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教育人間塾も7回目となり、福澤の教育に対する姿勢や考え方をある程度学んだ上で、今回から『学問のすゝめ』の最初に戻り、初編と二編を進めていかれました。
今回は特に、村山先生の講義についていくのにせいいっぱいで、自分なりの報告を書くのも、どうしたものやらという感じですが、とにかく自分が感じたことだけでも記しておきたいと思います。
《天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずして各々安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり》
●初編の冒頭の部分です。ここは福澤が、「人間の理想・理念を語っている」部分であるということです。
《諺にいわく、天は富貴を人に与えずしてこれをその人の働きに与うるものなりと。されば前にも言える通り、人は生まれながらにして貴賤貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり》
●後半部分は、福澤的な誇張した表現ですね。
《学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず》
《されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条は甚だ多し》
《学問をするには分限を知ること肝要なり。人の天然生まれ付きは、繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざれば我儘放蕩に陥ること多し。即ちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり。自由と我儘との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり》
●福澤の「実学」志向がうかがえます。単に字を知っていてもダメで、実際の生活や仕事に役立てられなければいけない、とのことです。
またそれとともに、「分限を知ること」、「自由と我儘との界(さかい)」については、「他人の妨げ」ということですから、なるほどです。
《理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落さざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり》
●ここは、福澤が「欧米崇拝」ではないことを端的に表している文章だということです。
《凡そ世の中に無知文盲の民ほど憐れむべくまた悪むべきものはあらず。智恵なきの極は恥を知らざるに至り、己が無智をもって貧究に陥り飢寒に迫るときは、己が身を罪せずして妄(みだり)に傍の富める人を怨み、甚だしきは徒党を結び強訴一気などとて乱妨に及ぶことあり》
●福澤は、人民の抵抗権については否定しているのだそうです。静かに非を訴え(非暴力)、それでもダメなら「自己犠牲」を唱えているとのことです。
《かかる愚民を支配するには、とても道理をもった諭すべき方便なければ、ただ威をもって畏すのみ。西洋の諺に愚民の上に苛(から)き政府ありとはこの事なり》
●だからこそ、そのために「学ぶ」ということです。
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