|
(その1から続く) 道の駅ローズマリー公園を後にして 丸山川 を渡り、再び海岸に出る。 これから行く和田漁港と、遠くに江見が見えてくる。 温石川 に架かる斜張橋「サーフ橋」を渡ると 和田町 白渚(しろすか) である。 白渚(しろすか)とは難読地名だ。 「すか」を広辞苑で引くと川水・海水で出来た砂地とある。 南房総には横渚(よこすか)という地名も複数ある。 神奈川の横須賀も同じ語源なのであろうか。 河口には夥しい数のカモメが群れている。真冬だというのに波間にはサーファーも多い。 サーフ橋とはここから名付けたものか。 ここ白渚(しらすか)から和田にかけては日本でも数少ない 沿岸捕鯨基地 であり、くじら料理で有名である。 今回の旅の目的の一つはこれを食味することでもあった。 国道沿いの鯨料理の幟(のぼり)に釣られて食堂に入る。(渚ドライブイン) 女将さんお勧めの「鯨御膳」を注文する。 ミンククジラの刺身、ツチクジラの竜田揚げ、クジラのコロッケ などがのっている。地元の鯵の刺身やひじきの煮物なども付いてボリュームがあり美味い。(2,000円) 食堂で 威徳院 への道順を訊く。 威徳院には 元禄16年房総を襲った大津波が到達した地点の碑がある。 海岸沿いの国道脇にヒゲ題目を配した「三界萬霊」の石柱がある。ここから街中に入っていく。 路傍のお地蔵様もお供え物がたくさんあって嬉しそう。 眞浦神社 の鳥居を右に登りJRの線路をまたいで威徳院の階段を登る。 この付近の海抜は20−30m位か。 残念ながら「威徳院津波到達地点碑」を見つけることはできなかった。 左隣の眞浦神社から海岸を見下ろす。 大津波がこの近くまで這い上り集落を壊滅的に破壊したのかと想像すると言い知れない恐怖がわいてくる。 感慨に耽りながら甍(いらか)の街並みを眺めていると、家並みの中に小高い丘と頂上の赤い小祠が眼に入ってきた。 神社から狭い路地を経て通りに出ると、威徳院から見えた 小高い丘 が出てきた。 登り口には 危険傾斜地 と 避難所 という矛盾した標識があった。 もしかしたら、これは津波のための 避難丘 かもしれない。 急な階段を手すりに助けられて丘の上に出る。狭い頂上に海に向って朱塗りの小祠と鳥居があった。 眺望はすこぶる良好で 和田町眞浦の集落が一望できた。しかし、元禄大津波の光景を想像すると、また違ったイメージになってくる。 観光パンフレットの写真にあった 鯨の解体場 を見に行く。 沿岸の鯨漁は6−8月ということで、今は閑散としていた。15メートルを越す ツチクジラ の巨体がここに引揚げられてさばかれるのだ。 戦後の国民の蛋白質を支えた鯨。鯨の全てを余すことなく利用した 伝統の食文化 である。いただいた命に敬意を示し鯨塚まで建てて感謝した。(安房勝山で訪れた鯨塚を思い出す) 夏になると解体の光景を見学できるらしい。(タイミングはホームページで公開される) 和田漁港を周ると 和田浦、花園 の長い海岸線と、その先に、今回の終着江見が視界に入ってきた。 海に流れ込む小川が何箇所かあったが、ほとんどは流れが海に注ぐ前に砂浜に消えている。一箇所だけ流れが速いところがあって、流木や石などを使って渡ることができた。 旧伊南房総往還 を辿りたく海岸から離れて旧道に行く途中、松林の中に「浜千鳥の碑」があった。 「青い月夜の 濱べには 親をさがして 鳴く鳥が 浪の国から 生まれ出る 濡れた翼の 銀のいろ」 小さい頃歌った「浜千鳥」である。歌詞は知っているが 作者 鹿島鳴秋 は憶えていない。 娘をなくした鹿島鳴秋が、ここ和田の海岸で作ったといわれている。 (WEBで調べると新潟県柏崎では、作ったのはこちらの海岸と主張していて諸説があるらしい) 州貝川 を越えると今日の終着江見も近い。陽もだいぶ斜めになってきた。 16:21 JR江見駅に到着。安房鴨川、上総湊(快速)と乗り継いで千葉に帰る。 GPSログで今回の歩行距離は23キロであった。次回は江見から安房天津まで行く予定である。
|
伊能図を歩く−房総半島−
[ リスト | 詳細 ]
|
