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「金閣寺」 三島由紀夫



金閣寺が放火されたのは1950年7月2日未明のことでありました

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「金閣寺」 三島由紀夫

   

   今日は、三島由紀夫を考えます。...
  誰に言わせても、この作品ついては、「難解」という言葉が返ってきます。
  まあ、そこが三島由紀夫の魅力なんです。
  この「金閣寺」。文章がすごい!のです。
  美しいのです。
  こんな文章があります。

「私はまた、その屋根の頂きに、永い歳月を風雨にさらされてきた金銅の鳳凰を思った。この神秘的な金いろの鳥は、時もつくらず、羽ばたきもせず、自分が鳥であることを忘れてしまっているにちがいなかった。しかしそれが飛ばないようにみえるのはまちがいだ。ほかの鳥が空間を飛ぶのに、この金の鳳凰はかがやく翼をあげて、永遠に、時間のなかを飛んでいるのだ。時間がその翼を打つ。翼を打って、後方へ流れてゆく。飛んでいるためには、鳳凰はただ不動の姿で、眼(まなこ)を怒らせ、翼を高くかかげ、尾羽根をひるがえし、いかめしい金いろの双の脚を、しっかと踏んばっていればよかったのだ。」

 「私は蜂の目になって見ようとした。菊は一点の瑕瑾もない黄色い端正な花弁をひろげていた。それは正に小さな金閣のように美しく、金閣のように完全だったが、決して金閣に変貌することなく、夏菊の花の一輪にとどまっていた。そうだ、それは確固たる菊、一個の花、なんら形而上的なものの暗示を含まぬ一つの形態にとどまっていた。それはこのように存在の節度を保つことにより、溢れんばかりの魅惑を放ち、蜜蜂の欲望にふさわしいものになっていた」

  賛否両論ありますが、私は三島由紀夫の文章を読むと、魂の底をのぞくような気分になります。
 彼の文章は、人をして、深い思考に引きずり込むものであろうと思います。


 三島氏は放火犯人のこの寺僧の精神の遍歴を描くことで自身の思想を披歴しているのです。 同時に読者に思考を要求するのです。  三島氏はのちに1970年、45歳で市ヶ谷の自衛隊駐屯地で切腹して果てたが、この僧の放火と三島氏の切腹にはどこか通じるところがあると私はおもいます。  「美」とは、形至上学的に言えばこういうことであると、演説しているかのようです。自衛隊での最後の演説も、彼の哲学でありましょう。


 言葉の持つ迫力に圧倒されます。
 三島氏の考える「美」とは、複雑な、善と悪、清と濁の糸が折り重なって出来上がっているものだと思います。いわば、我々が生きている現実世界そのものではないでしょうか。因縁という糸が綾なす折り重なった織物です。
 私たちの人生そのものではないでしょうか。

  数ページ読む毎に、読者は考え込んでしまいます。
 「考える」ことを期待して書いているのかも知れません。

  事件に題材を取ってはいますが、登場人物も出来事も、ほとんどがフィクションです。
 三島由紀夫「金閣寺」を象徴する部分は、「南泉斬猫」の部分です。「金閣寺の燃やし方」145ページから引用します。

 「金閣寺」における老師は、確かにわけのわからない存在として、描かれています。終戦の日の夜に、溝口(主人公)達寺の者は集められて、老師の講話を聞いています。老師は「南泉斬猫」(なんせんざんみょう)という公案の話をします。
   南泉という唐の時代の名僧の話です。一匹の猫を南泉の弟子達が取り合ったとき、南泉は猫をつかんで、
   「今すぐ、何かを言うことができれば、猫と救おう。しかし言えなければ猫を斬る。」
   というのです。一同が無言でいると、南泉は猫を切り捨てたというのです。
   そこへやってきたのが、高弟の趙州。南泉が事の次第を述べると、趙州ははいていた履物を頭の上にのせて出て行きました。それを見て、南泉は「お前がいてくれたら、猫を切らずにすんだものを」 と嘆息するのです。
   禅問答というと、「わけのわからないもの」の代表ですが、この公案はその中でも、難解です。
   溝口達からすれば、「なぜ今この公案を?」という疑問が加わります。
   禅問答には、スピード性というか、瞬発力のようなものが必要なのだそうです。
   禅問答の解釈に、「正解」は存在しないんだそうです。懸命に考えることが重要。ですから、「戦争に負けた日になぜ猫を切る話なんか・・」と弟子に思わせたことが、老師にとって、望んだ効果だったのかもしれません。
   では、三島自身は、なぜこの公案を「金閣寺」のなかで、老師に語らせたのでしょう。
   
