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日記
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原子爆弾投下 私見(2)
1945年8月6日、アメリカは広島に原子爆弾を投下しました。当時の大統領ハリー・トルーマンはアメリカの全国民に向けラジオ演説でこう語りました。 戦争を早く終わらせ多くの米兵の命を救うため原爆投下を決断した。皆さんも同意してくれると思う。 このスピーチはアメリカ社会で原爆投下の大義とされてきました。ところが、トルーマンは原爆投下直後に深い後悔の念を抱いていたのです。トルーマンが原爆投下に対して明確な決断をしていなかったというのです。 このような意見がアメリカをなお支配しています。 多くの日本人が亡くなりましたが、何千人ものアメリカ兵が救われました。トルーマン大統領は正しい決断をしたのです。(退役軍人) 今生きているのは原爆のおかげです。原爆が戦争を終わらせたおかげで日本の子どもたちも死なずにすんだはずです(退役軍人) 戦後長い間信じられてきたこの定説を根本から揺るがす事実が明らかになりました。軍の施設に重要な資料が眠っていたのです。空軍士官学校の図書館の書庫に原爆計画の全てを知る人物のインタビューテープが未公開のまま保管されていました。原爆計画の責任者をつとめていたレスリー・グローブス准将へのインタビューです。 大統領は市民の上に原爆を落とすという軍の作戦を止められなかった。いったん始めた計画を止められるわけがない。 (レスリー・グローブス准将) 当時、ルーズベルト大統領が極秘に始めた原爆開発が「マンハッタン計画」です。1942年9月、グローブスはその責任者に抜擢されました。全米屈指の科学者を結集し、研究施設や工場を建設。22億ドルもの国家予算をつぎ込み世界初の原爆の完成を目指しました。 ところが1945年4月、原爆の完成を待たずにルーズベルト大統領が急死。その直後に大統領に就任したのが当時、副大統領だったハリー・トルーマンでした。ルーズベルトから引き継ぎもないまま突然巨大国家プロジェクトの最高責任者となったのです。グローブスが就任当初のトルーマンについて語っていました。 トルーマンは原爆計画について何も知らず大統領になった。そんな人が原爆投下を判断するという恐ろしい立場に立たされた。 (レスリー・グローブス准将) 政権と軍の間で攻防がありました。攻防の始まりはトルーマンが大統領に就任した13日後、大統領執務室でのことでした。 グローブスはトルーマンに原爆計画の進捗状況について初めて説明し、計画の続行を認めてもらおうと訪れていました。これまで原爆をどこに落とすかなど、詳細は報告されていませんでした。アメリカでは、選挙で国民に選ばれた大統領が最高司令官として軍を統制する文民統制という仕組みがあります。重要な軍の決定事項は大統領に報告し、必ず承認を得ることになっていました。 この時、グローブスは24ページの報告書を持参。報告書には原爆の仕組みや核燃料の種類、予算などが簡潔に書かれていました。原爆開発が成功すれば戦争に勝利するための決定的な兵器になると強調していました。しかし、大統領の反応は意外なものでした。 大統領は報告書を読むのは嫌いだと言った。原爆開発の規模を考えると特に長いとは思えなかったが、彼にとっては長かったようだ。 (グローブス准将) トルーマンはこの報告書の詳細を知ろうとはしなかったのです。この時、グローブスは計画の続行が承認されたと考えたと言います。実は、すでにグローブスは軍の内部で原爆投下計画を極秘に作成していました。 最初の原爆は7月に準備。もう一つは8月1日頃に準備。1945年の暮れまでに、さらに17発つくる。 (資料より) グローブスは原爆の大量投下まで計画していたのです。トルーマンは軍の狙いに気づくことなく、計画を黙認する形となったのです。 私の肩にアメリカのトップとしての重圧がのし掛かってきた。そもそも私は戦争がどう進んでいるのか聞かされていないし外交にまだ自信がない。軍が私をどう見ているのか心配だ。 (トルーマンの大統領就任当日の日記より) この頃、ヨーロッパではナチスドイツが降伏寸前で、太平洋戦争でも日本を追い詰め戦争をどう終わらせていくのか舵取りが求められていました。さらに、戦後の国際秩序を決めるソ連などとの熾烈な駆け引きがトルーマンの肩にのしかかっていたのです。 大統領から原爆計画の承認を得たと考えたグローブスは、最初の面会から2日後、計画を次の段階に進めました。 8月の投下が決まると目標地点について物理学者が見解を述べていました。 人口が集中する地域で、直径が5キロ以上の広さがある都市にすべきだ。それも8月まで空襲を受けず破壊されていない都市が良い。 (物理学者スターンズ博士) 狙いは最大の破壊効果を得ることでした。選ばれたのは東京湾から佐世保までの17か所。その中で広島と京都が有力候補にあがっていきました。 広島には広い平地があり、まわりが山に囲まれているため爆風の収束作用が強まり大きな効果があげられる。 (物理学者スターンズ博士) 2つの都市のうちグローブスが推したのは京都でした。 京都は外せなかった。最初の原爆は破壊効果が隅々まで行き渡る都市に落としたかった。 (グローブス准将のインタビューより) 1945年5月30日、グローブスはトルーマンの側近の部屋に呼ばれました。陸軍長官のヘンリー・スティムソンです。 スティムソンの部屋を訪ねると「投下目標の候補は決まったか」と聞いてきた。「ちょうど決まったところです」と答えた。「どこが候補になったか」と聞かれ都市の名前を伝えた。すると「京都は認めない」と言われた。 (グローブス准将のインタビューより) 気がかりなことがある。アメリカがヒトラーをしのぐ残虐行為をしたという汚名を着せられはしないかということだ。 (スティムソンの日記より) 日本ではすでに多くの都市が空襲で焼け野原となり降伏は間近とみられていました。グローブスは戦争が終わる前に原爆を使わなければならないと考えました。 原爆が完成しているのに使わなければ、議会で厳しい追及を受けることになる。 (グローブス准将のインタビューより) 22億ドルの国家予算をつぎ込んだ原爆計画。責任者として効果を証明しなければならなかったのです。 原爆実験から5日後、スティムソンに部下から緊急の電報が届きました。 軍人たちはあなたのお気に入りの都市、京都を1発目の投下目標とする意向のようです。 (スティムソンの補佐官からの電報) 軍は京都への原爆投下をまだあきらめていませんでした。3日後、スティムソンはトルーマンに報告。京都を外すよう求めました。 私は原爆の投下は、あくまでも軍事施設に限るということでスティムソンと話した。決して女性や子供をターゲットにすることがないようにと言った。 (トルーマンの日記 7月25日) トルーマンは市民の上への原爆投下に反対していたのです。ところが、このあと大統領の意思とは全く異なる方へと事態は進んでいきました。 トルーマンのもとに軍から届いた新たな投下目標を記した報告書の最初にあげられていたのは広島でした。34万人が暮らしていた広島。市内には日本軍の司令部が置かれていました。一方で、西洋の文化を一早く取り入れた活気ある市民の暮らしがありました。ところが、報告書には「広島は軍事都市だ」と強調されていました。 軍は原爆によって一般市民を攻撃することはないと見せかけたのです。トルーマンは広島に原爆を投下しても一般市民の犠牲はほとんどないと思い込んでしまいました。 (スティーブンス工科大学アレックス・ウェラースタイン准教授) 結局、トルーマンが投下目標から広島を外すことはありませんでした。 1945年7月25日、グローブスが起草した原爆投下指令書が発令されました。 最初の原爆を広島、小倉、新潟、長崎のうちのひとつに投下せよ。2発目以降は準備ができ次第投下せよ。 この原爆投下指令書をトルーマンが承認した事実を示す記録は見つかっていません。原爆は大統領の明確な決断がないまま投下されることになったのです。人類初の大量殺戮兵器の使用は、軍の主導で進められていきました。 政権と軍の思惑がかけ離れたまま投下された原爆。トルーマンが認識の誤りに気付いたのは、ワシントンに戻った直後でした。