さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

私のこと

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タイトルにあるのは、ラジオを聞いていた時に流れてきた言葉です。
 この言葉にビビ〜ンときました。

 なぜかって、自分は人生の岐路ではいつも‘安全’を選ばず、先の見えない道を選んで来
た、という実感があったからです。
 でも、‘安全’の反対に位置する言葉に‘成長’があるとは思いもよらなかったので、驚いた
と同時に、自分のこれまでの人生を肯定されたようで、とても感動したのでした。
 自分にとっての珠玉の言葉に出会えた!と感じます。

 自分にとっての人生の岐路とは・・・

【両親が離婚する時に(19歳の予備校生時代)、母親について家を出て行ったこと
             (約半年間母親と安アパート暮らし、後、道外の大学へ)】

 当時、不安よりも、新しい人生、自分自身で切り拓く人生が始まるようでワクワクして
いました。家を飛び出すことができ、親の元を離れることができるという喜びにー。

【大学を辞めて東京に出て行ったこと】

 確か半年くらい、今で言う引きこもり状態で悩んだあげく、大学を卒業して普通に就職
することが自分の人生だとイメージできず、草の根の視点で生きて行こうと踏ん切りをつ
け、友人の住む高円寺の四畳半の安アパートに転がりこみました。自動車期間工の職に就
き、約7ヶ月間働いてお金を貯めて、ピースボートに乗りました(1987年)。

○ピースボートでは洋上で難民船に遭遇したり、ポルポトの残虐の跡を目の当たりにした
り、人生観を左右する出来事に遭ったと同時に、後の“あじあくらぶ”を共に立ち上げる仲
間と出会いました。

○また当時東京はバブル経済まっただ中で、外資系証券会社でアルバイトを続けたおかげ
で、自分とは一番遠いと思っていた世界をかいま見ることにもなりました。日本人、外国
人、いろんな人間がいて、みな「対等な」意識の会社の雰囲気は、アルバイトにも居心地
のいい場所でした。

 ちなみに私の上司は、若い頃海外放浪した末、ニューヨークでタクシー運転手をしなが
ら大学を出たという変わり種だったこともあり、私がアジア諸国に旅行に行きたいのでや
めますと言ったら、年に一度は1〜2週間の休暇をくれました。それが7年間も同じ場所
で働き続けられた大きな要因でしょう。

 ただ、業績が上がらないとすぐに首をすげ替えられるという外資系会社では、自分の意
思で「働きすぎる」人が多く、1年に一人くらいの割り合いで、自殺、あるいは過労による
病気で半身不随になる人が出てきていました・・・。

○東京では有機無農薬の八百屋としては草分けのお店の近くに住み、エコロジカルな生活
とは何だろうという思いを胸に、自然食レストランを訪ね歩いたり援農で山形を訪れたり
すると同時に、バブルの勢いに乗って来日していたさまざまな世界の音楽を聴きにライブ
へと足を運んでいました。

○そのような暮らしを続ける中で、現在私が生業にしているらくだメソッドの開発者の平
井雷太氏と出会い、生涯の趣味とするジンベ&ダンスの第一人者であるWALK TALKのお
二人に出会いました。「らくだ」と「ジンベ」と「あじあくらぶ」は、私が東京時代に出
会った、いわば“宝物”ですー。

【北海道で独り暮らす父親がボケたのでUターン共に暮らすことを決めたこと】

 私は二人兄弟ですが、弟は既に結婚して家族がいて、また仕事が多忙を極めていたこと
もあり、私が帰ってケアの態勢を整えなければどうしようもなくなってしまっていたので、
なくなく東京を去ったのですが、介護生活は今振り返ると私の人生にとってとても貴重な
体験となりました。 

 それに、このようなきっかけがなければ、札幌へ帰って来ることもなかったでしょうか
ら、「オヤジがボケてくれたおかげで」Uターンでき、そういった意味でも感謝していま
す・・・。

【阪神淡路大震災の一週間後、現地を訪れることができたこと】

 一年後にはUターンすると決めてはいたものの、まだ心がぐらついていた1995年初
頭、それまで長く続けていた仕事を早めに辞めて、神戸に住んでいた知人のコーディネー
トにより、現地を訪れての援助活動に参加することができました。
 それはやがて自分の運命を受け入れることにつながり、その年の末のUターンへの踏ん
切りをつけることができました。

【父親との介護生活が終わった後、すぐに就職する道を選ばなかったこと】

 縁あって参加した民族楽器の演奏会で、たまたま披露した私のジンベの演奏を聞き、当
時珍しかったこのタイコを叩きたいという声が多く出て来たので、請われるままに場を設
けていきました。

 2000年前後の一番多い時で、札幌で三カ所、他に小樽、帯広、浦河、旭川、滝川などで
教室を開き、月に2回は車で回っていました。
 これにより、北海道でほとんど途切れていた人とのつながりが、どんどんとできていき
ました。

【らくだの教室を開くことを決めたこと】

 当時小学校1年生になる女の子の母親である現在の連れ合いと一緒になるにあたって、
この子にらくだをやらせたいと思ったことと、北海道でまだ誰もやっていなかったらくだ
の教室をやってみたらどう?という平井さんの声に押されて、生徒が自分の子ども一人と
いうところから始めていきました。それが2002年。

●人が成長するためには、危険な道を選ばないといけないということなのか、そしてそれ
を選んだ人生は行き詰まらない、つまり、充実した人生となるということなのか・・・。
 
 フト思いましたが、子どもを持って育てるということ自体、先の見えないこと、初めて
の体験の連続ですから、それは親の「成長」につながるんでしょうね。

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