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南房総沿岸を 歩いて 気になった 島がある。 それは「雀島」である。 富浦町 法華崎の 遊歩道で 地元の人に 教えてもらったのが初めだ。 この島は地形図には島名が載っていないが、地元では「フナムシ島」と「スズメ島」と呼んでいて、遊歩道から手の届きそうな近さにあった。(2万5千地形図 那古) 「雀」とは妙な命名だ。それから地形図を注意してみるようになった。 これは 大房岬を 周ったとき、岬の南の 鏡ヶ浦に 浮かぶ「雀島」である。 これは地形図に載っている。 (2万5千地形図 那古) 続いてこれは 鴨川市磯村の「雀島」。 周囲は南房総国定公園で鴨川松島といわれる景勝の地である。 (2万5千地形図 鴨川) 最後は 安房小湊の 鯛の浦の 先の入道ヶ岬を 周ったところにある。 これも地形図に載っている。 (2万5千地形図 安房小湊) 最後と言ったのは、千葉県の地形図に載っているのは、これだけだからだ。 しかし地元の人だけが呼んでいる無名の「雀島」が、この他にもあるかもしれない。 これらを見てみると、植生があり、周囲は岩礁、陸から近い、無人島であるなどの共通点がある。島の形状も何となく似かよっている。 島の形状を 身近な 可愛らしい 雀の 形に 見立てたものであろうか。それとも 全く違う 由来があるのであろうか。 昨日、図書館で日本の「雀島」を調べてみた。 それによると15の島があり、県別にみると、岩手県(1)、宮城県(3)、千葉県(3)、静岡県(1)、三重県(2)、和歌山県(1)島根県(1)、長崎県(1)、鹿児島県(2)と全国に分布していることが分った。 (島嶼(とうしょ)事典) 調べは、まだ不十分だが、これからも気にかけて歩いてみたい。 このように、沿岸の事物を比較できるのも、連続して歩るく ロングハイキング ならではのことだ。 |
伊能図を歩く−房総半島−
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(その1より) 難所 松ヶ鼻 の通過について、伊能測量日記には海岸を通行とある。 グーグルの衛星写真を見ると、潮位によっては磯伝いに内浦湾に面した千葉大学の水族館に出られそうでもある。しかし磯の通過が出来ない場合のことも考えなくてはならない。 文献によると、昔は磯伝いに道があったが、元禄大津波で浪欠したため、現在の国道実入トンネルの北側に「新坂道」を通し内浦の集落に抜けたとある。 この山道は現在消えているらしいが、明治初期の迅速図を見ると記されている。また、明治中頃まで国道実入トンネルの北側にトンネルがあったが、崩れて今は廃トンネルとなって通行できないともある。 Webで調べていると国道の実入トンネルには歩行者用のトンネルがあることも分った。 そこで伊能測量隊が通過した磯伝いを確かめ、不可なら実入トンネルの歩行者用トンネルを行くことに計画してみた。 トンネル水族館 実際に現地に来て堤防から磯を周ってみると通過できそうでもあるが、波しぶきが高くカミサンも拒否反応。今回は諦め実入トンネルの歩道を行くことにする。 国道のトンネルの脇に「とんねる すいぞくかん」と書かれた歩道トンネルが出てきた。 隧道壁面に水族館よろしく風景や魚がペイントされて楽しい。 入道ヶ岬遠望 今回の最大の 難所 入道ヶ岬が 内浦湾 越しに見えてきた。対岸は 鯛の浦。 誕生寺 日蓮上人生誕の地、誕生寺を訪ねる。立派な仁王門の網の隙間からデジカメを向けたら睨まれた。 説明板によると、はじめは蓮華譚(弁天島のある辺りか)に創建(1276年)されたが、二度の大津波で浪欠し現在の場所に再建されたという。 鯛の浦(妙の浦) 伊能測量日記には・・・ (七月)同十日、朝六つ半後天津村出立。此日北風晴曇。内浦へ海岸を通行、此村浦役人に渡辺喜内という人あり。旧来知音のものなり。小湊村、誕生寺あり。寺領七十石、百姓漁師百四十三軒。内浦村役人誕生寺役人立寄。喫茶を進むれ共、海岸の潮間を急ぎ立寄らず。 上総国夷隅郡大沢村に至る。海岸を通りしゆえに、山越市の坂を通らず。それより浜行川村を経て興津村に七ッ後着。宿名主孫左衛門。 とあり、入道ヶ岬の難所を村役人の喫茶の誘いも断わり、海岸線を急いで通ったことが記されている。