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《すべての言葉はそれを聴く人、読む人がいる。
私たちが発語するのは、言葉が受信する人々に受け容れられ、聴き入れられ、できることなら、同意されることを望んでいるからである。だとすれば、そのとき、発信者には受信者に対する「敬意」がなくてはすまされぬのではないのか。
発語は本質的に懇請である。私はそう思っている。聞き届けられることを望まないで語られる言葉というものは存在しない。そして、もし、その言葉がチョムスキーの言うように「すべての人がそれを耐え難いものとみなすような見解」であるならば、それだけ一層、それを提示するときに、受信者に対する敬意がなくてはすまされないと私は思う。
言論の自由が問題になるときには、まずその発言者に受信者の知性や倫理性に対する敬意が十分に含まれているかどうかが問われなければならない。というのは、受信者に対する敬意がなければ言論の自由にはもう存在する意味がないからである。》
【「受信者への敬意」あるいは「ディセンシー」】より
《言論の自由とは「場の審判力」に対する信認のことである。言論において、私たちが共有できるのは、それぞれの真理ではない(それは「それぞれの真理」であるという時点ですでに共有されていない)。共有しうるのは、私たち「それぞれの真理」の理非が判定される「共同的な場」が存在するということについての合意だけである。
そのような「場」は「ある/ない」という事実認知的な言葉遣いで語られるものではない。「あらしめる/あらしめない」という主体の決意として、遂行的な命題として語られるものである。それは私たちが今ここで、身銭を切って、額に汗して、創りださなければならないものである。
だからこそ、「日本には言論の自由がない」と書いた社会学者の言葉に私はつよい違和感を覚えたのである。
「言論の自由」とは「場の審判力に対する信認」のことであり、「私は私が今発している当の言葉の成否真偽を査定する場の審判力を信じる」という遂行的な誓言を要求する。
「言論の自由」はどこかにかたちある制度として存在しているわけではないし、誰かに向かって「作って、ここまで持って来い」と命じられるものでもない。そうではなくて、今ここで、私たちが言葉を発するときの、「場に対する敬意」を通じて成就するものなのである。
正しさを担保するのは正しさではない(それは「私は正しい。なぜなら私は正しいからだ」という原理主義的な同語反復にしか帰着しない)。正しさを担保するのは成否の判定を他者に付託できるという人間的事実である。
この付託によってのみ、真偽成否の判定を下しうるような知性と倫理性に「生き延びるチャンスを与える」ことができる。信認だけが、人間を信認に耐えるものにする。
そのことを私は「受信者への敬意」、「受信者への予祝」、あるいは端的にディセンシー(decency=礼儀正しさ)と呼んでいる。それは「呪い」の対極にある。》
●一読するだけでは難しい内容です(私にとって?)。でも、「受信者への敬意」という言葉は、私にもピンとくるものがあります。
私は文章を書く際に、「これを目にするすべての人に配慮」しながら書いているつもりです。「配慮」は「配慮」ですが、私の文章を読んで傷つくような人も中にはいることでしょう。そんな場合は真摯に対応するだけです。
文章というものは、読みたい人が勝手に解釈して読むものだとも思っていますから、誤解はつきものです。「それでも自分は書きたいのか?」を常に自分に問い続けなければいけないと思っています。
《「私は私が今発している当の言葉の成否真偽を査定する場の審判力を信じる」》ということにも共感します。自分で自分を判断するのではなく、「場の力を信ずる」こと、それは私も何事においても第一義的に考えているからです。
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