旅は道づれ風吹くままに

ロングハイキングと地図と写真が好きなシニアです。

伊能図を歩く−房総半島−

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今回も 伊能忠敬の 測量ルートを 辿って、海岸沿いに JR勝浦駅から JR波花駅まで 歩いた。(3/21)

この一週間で季節が急に進んだ。車窓からみる景色も、田圃に水が入り、白いコブシの花も見え見違えるように春めいた。

8:36勝浦駅に降り立つ。

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「勝浦の朝市」 を横目で見ながら 遠見岬神社を 訪ねる。

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急な 階段を 登って 崖上の社殿に 出る。文字通り「遠見」のきく高台である。

勝浦漁港を 右に見ながら 虫浦トンネルを経て 勝浦湾南端の 八幡(はちまん)岬に向う。
対岸に 先週通過した 海中公園が 遠望できた。
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八幡岬
ここは勝浦湾の東端。太平洋に突き出た岬である。

ここは 勝浦城址 があったところで 現在公園になっている。

近くに 勝浦灯台 が見える。

太平洋の 荒波に 侵食された崖の 眺望が素晴らしい。

勝浦灯台
岬をめぐる崖の道をたどり 勝浦灯台を 訪れる。
第二次大戦末には 米軍艦載機の 標的になった。現在の灯台は 昭和58年3月タイル張りに改装されたもの。姿がすきっとして美しい。てっぺんに 方位と 風見の 飾りがある。
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川津集落 川津の坂道

散歩中の老夫婦に 官軍塚から 川津港への 道を訊ねる。
夫婦は 80歳台の元漁師。灯台下の 岩礁から浜辺の名前を教えてくれるのも 地元の漁師さんならでは。

官軍塚 は、幕末、函館に立てこもる 旧幕府軍 討伐の 援軍として 熊本藩が チャーターした米国船が、ここ川津沖で 座礁し 多数の 藩兵が 遭難した。このときの 遭難者を 埋葬したのが 官軍塚である。


津慶寺 と 仏足石
自然の 景観も良いが、港町の 狭い裏道も 好きだ。ごちゃごちゃした雰囲気がほっとする。

川津には 県内唯一の 仏足石 があるというので、慶津寺(日蓮宗)に寄ってみた。
高台の境内からは 川津港 が 眼前に広がる。
仏足石が 彫られた 粘板岩は 紀州産ということで、紀州の漁民との つながりもうかがえる。
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(その2へ続く)
(その1より)

大きく 大ヶ岬を迂回して鵜原海岸に出る。海岸を散歩していた 中年の婦人に 島の名前を 訊ねると「烏帽子岩」という。
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幕張から歩いてきたというと、目が輝いて、大久保から移住してきたと話し出した。
大久保は 私の住んでいる町に 隣接した 習志野市の町だ。
話では 7年前夫の定年を機に 鵜原に引っ越して来たとのこと。夫は海が大好きという。
何も無い所ですよ。以前あったスーパーも無くなり買物が不自由になった。と少し寂しそう。

全日制住民と 定時制住民という 言葉がある。主婦は 子どもを通して 近隣の住民と コミニュケーションをとる全日制。一方 都市に通勤する夫は 休日と夜だけいる 定時制の住民 という訳だ。

定年後に 知らない土地に 移住する夫婦の場合、近所の付き合いを 切って夫に 付いてきた妻と、近所付き合いの無い 夫との間に 意識のギャップ がありはしないか。と この婦人の様子をみていると 勘ぐってしまう。
このことを カミサンに話すと、大きく頷いた。夫は気付いていないのかもしれない。
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鵜原理想郷 がある海岸から 対岸の崖を 双眼鏡で覗くと、白い崖に 無数の鵜(ウ)が羽根を休めている のを見つけて驚く。
正に 鵜原(うばら)の地名を 納得させる光景だ。(画面をクリック)
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多トンネル地帯を行く。鵜原理想郷は 規模は小さいが リアス式海岸 である。入江をつなぐ 素掘りトンネルが 連続する。