「海岸の潮間を急ぎ」とあるから、潮位をみて通過したと考えられる。 「山越市の坂」は房州往還」で、山を越す通常ルートである。入道ヶ岬の部分は、グーグルの衛星写真ではあいにく雲が覆って海岸線が見えない。 文献を調べても入道ヶ岬から鯛の浦にかけて道があったとは記されていない。明治の迅速図でも海岸線には道はなく、大沢の集落と入道ヶ岬の中間から誕生寺までを山道がかすかに記されているだけである。 そこで今回とるルートは、磯伝いはルートが不明であるので、鯛の浦遊歩道の先端まで行き、ここから崖につけられた山道をたどって誕生寺の裏に出て、大沢集落へたどる崖沿いの道を行くことにした。 トンネル 誕生寺の裏から緩い坂道を登って10分くらい歩くと、トンネルが現われる。照明も歩道も無いが、まったく車の通行が無いので問題はない。 入道ヶ岬と 雀島を 反対側から 見る 暗いトンネルを抜けると太平洋が眼前に飛び込んできた。夕陽を背に入道ヶ岬と雀島が見える。 伊能忠敬はこの磯を測量しながら通過したのだ。 見たところ入道ヶ岬の磯は歩いて通過できそうだ。釣り人の影も見える。 崖の道(右上の写真) 崖の中腹に水平に付けられた道路を行く。眺めは雄大だが道路には一部クラックも走り、落石注意の標識もあって車では余り走りたくない道だ。道は安房の国(鴨川市)から上総の国(勝浦市)に入っていく。 大沢漁港 太平洋に面して 切り立った崖を V字に えぐられた沢に 大沢の集落と 漁港が見えてきた。 大沢村は伊能図にも記載がある。 どうしてこんな厳しい処に人は住むようになったのであろうか。国道も鉄道も集落の上空を通過していく。平地が無いのでV字の斜面にへばりつくように家が建っている。墓地もひな壇になっている。 大雨の降るときはどのような状況なのであろうかと心配してしまう。江戸の昔は陸の孤島であったのだろうか。一度ゆっくり集落を訪ねてみたい。 通行止めの崖道(右上の写真) 犬を連れた散歩中の人にここから「お仙の碑」までの崖の道の状況を訊ねる。 地形図には山道で表されているが、手入れもなく落石の恐れと手すりの無いことから通行不可となっているとのこと。替わりに国道のトンネルには歩道があって通行できるという。たしかに崖の道の入口には三重の通行止めの赤い布が張られていた。 おせんころがしトンネル 崖の道よりはましだが、歩道といってもガードレールがないので、高速で通過する車に吸いこまれそうになる。 孝女お仙の碑 国道のトンネルを抜けて右の小径に入って、「孝女お仙の碑」を訪ねる。 2万5千の地形図には、ここから大沢の集落まで崖道がついている。左は磯と20mの切り立った断崖、手すりはもちろんない。人ひとりがやっと通れる幅ですれ違うことも出来ない。 「おせんころがし」の伝説には異説が色々あるが、共通していることは、厳しい断崖からお仙が海に転げ落ちるところ。確かに伝説を生む難所だ。 行川アイランド駅 JR行川(なめがわ)アイランド駅に16:56に到着。今回の終着点である。 昔、職場の旅行で行川アイランドへフラミンゴを見にきて以来の訪問である。 あの頃は観光スポットとして大変な賑わいをみせた。 2001年行川アイランド閉園後も無人駅として存続しているが、もともとアイランドのためにつくられた駅であったために今は見る影もない。 ホームが片側しかない単式なのも珍しい。 17:13発の千葉行きで帰宅する。 今回の歩行距離はGPSログで25キロであった。
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今年になって4回目の南房総沿岸歩きである。 今回もまた伊能忠敬の測量ルートをたどって、安房鴨川から行川(なめがわ)アイランド駅まで歩いた。(2/21) 千葉駅前6:45発の高速バス(千葉中央バス 1,800円)にて先週到達した安房鴨川へ。 このバスルートは館山自動車道を姉崎・袖ヶ浦ICでおり久留里街道を南下し、鴨川有料道路を経て鴨川に至る約1時間半の行程である。前回の高速バスと違って車体が一回り小さくトイレも付いていない。少々不満であったが、道路の狭さとカーブ、トンネルの高さ制限などで納得した。 津波避難丘 前回時間がなくてパスしてしまった 日枝神社の 津波避難丘(鴨川市前原)を訪ねる。 