   ☆    ☆    ☆
   
   「金閣寺」は、読む小説ではなく、考える小説ですね。
   そこがどうやら、魅力なんでしょうか。
   
   

水上勉「京都図絵」より
京の人々 京の風光

  私が、故郷を捨てて京都へ行ったのは、9歳半の時で、そしてその京都を捨てて東京へ出たのは21歳の時だから、ざっと12年、しかもこの12年は人間にとって精神形成期でもあり、大事な時期だったといえるから、京都の人々や、京都の風光が私に与えたものは大きく、大きいというより、根強いものになってしまっていることを気がついている。
 若狭の寒村に球根をもらって、9歳で京都の禅寺に移植されたが、そこで、仏教の肥やしをもらって育ったものの、やがて、その植木鉢を飛び出して、吹きっさらしの京都を転々、枯れ死にしそうになったのが、ようようまた芽吹いて、、どうや、一人歩きできるようになって、東京という畑へきて、いま、61歳になっているのである。
 私に古皮をくれた人々が、じつは京都に住んでいるけど、私と同じように、京都生まれではなく、よそから京都に来て、京に根付いたいる人々だったことに、また感慨をあらたにしている。...
 9歳のときに面倒を見てもらった、瑞春院の山盛松庵和尚は愛知県知多の出身であった。等持院の二階堂竺源老師は越前出身だった。私の周囲には、根っからの京都人は少なかった気がする。
 不思議なことは、よそから来た男性でも、女性でも、京に暮らしているうちに妙に京人らしくなっていることである。京の土の力というものを感じるのである。
 十数年前に、祇園で火事があり、年若い芸妓さんが焼死して、火元だった家の女将が疎水へとびこみ自殺をはかった新聞記事が出た。古い茶屋と、芸妓という組み合わせはいかにも、京女達のかぶったかなしい火の粉とうつったが、記事が、死亡した芸妓の本名と本籍を発表したとき、わたしはぶっくりした。妓は二人とも、九州出身で、つまり青田刈りの子らで、中卒で連れてこられて、踊りや華をならい、茶屋のしつけで成人していることがわかった。
 花街はとりわけ、そこで働く下男や、板前や、丁稚をさえも、その花街の雰囲気のなかに包んで、女性たちもまたそこでなければならぬ、雰囲気と装いを身に着けて生き生きしている。いってみれば、妙な植木鉢だ。
 平安時代から、ここに都があって、御所を中心に栄えた商人、あるいは、御所に生きた公家達がまた、この御所、公家とまじわって興隆させた宗教、つまり寺院、神社、その寺院、神社、その寺院、神社の暦とともに生きる職人達。京の土はメロンの肌のような小じわの毛根よって結ばれていて、この雅で、複雑で、闇のように暗くて、またきらきらと華やぐ古都を培ってきたのであろう。
 私は最近「金閣炎上」を書いて、昭和25年の不幸な事件の裏側にひそむ人間と人間のきしみについて少し考察してみた。金閣は、足利義満が建立したもので、もとは西園寺家の別荘だったものを、義満が荘としたのが、彼の死とともに寺となって、鹿苑寺と呼ばれた。
 舎利殿金閣は仏殿ではなく、義満が酒宴をもよおした場所である。その古い名残りを持つ金閣が、ざっと600年後の一人の青年僧によって焼かれたのだ。
 京都でなければ起きなかった事件である。京都の土壌が、培い育てた事件である。つまり義満の代からつながって、息づいてきた上層階級へ奉公人が投げつけた火であったとみてよい。経師屋の茂兵衛が、以春の店に火をつけたといえばたとえになるかもしれぬが、それともまたちがって一介の職人ではなく、それが当時は宮廷仏教でもあった禅宗派であり、その伝統が、そういう小僧を養育していたという時代背景が、私には興味があったのである。
☆   ☆   ☆
《私見》
 歴史ある街には、重なり合い、織物のように織られた因縁がありますね。
 善縁もあり、悪縁もあるわけで、 その縁の模様があるから、そこに暮らす人間も、また、その模様のように美しいのでしょうか。
 美しいというか、魅力的ですね。
 それは、人間の醍醐味でもありますね。