伊能測量日記には (七月)同八日 朝より晴天、海面同前。六つ半後北朝夷出立。瀬戸村、白子村、白渚村、真浦村、和田村、仁我浦村、柴村、花園村、西真門村、東真門村、内遠野村、江見村九つ半頃に着。止宿真言宗清水山浄照寺。此夜晴天測量。 と記されている。 今回(2/2)は伊能測量隊と同じルートを辿った。 JR千倉駅までのアクセスに館山まで 高速バス を利用した。 (千葉駅前7:10−館山駅前8:45着 1,500円) 正確な到着時刻でJR館山駅から千倉駅までの乗り継ぎもスムースであった。 高速バスは京成バスや日東交通が運行している。停車個所も少なくトイレ設備もあり所用時間も短い。 安房鴨川方面にも運行しているらしく、これからの房総沿岸歩きに利用できそうである。 9:04にJR千倉駅 に到着し、駅前から前回の到達地点に向う。 途中、南房総市千倉支所敷地内にある四等三角点(瀬戸)を見つけに寄り道をする。 簡単にタッチできると思いのほか発見できない。庁舎の受付嬢に尋ねるも要領を得ない。断わって建物の周囲を探すも遂に確認できなかった。 代わりに真っ二つに折れた大正6年の道しるべを見つける。 和田町、南三原村、千歳村への距離を示している。何処にあったものであろうか。 道しるべは大正の終わり以降には殆ど建てられなくなった。 バスが普及しだし道しるべの役目が終ったからである。役目は終ったとはいえ、交通遺物として大切に保存してほしい。 海岸に出る。今朝は風はやや強いものの気温はそれほどでもない。前回辿った千倉海岸と千倉漁港が見える。 ところで、千倉とは崖の多い場所という意味らしい。 倉の付く地名や倉と表記しなくても「くら、ぐら」などと発音する地名はは全国に多い。 谷川岳一ノ倉沢も古い言葉で「一番の崖」と言う意味であることを最近知った。 JR千倉駅の先に 千歳駅 がある。 周囲に千歳の地名はなく不思議に思っていた。 海岸線を北に進み瀬戸川を渡ると、橋のたもとに大きな「従是安房郡千歳村白子」と刻まれた石柱がでてきた。 地元の人に尋ねると、ここは昔千歳村であったとの答えが返ってきて、市庁舎庭に打ち捨てられていた道標の記名とあわせて納得する。 白子漁港は活気に満ち満ちていた。 船べりまで船体を沈ませて満杯の魚を積んだ船が接岸して水揚げしている。 まわりにはカモメがおこぼれを狙って乱舞している。見ていて気持ちがいい光景だ。 昨日は風が強かった。発達した低気圧は東の海上に遠のいたが波はまだ高い。 砂浜に出て海を眺めていた老人が「スケッチですか」と声を掛けてきた。透明な地図ケースをスケッチブックとみたらしい。 房総沿岸を歩いていると応えると、フラワーライン道路に「北緯35度最東端」(世界測地系)の標識があると教えてくれた。 事前の地形図チェックで近くに 電子基準点 (丸山)が示されていたので探してみた。 三角点よりは格段に発見しやすい。しかし関心が無ければゴミ焼却煙突として見過ごしてしまうかもしれない。 プレートには地上2万メートルで周回するGPS衛星の電波を受信し、つくば市にある国土地理院に毎日受信データーを転送しているとある。 これによって土地の測量・地図作成や地震・火山の噴火予知に供されているのだ。 トイレ休憩に道の駅ローズマリー公園に寄る。平日のせいか人影はまばらであった。 (その2へ続く)
|
|
2009年の松も明けて、「伊能忠敬の足跡を辿るロングハイキング」も房総半島東岸に移り、いよいよスタートである。 今回(1/17)は野島崎灯台から歩き始めてJR千倉駅までのお花畑と太平洋を見ながらの旅である。(カミサン同行) 館山から、昨年12月に到達した野島崎灯台口までJRバスで行き、ここから歩き始めた。 当日は、このところ続いた強い冬型の気圧配置もゆるんで絶好のハイキング日和であった。 リゾートホテル群が立ち並ぶ白浜をすぎ、塩浦の集落に入ってくると沿道に花摘みの案内が出てくる。 ここ房総南端は 無霜地帯 で冬でも花の栽培が盛んだ。花摘みを誘う案内板が沢山出ていた。 左手の照葉樹に覆われた小山の上に小詞が目についた。 磯海苔(いそのり)を干している地元の人に尋ねると浅間神社だという。 「見晴らしが好いですよ」との勧めで登ることにした。急な階段を登って頂上の社に出ると野島崎灯台から白浜にかけての家並みと眼下に花畑が見渡せた。 房総南端は花と海を巡る「花海道」だ。 青い水平線にはポピーが良く似合う。 