伝承では「 慶長大津波 で大きな被害を受けたので盛り土をした。元禄の大津波 でここに逃げた人は助かったので、次の襲来に備えて更に盛土した。」 という。盛土5m、丘の高さ海抜10m。 道しるべ 日枝神社を離れ北に500メートルくらい進むと変形三叉路に明治43年11月に建てられた道しるべが出てきた。 房州往還と 長狭街道の 分岐点である。 あまつみなと かつうらみち・・・房総往還天津湊、勝浦 かもかわ あさひ ほうでうみち・・・房総往還鴨川、朝夷(千倉)、北条(館山) たはら おほやま ほたみち・・・長狭街道田原、大山、保田 と彫られている。 長狭街道は 外房の物資を 横根峠を経て 内房の保田に 運び、ここから 江戸に 五大力船で 運んだのだ。 鴨川横渚海岸 いったん海岸に出て今日たどる浜辺を眺める。大雨をもたらした低気圧も北上し、冬型の気圧配置となった。風と浪はあるが気持ちよい。東北・北海道は大雪になっているとニュースは報じている。 リタイアーして好いことは、天気予報をみて好天を狙って旅に出られることだ。 軍鶏(しゃも) 待崎川の河口から諏訪神社に寄ったあと新田の道しるべを訪ねるため、また海岸を離れ旧房総往還をたどる。(国道128号とJR外房線の間の道) 待崎川に架かる橋を渡って国道128号を横切り旧道に入っていく。 450メートルくらい行くと左手に 軍鶏(シャモ)を飼っている家があった。 昔はけっこう見たものだが最近では珍しい。 ご主人に写真を撮らせてくれと頼むと、ケージから取り出して地面に放してくれた。これは若鶏で羽根の艶もいい。精悍な体躯だ。 「ご夫婦で羨ましい!」とエールをもらって別れる。 新田の道しるべ 日蓮上人受難の旧跡夜長川の手前の三叉路に新田の道しるべが出てくる。 道しるべは地蔵尊の 左面に なご道八り、 右面に 小松原十一丁 と彫られ、天明五年1785年十月に建立されたもの。(赤いよだれかけを外させてもらって撮影する。) 往還から小松原山鏡忍寺への案内である。 この辺りから 日蓮上人が 東条氏ら念仏門徒に 襲撃された 小松原遭難の旧跡 が次々に出てくる。 夜長川 これも旧跡の一つ、疵をおった日蓮上人が夜明けを待って、夜が長いと嘆いた夜長川。 旧跡を示す石碑が二つに折れて転がっている。観光の鴨川市としては粗末な扱いである。 巨大病院 夜長川沿いに再び海岸(東条海岸)に出る 海岸に出ると左手に巨大な亀田 総合病院 が出てくる。都心から離れた外房の地にこのような巨大な病院があるのを不思議に思う。 地元の話ではドクターヘリもあり地域の中核救急救命病院で病室もホテルなみだが、入院費も結構すると言っていた。 東条海岸 伊能図に出てくる東条村は現代図には東条海岸に名を残すだけで地名がない。 昔はこの辺一帯を東条といい、その後分立して東、西、広場となったという。 こぶこぶの特徴ある小山が葛ヶ崎に連なる。右端は二ツ山の葛崎城址。 疵洗いの井戸 浜荻(はまおぎ)の多聞寺の境内にある「疵洗いの井戸」も日蓮上人小松原遭難の旧跡である。 多聞寺では丁度法事が終った喪服の人々が寺から出てきたので見学をパスする。 ロシア人上陸の碑 葛ヶ崎にさしかかるとロシア人上陸の碑が出てきた。 1739年(元文4年)ロシアの探検隊船からボートで乗組員数人がこの地に上陸したとある。 幕府が伊能忠敬に命じて正確な地図を作らせたのも、このような日本沿海に現れる外国の影が背景にあってのことかもしれない。 清澄道標 二タ間川を渡り安房天津に入ると往還から清澄寺への分岐が出てくる。分岐の右手 公民館入口に清澄道 を示す道しるべがあった。 50年以上前の高校生の頃、高体連集中登山で 養老渓谷から 清澄山に登り 鴨川の海岸で 幕営する2泊3日の山旅をしたことがあった。 清澄山からの下山で、ここを右折して鴨川に向ったと思うのだが、全く憶ええていない。 清澄寺は 日蓮上人が 修行し 開宗宣言を したゆかりの地だ。 (その2に続く)