今日のロングハイキングでは、ここを含めて 18本のトンネルを抜けた。
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ここ 鵜原理想郷は 太平洋の荒波に侵食された崖が 岬や入江を作り 2キロにわたって続く 景勝の地である。
大正末期から多くの文人墨客が訪れた。
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私のブログを 訪問してくれる「遍直次さん」が コメントで 鵜原に行ったら 海の博物館 に寄ったらどうかと 教えてくれた。
15分で見られます(?)との案内板に 誘われて 寄ってみる。
「雀島」について 何か情報が 得られないか 期待してはいったが NGであった。

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海の博物館から出て 勝浦湾の 変化に富んだ美しい海岸線を 進む。左写真は「めがね岩」右は 昔、岩を穿って「いけす」にした跡である。
吉尾、松部(まつべ)、串浜 の集落通過しながら 今日一日のハイキングを回想する。
何とか予定のコースを歩けた。

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魚市場近くで 大きな鯖の干物を 買う。
上総湊の友人が 勝浦の「鯖の干物」は美味い と 言っていたのを 思い出したからである。(脂がのって久し振りの美味しい干物であった。)

勝浦駅に17:00到着。17:25の千葉行きにて帰宅する。

今日は トンネルが多かったせいか GPSの受信不良が 頻発し、GPSログは 短めに出て17キロであった。
昨年はウグイスの初鳴きを3月9日に聞いたが、今年はまだない。
天候も寒暖の差が大きい。

好天を狙って 行川アイランドから勝浦まで歩いた。(3/11)
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大沢集落と漁港を 約1時間ほど見て廻り、再び大沢第一トンネルを抜けて 行川アイランド駅に戻る。(10:40)

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駅前には 10年前に閉鎖された行川アイランド の広いバスプールと入場券発売場など、施設がそのままの状態で残っている。

アイランド入口のトンネルには進入禁止のゲートが立ちはだかっていた。

跡地の利用については、勝浦市の医療法人が老人福祉施設を建設する計画もあるらしい。



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計画では大沢漁港から磯を周って浜行川(はまなめがわ)漁港に出るつもりでいたが、現地に行って様子を見るとつなぎの長靴など、それなりの装備が必要であることが分かった。

あきらめて国道沿いに 浜行川漁港に出る。(11:03)
浜に並んだ作業小屋で、盛んに刺し網の繕いなどをしている。カラフルな網が並んできれいだ。

心配していたトンネル内歩行も短かったり、歩道トンネルがあったりして問題なく 興津(おきつ) に出られた。

興津に入る道沿いに「芸妓置屋」の看板をかかげた家があった。

えっと思ってデジカメを向けようとしたらガラス戸越しに家人がこちらを見ていたので止めた。
今でも芸者さんがいるのであろうか。

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興津入口の国道左に 妙覚寺 が出てくる。入口と 境内との参道を JR外房線が 分断している。

ここに限らず 房総の寺社には JRの鉄路が 参道を横切っていることが多い。
丘陵が海に迫っているから、鉄道を敷設するとなると、どうしてもこうなる。
今は電車であるが、開通当時は蒸気機関車であった。火の粉による火災の心配から敷設反対は無かったのであろうか。

過日 中山道を歩いているとき、火災の心配から 市街地を大きく迂回して 鉄路が敷設され、駅舎が街の中心から離れたところに設置された例が多々あった。
その結果、時代が下るに従って 駅前が発展し、旧市街地が 寂びれてしまう事態がおこった。

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ここ妙覚寺には「繋船柱碑」があるというので寄ってみた。

踏み切りを越え、市指定の山門をくぐって境内に入る。本堂前に高さ3.5m近い石柱と碑文があった。

この石柱は 仙台から運んだ 石巻近在の粘板岩で、寄港した船が係留するのに用いられ、港内弁天岬磯に十数本が並立していたという。往時の興津湊の繁栄が偲ばれる。

さっき出会ったた「芸妓置屋」も、往時の繁栄の生き残りかと、妙に納得してしまう。

 
地形図を チェックしていて 興津港の東端に 国土地理院の 検潮場 を見つけた。

初めて見る施設である。入口のプレートには
「この建物の中には、海面の上がり下がりを自動的に精密に記録する検潮儀が設置されています。この記録は、高さの基準をきめたり土地の変動を調べるために非常に大切な資料となります。国土交通省国土地理院」とある。

