい。連れ合いに 先立たれた のだろうか。

大聖寺 不動堂
大原漁港のシンボル 八幡岬を訪ねる前に 近くの大聖寺に行く。

ここには国指定の 重文「大聖寺不動堂」がある。 室町時代に建立されたと聞く。
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(その2へ続く)
(その1から続く)

伊能大図をよく見ると 部原(へばら)村から 御宿村 に至る測線が、海岸から離れて 山側をたどっていることに 気付いた。現在は 国道128号線が 4本のトンネルで 結んでいるところだ。
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 現在の 地形図                    明治初期の 地形図

伊能測量隊は、海沿いの難所を避けて山道を辿って測量したと思われる。
現在の地形図を見ると、トンネルの手前左から 大きく山側を迂回して JR外房線の上を越えて 御宿トンネルの出口の先に至る 山道がある。JR線を越えるあたりには 橋とトンネルの記号も見える。

明治初期の地形図(迅速図) も見てみると、ほぼ同じルートで道が付けられているが、勿論この頃はJR線もトンネルも無い。
この道は 往時の 房総往還 であったのだ。 そこで今回、この旧道をたどってみることにした。
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東魚見トンネル

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トンネル手前の海岸でサーフィンを見ながら持参の昼食をとったあと、国道を離れて山道に入って行く。
ワナ注意の 道路情報板を越して 草の道を進む。

途中イノシシのワナが出てくる。踏み跡はあるが、まったく手入れがされていない。

しばらく行くとJR線を越す橋と レンガ造りの 外房線のトンネルが でてくる。

ブッシュと潅木を避けながら足場の悪い道をなおも進むと、前方に 素掘りトンネルが出現した。地形図どおりである。
なぜ道の入口で「立入禁止」としてくれなかったかと呟きながらフェンスを越してトンネル内部に入る。
出口付近で天井からの崩落跡もあるも特に問題なく通過。出口のフェンスを越して御宿側にでる。
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今回は「立入禁止」を無視して 通過したが、国道の 4本のトンネルには 歩道が無いから 歩いて部原−御宿間を 通過するには、この方法しかない。 整備をして欲しいものだ。
この道は、地元の年寄りは「どう坂」と呼んで寂しい道であったようで、「追剥ぎ」が出るといって怖がっていたとも話してくれた。

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正月に訪れた御宿海岸を再訪。月の砂漠のモニュメント の脇を通って岩和田に向う。
この写真を見ていると真夏かとみまごうが、季節は早春。サーファーにはもはや季節は関係ない。

明治初期の 地形図を見ると 御宿のある網代湾では 西海岸の浜村や 東海岸の岩和田に 街並みが集中し、現在リゾートマンションが立ち並ぶ 新町付近は 殆ど人家がみられない。漁業から観光への 変遷が見てとれる。


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メキシコ記念塔                            ドン・ロドリゴ上陸点
市街地の背面丘陵に白亜の塔がある。メキシコ記念塔である。

フィリピンからメキシコに向う ガリオン船 が台風に遭遇して岩和田沖で座礁した。1609年(慶長14年)のことである。
漁民に手厚く救助された フィリピン総督ドン・ロドリゴと遭難者は 翌年徳川家康に謁見、家康が 三浦按針に 建造させた船で 無事メキシコに帰国する。翌年 答礼使が来日して 日本とメキシコの交流が始まった。

それにしても、房総の海岸は 昔から海難事故と 救助のエピソードが多い。その中では 海女が 人肌で 遭難者を蘇生させた 逸話もかならず付く。遭難者を 急に温めてはならないとは 良く言われる話しだが、聞き手としては面白い。

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岩和田の メキシコ記念塔を 後にして 海岸沿いの内陸の道をたどる。いすみ市境の手前から 右に折れ、フェンスで阻まれた道を岩船に向う。

この道は地形図には 無いが、地図サイトには示されている。実際に現地に行って確認したいと思っていた。
なぜこの道をたどるかというと、伊能測量ルートに沿っていると思われるからである。

実際に来てみるとしっかりしたガードレールがあるダートの道であるが、草がぼうぼうとして通行している気配はない。道路建設が 中断されたような 印象を受ける。枯れ草を なぎ倒しながら GPSを頼りに「ひょうたん堰」のほとりに出る。出口には 鉄条網のゲートがあり、これを注意して 乗り越えて通過する。

釣師海岸
堰からは 県道に合流して 釣師トンネルを経て 海岸の崖上に出る。釣師海岸と書かれた案内板がある。
岩和田から 岩船にかけての海岸は 高さ60mの断崖が続いている。
伊能大図では この辺の測量線が 海岸から離れている。この断崖では流石に忠敬でも測量は難しい。
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海岸に 突き出た 岩船地蔵尊
三十根(みそね)という集落を抜け 海岸に出ると 特異な 岩船地蔵尊 が 目に入ってきた。この地蔵は 日本三大岩船地蔵のひとつで 遠方からもお参りに来る。時化(しけ)のときはどのような光景が見られることか。

伊能測量日記には 記載がないが 測量地図には 岩船の村名が 示されているから 忠敬さんもお参りしたに 違いない。
ここに来る前は 地蔵尊が 岩の船に乗っているのかと 思って来たが、現地に来てみると 突き出た 岩礁が船になって、その上に地蔵堂が鎮座している。
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JR浪花駅
岩船漁港から岩船トンネルを経て内陸のJR浪花駅に到着する。(16:54)

駅は無人であったが、ホームへの出入り口にはゲートバーの無いスイカ読み取り器が設置されている。バーが無いから出入り自由で、ここでは人の性善説を拠りどころにしている。

17:38発千葉行きにて帰宅。

今日は 約8時間の行程で GPSログでは 27キロであった。

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