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鐘の鳴る丘
NHK朝ドラ「あおぞら」 先週は亜矢美と咲太郎の名場面でした。 山口智子ははまり役ですね。
・・・緑の丘の赤い屋根とんがり帽子の時計台・・・ 終戦後のある日、亜矢美が窓を開けて夕涼みをしていると、街頭からは当時流行したラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の劇中曲「とんがり帽子」が流れてくる。復員兵と戦災孤児の交流を描いたドラマの曲に、自分の境遇を重ね合わせた少年時代の咲太郎は思わず涙を流してしまう。すると亜矢美は「こっちおいで」と声をかけると、咲太郎を抱きしめて「お前だってさ、親を亡くした1人の子どもなんだからさ…人に甘えて、泣いたっていいんだよ」と優しく語って聞かせる。
「鐘の鳴る丘」とは・・
ラジオドラマに感動した、ラバウルからの復員兵の品川博さんは、菊田一夫氏を訪ね「是非、お手伝いさせて下さい」と願うが、「これはドラマで、実話ではない」と言われ、自分で故郷の群馬県前橋市に「鐘の鳴る丘、子供の家」を建てた。
品川博は、子供たちにより良い環境を与えるため、当時話題のNHKラジオドラマ「鐘の鳴る丘」のような施設の設立を目指して1947年(昭和22年)に独立した。品川は5人の孤児と郷里の群馬県で生活を始めるが、ほどなく運営に窮し、「鐘の鳴る丘」の主人公の加賀美修平に相談すべくNHKを訪ねる。品川は加賀美が架空の人物と知って愕然とするが、そこにたまたま作者の菊田一夫が居合わせたことにより菊田の助力を受けられることになった。
品川の活動が菊田らによって紹介されることにより、ようやく資金も集まり、1948年(昭和23年)9月、晴れて養護施設として認可され、群馬県前橋市に「少年の家」がスタートした。はじめは8畳2間だったという。 戦後間も無く、路頭に迷う戦災孤児は12万人にのぼる。肉親を失い、行く場所のなくなった彼らは「浮浪児」と呼ばれ、駅の地下道、ガード下を塒に、靴磨き等をし、時にはカッパライ等をして、その日一日を生き延びる、、、、。
巷に溢れる孤児達を収容する施設は少なく、、そんな頃、戦後処理をするGHQは、この惨状を重く見て、祖国米国で青少年問題を対応して居た、ブラナガン神父を日本へ呼び寄せた。ブラナガン神父と日本の現状を相談したGHQは、NHKに対し「戦災孤児の問題をテーマにしたドラマの制作を依頼した。劇作家の菊田一夫さんは、生い立ちを孤児と同様な体験をして居り、これに賛同した、、、。
毎日、ガード下等を訪れて孤児等に生い立ちや体験を聞き、ドラマの構想を練り「鐘の鳴る丘」を執筆した。そして自らの詞に加え、作曲を古関裕而さんに依頼、「とんがり帽子」の主題歌が完成。当初、一話15分で、土、日の放送で在ったが大きな反響を呼び、毎週月〜金の放送となった。テレビは基より何の娯楽のない時代、子供達(私も)は夕方になるとラジオの前に集った。半年間の予定が数年間も続く事となった。翌年(昭和23年)松竹で映画化(佐田啓二主演)され、大ヒットし、3部作となる。4部(完結編)の予告編を出しながら未完となった。
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亜矢美は、誰にも何も告げずに、姿を消してしまったのです。「どうして……俺は母ちゃんのために何もしてやっちゃいけないんですか。」「あんたの結婚を喜んでるからだろ、亜矢美ちゃんが。」亜矢美は、光子に嫉妬する自分を咲太郎に見せたくなかったのだと力スミは言います。「ずっとそういう気持ちを押し殺してさ……あんたの母親を演じてきたんじゃないか」咲太郎はことばもなく、力が抜けたようにカウンターのいすに座り込みました。 歌もドラマもせつないのです・・ |
戦争と平和
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コメント(2)
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戦争と文明 −−815に想う フランスの哲学者ロジェカイヨワは言う。 「戦争は文明が発展すればするほど激しくなる」 社会学者チャールズ・ティリーは言う 「戦争が国家を作り、国家が戦争を作った」 そうか・・ と考える。 確かに戦争が大きな規模に飛躍的に発展するのは産業革命以降である。 第一次大戦がその現れである。 第二次大戦では、武器はますます大量破壊兵器となり、ついに原爆が使われてしまった。 では、この戦争を終わらせるためにどうすればよいのだろう。 「文明」を戻せばよいのだ。 そんなことはできるわけはない。でも、どうしてもやらねばならない。 どこまでもどすか・・ 産業革命前までもどしたら・・・ ここからやり直せばよいのだ。 すべての大量破壊兵器を破棄する。 そして、あらたな産業をおこす。これまで人類が作り上げ、浄化させ、洗練させてきたのみを価値あるものして、全世界がひとつの理想を共有する。 これを「見果てぬ夢」と呼んで消し去るわけにはいかない。 ☆ 夢は稔り難く (ゆめはみのりがたく) 敵は数多なりとも (てきはあまたなりとも) 胸に悲しみを秘めて (むねにかなしみをひめて) 我は勇みて行かん (われはいさみてゆかん) 道は極め難く (みちはきわめがたく) 腕は疲れ果つとも (うではつかれはつとも) 遠き星をめざして (とおきほしをめざして) 我は歩み続けん (われはあゆみつづけん) これこそは我が宿命 (これこそはわがさだめ) 汚れ果てし この世から(けがれはてし このよから) 正しきを救うために (ただしきをすくうために) 如何に望み薄く 遥かなりとも (いかにのぞみうすくはるかなりとも) やがて いつの日か光満ちて (やがていつのひかひかりみちて) 永遠の眠りに就く時来らん (とわのねむりにつくとききたらん) たとえ傷つくとも (たとえきずつくとも) 力ふり絞りて (ちからふりしぼりて) 我は歩み続けん (われはあゆみつづけん) あの星の許へ (あのほしのもとへ) (福井峻訳「見果てぬ夢」<騎士遍歴の唄>) (1985刊 「ラ・マンチャの男」パンフより) ☆ 画像は靖国神社です 今年は日をあらためて参拝させていただきます 戦死者を神として崇拝するのは日本精神の素晴らしさであると思います |
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今日は長崎が原子爆弾で爆撃された日です
「長崎の鐘」という名歌があります そのお話です 浦上天主堂には、鐘が2つあったそうです。
原爆の被害にあった浦上天主堂ですが、奇跡的に、ひとつの鐘がほとんど完全な状態で瓦礫の下から見つかります。
引用:世界名鐘物語「日本」 「もう一度、この鐘を鳴らそう」
原爆投下の年のクリスマスイブに、三本の杉丸太を組み立て、その鐘を吊るして鳴らしました。
荒野と化した浦上の丘に鳴り響いた鐘の音。
原爆の被害を受けながらも、再び力強くその鐘は鳴ったのです。
教会ができてからずっと聞こえていた鐘の音は、戦時中は鳴らされることはありませんでした。
何年ぶりかに聞くことができた鐘の音に、信徒をはじめ多くの人が力づけられ、励まされたそうです。
この時、永井隆博士がこのような言葉を残しました。
新しき 朝の光さしそむる 荒野に響け 長崎の鐘 それ以降、この鐘は「長崎の鐘」と呼ばれるようになりました。
「長崎の鐘」の歌詞の最後。
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