  「京都図絵」は今回で終わりです。

  明日は、「金閣放火事件」を考えます。 

 画像は清水寺です

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保津峡曲がり淵   水上勉「京都図絵」より
                      (金閣炎上)



若狭、丹波の人達が京都に入るには、この渓谷に沿って走る山陰線を利用する。
この狭間は、波しぶきをあげた急流が、ところどころにとび出た岩をぬらし、なだれ落ちるような岩肌の裾を洗って走る。
この保津川渓谷が、私に思いを深めさせた場所としたのは、同じ若狭出身の林養賢君が、金閣に放火し、その時彼を訪ねて西陣署に来た、母堂の志満子さんが、養賢君から面会を拒否されて、花園駅から列車にのってまもなくこの渓谷に投身した新聞記事を読んでからだった。
林養賢君が金閣に放火したのは、昭和25年7月2日の深夜である。...
養賢君は成生の西徳寺という寺の長男として生まれたが、父が早逝し、叔父の家に寄寓し、中学3年のときに、金閣寺の徒弟となっている。大谷大学支那科3学年の時に、意図不明の大犯罪を起こすのである。
新聞は、「不逞の破戒僧」とか、「国賊」とまでののしった。
母にすれば、やるせなき思いだったろう。
林養賢君は放火後、左大文字山にかくれていた。炎上する金閣を見て、金閣とともに死ぬつもりであったが、死に切れず、呻いているところを発見された。
林養賢君は幼時からひどい吃音症で、孤独陰険な性格になっていた。母堂は気性激しく、よく村人と口争いがあった。この母に大きな反発があり、複雑な苦悩ゆえに、面会を拒否したのであろう。
私が、母親の死について、胸を痛めたのは、成生の西徳寺を追い出され、尾藤にもどっていた事情が哀れだからだ。禅宗寺院は、どんな田舎の末寺でも住職に死なれると、細君は寺を出なければならない。子供が生まれて、その子が世襲できる年齢に達し、僧堂修行も終えて、和尚の資格も得ている場合は、母親は出なくてすむが、そういう場合はめずらしくて、殆ど細君は寺を出ている。志満子さんの場合も例外ではない。成生は20戸に満たぬ小村である。寺の貧困は想像できよう。母は、養賢君の出世にかけていたのだ。
彼女は西陣署の署員に話している。
「息子の犯した罪は、母親のわたしの責任である気がします。死ぬつもりで焼いたのなら、どうして金閣と一緒に死んでくれなかったのか・・  残念でなりません。自分もつらくて生きている心地がしません。でも、母として、一度だけでも会って、子供の本心をききたいのです」
私は、瑞春院を脱走した秋の一日、錦秋の落合から亀岡にいたる崖の道を歩いていて眺めた、曲がり淵あたりの青黒い渦をなした光景を思い出し、その淵ちかくにあがった林志満子の、はかり難い、ふかい悲しみを思って落涙した。
保津峡谷は、若狭、丹波の奉公人とっては、涙の谷であった。

養賢君にも、志満子さんにも、それからわたしにも。

☆   ☆

《私見》
人は、誰もが、越えるべき「涙の谷」に遭遇します。
この谷を、越えられずに、本当の人間を知らないままで、次のたびに出る人もいます。
この谷こそ、実は、無限の命の世界に至る谷ではないでしょうか。  この谷は、人格形成のためには、重要なる谷だと思います。  林養賢君にとっては、余りに深すぎる谷だったのでしょうか。
私たちの受ける「涙の谷」は、越えられないものはないと思います。そのような試練を天が与えるわけがないと思うのです。