乙浜漁港を過ぎると進路は北向きにかわり、GPSの緯度表示も数値が増えてくるようになる。 房総半島南端から千倉にかけての海岸線は海岸段丘が発達していることで有名である。 ここ白間津(しらまず)漁港にかかる南房千倉大橋の上から、その特徴が見渡せた。 大地震などによる 地殻変動で 海底が隆起 してできたものだ。 左の山並みから右手に海に向かう平坦地が、かっての海底である。 国の重要無形文化財に指定されている「白間津(しらまず)踊り」が奉納される日枝神社に寄ってみた。 案内板には祭りは5年に一度の一漁村には珍しい華麗で豪壮、賑やかな大祭とある。 特に「ささら踊り」や「酒樽万燈」、海岸に向かって行う「大綱渡し」などは圧巻とある。 神様は海からやってくるのはいかにも房総らしい。 日枝神社を別れ、白間津漁港に戻る。大川、千田と小さな漁港が続く。 途中、道の駅(潮風王国)に立ち寄り昼食をとる。 ところで、大川は往年のハリウッドスター早川雪舟の故郷である。 なぜ網元の家に生まれた早川金太郎(雪舟)が国際的映画スターになったか。 それは明治39年、ここ七浦沖の 米国客船ダコタ号の座礁事件 にさかのぼる。 英語を独学していた金太郎が通訳として大活躍し、その機縁でシカゴに留学、数奇な運命をたどってスターになったという。 ダコタ号だけでなく安永9年の清国船(元順号)、明治44年のエンタープライズ・チャイナ号など幾度となく沿岸で海難事故が発生している。 この地方のふるさと写真集「朝夷(あさい)」の中には、上半身裸の海女と救助された米国人の焚き火風景が載っていて面白い。 房総半島の沿岸歩きでは、事前に地形図をチェックしてから歩いている。 ここ平磯(ひらいそ)付近の地形図で近接して二つの灯台記号があるのに気付いた。 一つは岩礁に他の一つは道路を挟んだ陸側にある。灯台が並んで二つあるのが不思議であった。 地元の人に尋ねると、灯台ではなく航路誘導灯であると教えてくれた。 二つの灯りが一つに見えるように航路をとると漁港に入れるらしい。岩礁や潮の流れを考慮して設置されているとのことであった。 また、海岸段丘についても、その人の父親の話として関東大震災に際して海底が隆起し、干上がって腐った海草が発生する臭いが、大変であったとも話してくれた。 そう言われて周囲のお花畑などを見わたすと、確かに海底であった岩が各所に露出している。 南房総の沿岸が地勢的に海岸段丘が特徴と文字では知っていたが、現地に来て地元の話を聞いたり露出した岩などを見ると、航路誘導灯や海難事故、花卉(かき)栽培地などバラバラの情報が「海底隆起」というキーワードで説明できるようで面白い。 平磯漁港近くの沿道に、関東大震災の海底隆起で、漁港の改修を余儀なくされた記念の碑もあり、当時の苦労が偲ばれるものであった。 千倉漁港南の忽戸(こっと)には「屏風岩」と言われる奇岩群が海岸から沖に向ってが続いている。 海面上に見える岩はほんの一部であるらしい。 千倉漁港の北の端から千倉海岸の先に夕陽に照らされた高塔が遠望される。KDD海底線中継所である。 ここから北米や東南アジアに向って光ケーブルが海底に向って延びている。 お世話になっている高速インターネット網もここを通過しているのだ。 ケーブルの海底への落ち口を見てみたいと近づいてみたが何処にも見当たらない。 高塔近くの海岸の松林が途切れていたが、たぶん、この地下にケーブルが埋設されて海に延びていると推測したが、どうであろうか。 陽もだいぶ傾いた。海岸から松林を越えて国道410号に出る。今回の到達点である。 国道を左折してJR千倉駅に向う。今日の歩行距離はGPSログで22キロであった。
|
|