検潮の仕組みは、この中には導水管で海とつなげた井戸があって、井戸の水面高をフロートまたは音波を使って計測している ということだ。
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伊能図では天道岬の磯には測線がない。磯の様子を見に行こうと思って地元の漁師さんに訊くも行き止まりという。興津トンネルを越えて 守谷にでる。(13:15)

国道から海岸に出ると 沖合いに 赤い鳥居を乗せた「渡島」が見えてきた。
この島は 大潮のときは 歩いて渡れるらしい。

島の向こうに 大ヶ岬が見える。伊能図では この岬には 測線がない。
入り組んだ崖が測量を拒んだのだ。
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磯で作業していた老漁師に 大ヶ岬の反対側へ 素掘りトンネルを抜けて 行けないか尋ねるも 首を横に振られてしまった。

(その2へ続く)
前回に続いて行川アイランド駅から勝浦まで歩いた。(2009.03.11)

勝浦に向う前に、前回は時間切れでパスした 大沢集落(勝浦市)を訪ねる。

ここは海に面した 断崖が V字に 割れて沢を形成している。そして この沢に 戸数40余りの 大沢集落がある。 伊能図にも大沢村として表記されている。

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集落に入るには、JR行川アイランド駅前の国道を戻り、「おせんころがしトンネルの手前で右に入っていく。

分岐を左にとると 大沢第一トンネルが出てくる。

このトンネルが 結界となって、いよいよタイムスリップして別世界に入るのだ。

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期待を込めてトンネルを通過すると集落の中央に出た。

想像していたよりかなりこじんまりとしている。

土地が狭いから塀や門柱のある家は殆ど無い。

JRラインもご覧のように軒先をかすめるように走っている。

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集落を観察するには、まず一番高いところに上がってみるべきだ。

家並みの中央の人ひとり通れる小径を辿ってV字谷の 一番高いところにある 八幡神社に 登る(海抜65m)。

拝殿右手前には嘉永元年の手洗石と、向拝や社殿の周りには立派な彫り物がある。

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あらためて密集した家並みを俯瞰する。

V字に開いた前面に水平線が高い位置に見える。

生業の場は海にあるから、毎日坂を上り下りして漁港に出ることになる。大変だとおもうのは外来者で住民は年寄りでもすたすた行き来している。

ここは平地が少ないから仕方が無いが、沿岸を歩いていると漁師町は概して家屋が建て込んでいる印象を受ける。

農村とは対照的である。農家では広い敷地を持っている家が多い。

漁師町では浜の作業小屋で網の繕いなどをしている光景を良く見かける。

この違いは作業の場所の違いかもしれない。漁村では 作業場が浜にあり、農家では母屋の前庭にあるからだ。

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どてら坂

40戸ほどの戸数だが 集落には二つの寺があった。漁港近くの久成寺(日蓮宗)と中腹の十輪寺(天台宗)だ。

大沢集落の崖上にも40戸近くの「上大沢」集落 があって、上大沢とは急峻な坂でつながっている。

昔大沢村に入るには房総往還の「市の坂」から分かれてこの坂を下って来たのだ。

十輪寺脇の急坂を登って行くと墓掃除をしている初老の男性に会った。

坂の名前を訊ねると、「どてら坂」と答えが返ってきた。
面白い名前なので更に訊ねると、登るほど「どてら」を脱ぐほどの急な坂 ということからという。

今では「どてら」を知る人は、それなりの齢を重ねた人になったが 「房総の思いで写真集」などを見ると昔の漁師さんは皆「どてら」を日常着としてるのを見ることができる。

今はコンクリートの階段道だが昔は苦労したとも言っている。

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港に向う男性の後について坂道を戻り、国道の 大沢橋 の下をくぐって漁港に出る。

この大沢集落に 興味をもったのは、昔は 隔絶された集落だから、家並みなど 古い何かが 残っていないかと期待してのことだった。

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外見的には今風の建物だし、港には活気があって期待はやや外れた感があった。