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(その1から続く) 弁天島から堤防を戻り往還にでる。 磯村の旧街道は懐かしい一昔前の風景が残っている。 磯村は江戸時代年貢米の積み出し湊であっただけに往還の佇まいに歴史を感じる。街道沿いに寺社も多い。 角に「國札拾八番」と彫られた石碑のあるところから横道を入って 石見堂 を訪ねる。 ここ石見堂には二代目 波の伊八 の作による龍の彫刻がある。 伊八は、あの 葛飾北斎の富嶽三十六景の一つ「神奈川沖浪裏」の大波のもとになった波の彫刻で知られている。 あのストップモーションの大波と波間の富士の驚くようなダイナミックな構図に影響を与えたとは、伊八さんは凄い。 石見堂からは民家の屋根越しに仁右衛門島が遠望できた。 往還の旅人はここに寄って、素晴らしい眺望を見て疲れを癒したのだろう。 往還に戻り「万騎坂」を下っていくと 左から 妙昌寺の「オーニョウサマ」に睨まれた。 仁王門前には沢山の古い錨(いかり)が置いてあった。 妙昌寺隣の 金剛院 には数々の石塔が並んでいる。 この石塔は 勝負事にご利益があるという。それで笠などの部分が欠けている。博ち打ちが掻いて持っていったのだ。 時刻は午後4時少し前。加茂川を渡る。 今日は安房天津まで行く予定であったが難しそうである。計画を変えて安房鴨川で終点とする。 列車の待ち時間があったので、河原地蔵のSさんが教えてくれた 観音寺 (駅の北側)に「房州列女 畠山勇子」の顕彰碑を訪ねた。 観音寺はSさんのお寺(西徳院・善光寺)と同じ宗派であり知り合いという。 みなさんは歴史の教科書にも出てくる「大津事件」を憶えているだろうか。 1891年(明治24年)ロシアの皇太子が滋賀県大津で暴漢に襲われ、日本中を騒然とさせた大事件だ。明治天皇も謝罪と見舞いに京都に行った。 日本中がロシアに宣戦布告される、領土を割譲されるなどの噂が飛び交うなか、 ここ鴨川市横渚(よこすか)出身の「畠山勇子」は御国のためと京都府庁に駆けつけロシアや日本政府に宛てた嘆願書を投函して府庁前で自害をする。 その時彼女は27歳。これがセンセーショナルに報道された結果かどうかは分らないが、ロシアからは何の報復も賠償請求も無かったという。 畠山勇子の実際の墓は京都の末慶寺にあり、ここにあるのは顕彰碑である。 写真の石碑は先年 旧中山道 を歩いたとき 大津宿で「此附近露国皇太子遭難之地」の碑に出会い撮影したもの。 お雛様の時季になると、ここ観音寺では勇子が子どもの頃遊んだお雛様や釣るし雛が飾られ公開されるという。 安房鴨川駅から17:56の千葉行きに乗り、JR外房線で帰る。 今回の歩行距離はGPSログで19.6キロであった。
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春一番が吹いた大荒れの前日(2/12) 伊能測量隊のルートをたどり、
江見から横渚(よこすか 鴨川市)までを歩いた。
前回同様、千葉駅前から高速バスを利用して館山に行き、そこから内房線を乗り継いで江見に降り立つ(9:22)江見駅から緩い坂道をくだり海岸に出る。 「炭焼き島」を見に江見漁港突端に行く。「炭焼き」とは変な名前だ。 この島は現代図にあって明治初めの地形図には表されていない。 実際に眺めてみると島というより岩礁だ。隆起で暗礁が姿を現したのかもしれない。 国道沿いに今も漁船を改造した食堂が健全であった。 カミサンと結婚した頃、義父母と一緒にここで昼食をとったことがあった。 カミサンの出身は海無し県の群馬で義父母も喜んでくれた。 道の駅「鴨川オーシャンパーク」のある太夫崎の海岸を周ると 房州大橋 が目に飛び込んできた。 大橋(国道128号)の左はJR内房線の鉄橋、更にその左上を旧房総往還が走っている。 伊能忠敬はこの海岸線を測量して北上して行ったのだ。 遠くに太海(ふとみ)の仁右衛門島が見えてきた。 天面(あまつら)の集落に入ると特異な形をした 竹の子岩 と 仁右衛門島 がはっきり見えるようになってきた。 磯では小舟が出て 鮑(あわび)の稚貝をまいている。この稚貝は千倉の蓄養センターで育てられたものを漁協が購入して磯にまいているとのこと。 まいたものは貝の色に段差があり天然物とはっきり区別できる。この情報は地元の婦人から聴いた。 天面とは「あまつら」と読む。 かってここでは 両墓制 が行われていたという。 人が死ぬと国道沿いの「埋め墓」に埋葬し、年忌を重ねて13回忌になると掘り出し、骨揚げをして西徳寺、善光寺の先祖代々の墓(参り墓)に納められた。 