(第2日目) 昨日の 到達地点 (平砂浦)まで館山駅からJRバスで行く。 バス停から畑の中の小径を辿って海岸に出た。 まだ12月半ばだというのに、ここではもう サヤエンドウの花 が咲いて実もたくさんつけている。 打ち寄せる波によって出来た砂の紋様が美しい。 今朝は風がややあり白波がたっている。 晴れてはいるが雲に隠されて伊豆大島は見えない。 ここは 平砂浦、4.5キロにわたって長い砂浜が続く。 所々このような流れが海に注いでいる。 靴を濡らさないように歩くのに結構苦労する。 飛び越せないときは流木や流れ着いた竹を使って渡る。どうしてもダメなときは上流の橋を迂回することになる。 流れを越せないので浜に平行して走るフラワーラインに出る。(南房パラダイス) これから新年を迎えると花のシーズンで、ここも賑わいをみせることだろう。 いまは 山茶花 が満開となっている。 相浜で会った年寄りの話は面白かった。 少し長くなるがこうである。 相浜漁港で、自転車で通りかかった老人に 相浜(あいのはま) の読み方について尋ねた。 自転車に竿やタモ網など釣り道具一式をのせている。 相浜の地名の読みを確認したあと、老人はこちらに興味を持ったのか、この先の布良(めら)という地名をあげて日本民族のルーツは南方系と北方系があると話し出した。 「めら」の地名は 伊豆半島(妻良)や紀州(女良)にもあるらしい。伊豆の伊東(いとう)にしても房州にも伊戸(いと)があり海の道をへて移住してきた人々がつけた名であるという。 言葉の中に時々英語なども混じる。東南アジアなど先の戦争で回ってきたらしい。 そして 私は 加藤隼戦闘隊(かとう はやぶさ せんとうたい)の生き残りで今年90歳になるとも言った。 山登りもだいぶやったらしく日本アルプスの山名がポンポン飛び出す。 老人はかなり難聴で耳元で大声をだしての会話は、ところどころ斑(まだら)ではあったが「日本百名山」の話になったところで、戦友が華中で不時着し中国人に助けられた話をしたときには驚いた。 通常 敵国の将兵が捕まると 高い褒賞がでるのだが、その中国人はそれに反して助けた。 それはその母親が日本の薬で命拾いしたことがあり、機会があったら 日本人に恩返し してくれと日頃言っていたらしい。 中国人は捕虜(友人)を日本軍の最前線に連れて行くと、なんとその守備隊長は深田久弥中尉であったというのである。 「日本百名山」で知る人ぞ知る 深田久弥 氏である。 そんなことをその九十翁は随筆に書いたというので、是非その本が購入したいと話を向けると、在庫があるか調べてから連絡するから、住所をメモしてくれという。 老人はひとしきり話が終ると、婆さんが昼飯を作って待っているからと自転車に乗って去っていった。 駒ヶ崎神社の裾を廻って海岸に出る。 青い海苔に覆われた 庭園のような磯 を歩く。 空を反射した 潮溜まり に目を奪われる。滑らないように慎重に通過する。 海岸近くの食堂(牧水亭)に入って「さざえラーメン」を注文した。 スープの味は今ひとつであったが、さざえの具は信じられないくらいたっぷり多かった。(750円) 店主になぜ「牧水亭」なのか尋ねると海岸に牧水の碑があるからという。 「白鳥はかなしからすや 空の青 海のあをにも 染ますただよふ・・・」 で始まる若山牧水の碑があった。 ここ 根本海岸は牧水ゆかりの地。 彼はここを二度訪れて沢山の歌を詠んでいる。 一度目は恋人園田小夜子と熱愛の時期、二度目はその小夜子との別離の後であった。 そしてこの歌を詠んだ。 根本海岸の先の岩礁(御神根島)にたくさんのウミウが羽を休めていた。 根本の海岸をまわると今回の旅のゴール野島崎灯台が目に入ってきた。 津波を体験したことはないが、元禄地震の再来想定津波高 を見ると、海全面が盛り上がってこの高さで襲来する恐ろしさを実感した。 記憶に新しい東南アジアを襲った大津波もこのように海全体が押し寄せたのだろう。 もの凄いエネルギーだ。 斜陽に照らされた 野島崎灯台 を遂にまじかに捉える所まで来た。(15:25) 自然に足も速くなる。 見学しめ切りぎりぎりに灯台に入る。 案内によると 慶応2年(1866)江戸幕府とアメリカ等4カ国との間で結ばれた江戸条約において建設が定められ、明治2年(1869)に点灯されたとある。 伊能忠敬がこの地を測量した68年後のことである。 灯台はその後関東大震災で倒壊し大正14年(1925)に改築されたとあった。 灯台から南南西の海上に 三宅の島影 を微かに遠望することができた。 噴火のときは火映が見えたのであろうか。ここから96キロの距離である。 伊豆大島と利島の海峡に夕陽が落ちようとしている。 天候は下り坂、北から雲が移動してきている。良い時期を選んで歩くことができた。 これで今年のロングハイキングは御用納め。 来春はどんな出会いが待っているか。 それでは良いお年を !!