その時のことをがスティムソンの日記に克明に記されています。 8月8日の午前10時45分、私は大統領を訪ねた。そして広島の被害をとらえた写真を見せた。 (スティムソンの日記 8月8日) その時見せたとされる写真は空から撮影した原爆投下直後の広島です。直径5キロの市街地がことごとく破壊されていました。これを見せながら、広島の被害について説明したスティムソン。その時トルーマンが発した言葉も記されていました。 こんな破壊行為をした責任は大統領の私にある。 軍の狙いを見抜けなかった大統領。明確な決断を行わなかった自らの責任に気づいたのです。しかし、動き始めた軍の作戦は止まることなく暴走しました。 トルーマンが、軍部を抑えられなかったことは、まことに残念あることでありました。 8月10日、トルーマンは全閣僚を集め、これ以上の原爆投下を中止する決断を伝えました。トルーマンは、この場で「新たに10万人、特に子どもたちを殺すのは考えただけでも恐ろしい」と発言しました。3発目の準備をしていたグローブスですが、大統領の決断には従うしかありませんでした。 3発目の準備を中止させた。大統領の新たな命令がない限り投下はできなくなった。 (グローブス准将のインタビューより) 日本への原爆投下がようやく止まったのです。トルーマン大統領が初めて下した決断は、21万人以上の命を奪った末の遅すぎる決断でした。 国民に向けたラジオ演説で用意されていた原稿にはなかった文言が加えられていました。 戦争を早く終わらせ多くの米兵の命を救うため原爆投下を決断した 研究者はこの言葉が、市民の上に投下した責任を追及されないよう後付けで考えられたものだと指摘します。 トルーマンは軍の最高司令官として投下の責任を感じていました。例え非道な行為でも投下する理由があったというのは大統領にとって都合の良い理屈でした。このとき、命を救うために原爆を使ったという物語が生まれました。世論を操作するため演出されたのです。 (スティーブンス工科大学アレックス・ウェラースタイン准教授) 8月15日、日本が降伏すると世論調査で8割のアメリカ国民が原爆投下を支持しました。原爆投下は正しい決断だったという定説が生まれたのです。その後、原爆による被害の実態が伝わらないまま世界の核開発競争が続いていきました。 原爆投下から18年後、トルーマンは一度だけ被爆者と面会したことがあります。このとき、トルーマンは被爆者に対し「原爆を投下したのは日本人のためでもあった」と説明していました。最後まで目を合わさず、面会は3分程で打ち切られました。 兵器の効果を示すため市民の頭上に落とされた原子爆弾。計画の実現だけを考えた軍の危うさを指導者は見逃しました。事実は書き換えられ、原爆は正当化されていきました。 以上「NHKスペシャル」 決断なき原爆投下 〜米大統領 71年目の真実〜 より要約してみました ☆ 戦争を始めたのは、日本の軍部の思惑と面子そして権力の誇示。 戦争を拡大し止められなかったのも、日本の軍部の強硬姿勢。 そして、米軍はやはり面子をもって、原爆の計画をあくまで押し通したのです。 このように考えると、この戦争の悲劇は、人間の煩悩と、 激しい権力への欲望が引き起こしたものでありましょう。 人類は、人間のこころの奥のどうしようもなき闇を見つめ、本当の精神をとりもどさなければいけない。 まことにそのように思う今日の日であります。 長文にお付き合いいただき 感謝いたします。 |
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空海の言葉です
道を聞いて動かずんば、千里いづくんか見ん」(性霊集)
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本を読むことは大事
先師の話を聞くことも大事 ![]() もっともっと大事は自分の経験に合わせて、 考えること ![]() なんでこの星に生まれたのか 答の出ない思考の旅 大事 ![]() |
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