※ 画像は藤田広志さんの FBからです



衣笠山等持院
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 水上勉「京都図絵」より  等持院

 万年山等持院は、衣笠山麓にある、臨済宗天竜寺派別格地京都十刹の一つ、足利尊氏の建立した寺で、尊氏の菩提寺である。足利家は国賊足利家の末裔といわれ、目の敵にされてきた。私が、入ったのは、十四歳。荒々しい小僧が7人いた。
 寺はずいぶん荒廃していたが、現今より風格はあった。山門から中門にいたるアプローチが美しかった。
 等持院ほどここ20年間のうちに変わり果てた寺は珍しい。同じ衣笠山をめぐっている金閣寺、龍安寺等は、昔通りの敷地を守って、名残を懸命にとどめているのに、この寺だけは、周囲が無残といえるほど、大学、人家に迫られ、風格を失ったのである。足利尊氏の菩提寺ということで、人が省みないこともあり、屋敷の切り売りをやった結果である。
 尊氏の墓を守ること自体が国賊行為といわれ、拝観客もなく、檀家と言っても、当時同志社大学の理事をしておられた足利竹千代という、尊氏の末裔の人が総代だった。...
 笠源和尚の財源は、広大な空き地を東亜キネマに貸した、その家賃だった。東亜キネマは無声映画時代の花形会社であった。衣笠貞之助監督のペンネームの由来はここにある。
 撮影隊は、境内だけでなく、方丈、庫裏、庭園なども使った。
 よく、私たちが撮影を見物していると、
「小僧さん、ちょっと、これもってンか」
 といって、銀紙を私にももたせた。
 今になって思うと、この映画とのかかわりを断ち切れずにいた等持院にいたればこそ、私は今日のような芝居や芸能への関心の根が培われたのではないかとお思っている。
 私は、等持院を脱出すると、八条坊城の六孫裏へ急いだのだ。そこには、母の兄が履物屋をしていたからだった。
  ☆   ☆
  《私見》
  等持院で、最初に眼にはいるのが、大きな達磨図の衝立です。この衝立は、元天龍寺派管長である関牧翁が描いたものです。力強い線で描かれていて、達磨の視線は見る者を見据えているのではなく、やや上方を睨んでいます。
 「しっかり、自己をみつめよ」「命をみつめよ」
  そういわれているような気がいたします。
  昨年、上野の国立博物館で、展示されました。
  この達磨の迫力に、多くの人が、目を見張り、感動していました。 私も、その一人です。
  「花の寺」でもあります。 侘び助椿、あじさい、花菖蒲など、見事だそうです。 画像はHPからです。


相国寺塔頭瑞春院  1 水上勉「京都図絵」より
 
 ここは私が出家した寺である。若狭から十歳の時に入寺して、当時の住職山盛松庵和尚の弟子になり、ここで得度式をあげてもらい、名も集英となった。室町小学校5年生に入学、紫野中学に入学、14歳までいた。私にとって、文学的にもここは根っこのようなものをもらった寺というしかない。
 名門ともいえる瑞春院へ小僧で入った私は、辛抱して松庵師につかえておれば、まがりなりにも僧侶となれたはずだが、14歳でここを脱出して、帰らなかった。落第坊主である。なず脱走したか。これといった理屈があるわけではない。和尚の自愛がわからず、禅修行の根性がなかったのである。
 松庵師には、多津子さんという細君があり、一人娘がいて良子さんといった。私は、その赤ちゃんの守や洗濯に追われる毎日で、少なからず不満があり、中学へ行くと、他寺の小僧の境遇と比較する才覚も出て、妻子を溺愛するあまりに、小僧の私をこき使う和尚への、不満が高じたものと見てよい。
 烏丸上立売を上った右側に「烏丸湯」という風呂屋があった。年中私たちはここへ通った。多津子さんがまず一人で入る。時間を見はからって、私が、良子さんを背負っていく。女風呂で多津子さんに渡す。おんなの脱ぎ場におむつと肌着を広げて待つ。十、一二歳の私は、この女風呂に待機している時間がイヤだった。
 もうひとつオムツ洗いには困った。冬の井戸水は凍っていて、雑巾一つ絞るにも、痛かった。11歳の子どもにオムツをあらわせる和尚も、奥さんもひどいではないか。夫妻を恨んだ。
 ある日、井戸の水が冷たくて泣いていると、和尚は早く起きないからだと説諭した。ある朝和尚は6時にやってきて、私の枕を足で蹴り、私をふとんから引きづりだし、井戸端へ連れて行った。
「早起きすれば、井戸の水はぬくい。若狭のおっかさんが来て、沸かしてくれるのだ」と和尚は言った。
 つまり、早起きすると、井戸の水はぬくいのである。
 
 ☆  ☆
 
 ここでの、体験が、水上勉の名作になって、昇華していきますね。
 続きます。

 画像は建仁寺です

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