どうしても 外来者は 感傷的な 予断を してしまう。

知らない街を 歩くとき、私は表札をみる。
同じ姓の表札が多い場合には、「この辺は○○さんが多いですね」と話しかけると、話の緒ができて会話がスムーズに進むからだ。

ただ、この集落では殆どの家に表札が無い。ここに限らず沿岸を歩いていると表札が無い家が多い。

街中では新築すると表札を出すのが普通だ。それも結構見栄えを気にして洒落れたものを出す。

これは漁師町特有の現象なのであろうか。表札に限らず集落を色々比較しながら歩くはのは面白い。

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漁港では「金目鯛」が 水揚げ中であった。見事なキンメが篭一杯に溢れている。都会のスーパーなどでは一切れ千円もする。一尾 数千円もする 高級魚だ。

水揚げされたばかりの大きなキンメをレジ袋に入れて家路につく中年の女性と立ち話する。

良い処ですよ、と話した後で小声で、狭い土地だから付き合いが難しいとも付け加える。

塀も無く、軒を接して密集しているだけに干渉が起ることは想像できる。

まだ外観だけの観察だが、共同で行う祭や作業、組織、習俗、人間関係など覗いて見れば、違った集落像が出てくるに違いない。

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漁港から崖下を磯伝いに周ってみた。磯は 一面のヒジキで 満たされている。

崖から水の滴るところに 赤い鳥居。由来は不明だが、水の滴る地形が信仰を作っている。

アニミズムの世界だ。

前回訪れた 孝女 お仙の碑を 磯から見上げる。崖の恐ろしさが 伝説にリアリティを 与える。'''
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大沢の集落を 歩いて、当初の期待は 外れたが、集落ウオッチングとしては 面白かった。
伊能測量隊の足跡をたどって行川村(JR行川アイランド駅)まで到達した。
このあたりで 伊能測量隊の 行程と シニア隊と 比較してみよう。

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スタートを同じにするため、検見川村(千葉市花見川区)を起点としてグラフを描いてみた。
伊能測量隊は検見川を出てから飯沼村(銚子市)まで延べ24日間を要している。

伊能隊の 1日の平均移動距離は 13.6キロである。これに対してシニア隊は11.2キロで、伊能隊はかなり速い。現在シニア隊の33キロ先を行き、シニア隊は伊能隊から約3日遅れで歩いている。

(キロ数はシニア隊がデジタル地図で伊能隊のコースを予想してたどった数値で公表された数値ではない。伊能図のデジタイジングが待たれる。)

伊能隊は忠敬を含め上下6名、シニア隊は2人。

伊能隊は測量しながら連日歩き、止宿先でデーターの整理と夜間の天測。シニア隊は天候を選んで日帰り、デジカメ写真を整理してブログアップ。

伊能隊は鋸山を歩いて登った。シニア隊はケーブルで登った。(情けない)

伊能隊の出で立ちは手っ甲、脚半に草鞋(わらじ)と菅笠、裁着袴に羽織、腰に刀。シニア隊は軽ハイキングスタイル。

このとき、伊能忠敬56歳、シニア隊68歳。

ここまで行程比較してきて、どうして伊能隊は スムーズに 行程を こなすことが 出来たのだろうかと、ふと思った。
泊まる先々には可なり前から「先触れ」を送っている。例えば洲崎(館山市)では銚子港(銚子市)までの各止宿先に触れを13日前に送っている。もちろん行程に狂いがでれば、その都度変更の触れを出す。

実際にシニア隊が行程を計画するとき、デジタル地図を使ってキロ数を出し、1日の歩く距離から行程の計画を作る。

伊能忠敬の場合を考えてみると、何もデータがないところから作ったとは思われない。

村と村の間の距離などは、その当時結構データが揃っていたのだろうと想像する。当時は日本全土の地図が無かったとはいえ、局地的には絵図や距離数が揃っていたと考えてもおかしくない。

このように想い廻らせると、伊能忠敬が全日本地図を作れた背景には国中にデータの蓄積(文化的レベルの高さ)も一因と思われてくるがどうだろうか。

このままのペースで飯沼村(銚子市)へシニア隊が到達するには、あと9日〜10日間を要する。

あまり 道草せずに 頑張って行こう!!

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