|
|
師走は何かと気が急く。今年中に野島崎まで到達したいと考えていた。 年末のスケジュールと天候を考えて12/15−16に館山から野島崎までを歩いた。(46.2キロ) そして、12/16 15:42 野島崎灯台に達した。 幕張をスタートしてから延べ 15日間、276キロ の行程であった。 歩くという人間にとって基本的なことを、あらためて素晴らしいと感じた旅でもあった。 日本の海岸は美しい。来年は 銚子 まで歩を進めてみようと思う。 (第1日目 12/15) 今朝は冷え込んだ。車窓の田畑に霜が光る。 通学の高校生が、ひとしきり車内を賑わしたが上総湊をすぎるとほとんど空席となり持参の朝食をとる。 JR館山駅を9時に歩き出す。海岸通に出ると工事中の公衆トイレの向こうに今朝も富士山が迎えてくれた。 海岸通りを800メートル南に行くと 千葉県立安房博物館 が出てくる。 入口からのぞくと色鮮やかな 鯨の万祝(まいわい) が目に入ってきた。 万祝とは網主(船主)が網子(船子)に配る 祝い着 のこと。人物、漁労、吉祥など様々なデザインがあるらしい。じっくり見学してみたいものだ。 (博物館は現在工事中で来年3月末までは見学できない) 伊能忠敬測量日記には ・・柏崎浦、沼村の内、海中に沖島、高島ありて船がかりによし。・・ と記された二つの島は、今では両島を結んで海岸まで埋め立てられ航空自衛隊基地になっている。 埋立て地の旧海岸のへりを周って海岸に出た。地図で確認すると「香」という所だ。 「こうやつ」と読む。伊能中図にも出てくる村である。静かに波が打ち寄せる眺めのよい海岸である。 沖にむかって鳥居と常夜燈があった。文政二年と彫られている。近くにお茶の水女子大学の臨海施設がある。 近くで「ハバ海苔」をとっていた女性に鳥居や常夜燈について尋ねてみたが不明であった。 「ハバ海苔」は、ここ房総では正月の料理に欠かせないという。雑煮入れると香りがあって美味いらしい。 ハバとは「幅をきかせる」ということから縁起のいい物と教えてくれた。 ここは波左間(はさま)港。 岩壁にユーモラスな マンボウの絵。 船底から海中を見学できる観光船の発着所となっている。 房総には難解地名が多い。 これは 坂田「ばんだ」と読む。 坂田の岬を周ると 洲崎灯台が見えてきた。 「岬めぐりの・・・」と思わず口ずさんでしまうほど、岬には心地よい響きがある。 岬の先に何かいいことがあるように思えてくる。 洲崎灯台は東京湾の入口にあって三浦半島の剣崎灯台とならんで海の安全を守っている。 水面からの高さ45メートル。剣崎灯台とは光の色や点滅を変えて位置を知らせていると案内板で解説している。 伊能測量隊はここ洲崎で富士山、大山、、天城、大島を観測するために海面が晴れるまで4泊している。 地図の精度を上げるための観測である。 灯台から海上約40キロ先に 伊豆の大島 とピラミッド型の 利島 が見えてきた。 全島避難を余儀なくされた1986年(昭和61年)の 大噴火 ときにはもの凄い光景が見られたという。 海岸に向かって鳥居が出てくる。 参道に導かれるように辿ると県道に面して 一宮洲崎神社 が出てきた。 長い階段の先に社殿がみえる。160段近い階段を登ると照葉樹の原生林に佇む社殿があった。 信心深くはないはずが思わず手を合わせるのも安全にここまで来た感謝の気持ちである。 西川名の集落から海岸に出ると磯の先に 相浜から布良の岬 が見えてきた。 初冬というのにここは 露地にストックが咲いている。 南房総は年が明けるとお花畑の観光シーズンに入る。 1日目の進行状況によっては洲崎か伊戸の民宿に泊まる予定で用意してはきたが、平砂浦まで行けたので日帰りとした。 地元の婦人の親切でバス停まで道案内してもらい 16:15の館山行きのバスに乗る。 バスの窓ガラスに顔を押し付けるようにして、伊豆大島に沈まんとする夕陽を見ながら帰路についた。
|