今は火葬だからこの風習はなくなった。 このような風習はカミサンの故郷群馬県吾妻郡でもあったという。 遺体と霊魂を区別する考えから発生したものか。 天面の集落を離れ南面の旧道をまわると赤く塗った「西院の河原地蔵尊」が出てきた。 崖に嵌め込まれたようなお堂の中に沢山のお地蔵さんが並んでいる。こどもや若くして亡くなった人の写真もたくさん添えられている。 お堂に入ると陽だまりで新聞を読んでいた婦人が笑顔で起き上がって、お茶を出してくれた。さらに煎餅や夏みかんまで接待をしてくれるのには驚いた。 やがて自転車でお参りにきた老人も加わり1時間超のおしゃべり。 内容は大したものではないが、話題が次から次にでてきて長おしゃべりになってしまった。 別れ際に、これを持っていきなさいと夏みかんまでくれた。 Sさんというこの婦人は年のころ50代で、ここに来る前に訪ねた西徳院・善光寺の住職の奥さんであった。安房勝山の竜島から嫁いできたという。両墓制 薩摩の出身のこと 弁天島の大祭 大津事件畠山勇子の話 など色々な情報を得た。 太海(ふとみ)フラワーセンター 旧道から国道に合流して少し行き、また国道を離れて右に下って行くと、旧道下に太海フラワーセンターが出てきた。 予定では 小舟で仁右衛門島に渡る積りであったが、河原地蔵尊で予想外の時間を費やしてしまったので パスすることにした。 仁右衛門の名前は伊能測量日記にも出てくる。 石橋山の合戦で破れた源頼朝をかくまった功績から島と漁業権を与えられ、それが現在も世襲として続いている 個人所有の歴史の島である。 現在の地形図では仁右衛門島となっているが、明治初期の地形図では波太島(なぶとじま)となっている。 仁右衛門島付近の地名は 浜波太(はまなぶと)で、岬をまわると岡波太(おかなぶと)と集落の名前が変る。 岡波太のほうがはるかに民家が多い。昔は浜は漁業の村、岡は農業中心の村であったそうだが、今でもそうなのであろうか。(見わたしたところ平地は少ない) その集落の境に波打ち際から鳥居と急な階段が出てきた。 ちょうど自転車を押して坂に向う老人を呼び止めて神社の名称を訊くと「香指神社(かざしじんじゃ)」で浜波太村と岡波太村が合同で建立したといい、北側にもう一つ鳥居があるとも教えてくれた。 夫々の鳥居はそれぞれの村用のものなのだろうか。境内には「文政元寅年 奉寄進 岡 若者中・・」の手洗石がある。寄進者に岡とあるから岡波太村が寄進したもののようだ。 文政元年は伊能忠敬がここを通過した17年後のことだ。 千葉県立鴨川 青年の家 がある小さな岬から 弁天島 が真近に見えてきた。 伊能大図を見ていて不思議に思ったことがある。 それは磯村の沖に浮かぶ「弁天島」のことである。 伊能大図では弁天島の周囲が朱線で縁取られている。 測量日記には特に記載は無いが、なぜこんな小さな島を測量したのであろうか。 仁右衛門島には島名が表されていないのに弁天島には島名が記入されている。 伊能忠敬の注意を引く何かがあったに違いない 今は漁港から突き出た堤防の先端から渡ることができるが、その当時は孤立した岩礁の島であったはずだ。 この不思議を確かめるため橋を渡って弁天島に行ってみた。 立派な鳥居が出てきた。 鳥居を進むと、高い塀と鍵の掛った厳重な扉が行く手を遮っている。 扉から覗くと奥に立派な社殿 が、そして入口右に「厳島神社中開帳記念碑」と彫られた大きな石造物があった。 碑の裏には「大正十二癸歳五月一日 當日舩橋架設」とあった。 舩橋架設とは船を並べて橋を架けたということか。だとしたら凄い! ここ弁天島では61年目毎に弁財天祭があり、中開帳とは本開帳中間の30年目の御開帳のことらしい。 河原地蔵のSさんも見にきたと言っていた。それにしても 奇祭 である。 昔なら一生に一度見られるかどうかの本開帳である。次回の大祭は5年後の2014年だ。 いつ頃から始まった祭りなのであろうか。 面白くなってきた。伊能忠敬が、この島を測量した謎解きをしたくなってきた。 伊能忠敬は、実は幕府の隠密(おんみつ)で、測量は仮の姿だという風説がある。 このような憶測も、こんな疑問から生まれるのかもしれない。 (その2に続く)
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