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フィリピン留学で学んだこととらくだの講座で学んだこと
大河原さんは鹿児島で、らくだ教材を開発した平井雷太さんを講師に迎えた講座に参加したのですが、そこでは驚くことがいくつもありました。まず、講座自体が以前大河原さんがフィリピンの大学に留学していた時に体験したり学んだりしたやり方に、実によく似ていたからです。
大河原さんはフィリピンの大学に留学し、アメリカ出身のテーラー教授の下で「教育」に関して学びましたが、一番最初に受けた講義で教授が行ったことは、「2人がペアになってインタビューし合うこと」でした。まさに平井さんの講座で行った「インタビューゲーム」と同じです。お互いがインタビュアーになって聞いたことを記録するやり方まで共通していました。それから、ある教育雑誌を読んでひらめいたことをまとめ、それをみんなでシェアする(分かち合う)授業もしました。
また、その後の授業の中で、「何でもいいから各自の創造性を活かしたことをやって発表すること」、「自分が‘この人はスゴイな’と感じた人にインタビューしてくること」「街に出てどこか一カ所にじーっと座って、気になる人を見て30分間記録すること」「地域の学校に行って話を聞いてくること」などもしました。
テーラー教授の下で大河原さんは、「オープン・マインド」であることの大切さと、「人間は求めているものに出会っていく=求めることこそが大事」ということを学びました。
“宗教的なこと”と日本の教育の限界
講座に参加した大河原さんが平井さんに初めて会った時に感じたことがあります。それは、とても“宗教的”な方だということでした。三育の教育の背景には、キリスト教の教えがあります。「絶対的な存在」「愛」が思想にあります。科学でも数学でも何においても、真理を追求していったら、そのようなものにつながっていくという考えです。考え抜いた末に「発見」があり、真理につながります。真理を追求すればするほど、「神」に近づいていきます。
大河原さんに、「平井さんの印象が“宗教的な方”だと感じたのは、具体的にどのようなことなのですか?」と尋ねたところ、以下のお返事をいただきました。
「前置きとして、『宗教』という言葉、更に『宗教的』という意味合いについて。わたしは、自分が宗教というものがわたしにとって欠かせないものと考えています。更に、教育に是非必要なものとして宗教をとらえています。
一言で言えば、平井さんを見て“真理の探求者”という感じがしたんですね。 そして、その求めているものは、一人の人間の考えを超えたいわゆる霊的なものであると感じたからです」
宗教というものには絶対的な存在、信じるべきもの、そして愛が背景にあります。信じるべき拠り所があるからこそ、自分を信じ、他人を信じ、子どもを信じるところからのコミュニケーションが始まります。そして、他との違いを認めて受け入れる土壌が築かれます。日本の公教育では宗教を教えることが禁止されています。そのことが良いとか悪いということではなく、大河原さんはそこに日本の教育の“限界”を感じています。
平井さんの講座には、「ひらめき」と「シェア(分かち合い)」が基本に据えられていると私は感じています。らくだ教育の「セルフラーニングを実現するための3つのツール」である「らくだ教材」「インタビューゲーム」「考現学」の根底にあるものは、大河原さんにとってテーラー教授の教えとまさに共通していたのではないでしょうか。
プロセスを大切にすることー“ポートフォリオ”
競争ではなくその子のペースで学ぶことができる「セルフラーニング」は、「本当にわかる」ためのシステムです。それは、ひとり一人が価値のある存在、愛されている存在だという思想を具現化したものです。子どもにとっては、どこまで到達したかを測る「評価」ではなく、「どう変わっていったかを記録すること」こそが大切なのです。子どもは、何かの作品が仕上がった時、その仕上がったもので満足してしまっているのではなく、作っていく過程である途中の部分をもっと大事にしているのではないでしょうか。
三育小学校が‘ポートフォリオ’を導入しているのは、そのことに理由があります。ポートフォリオは、学びのプロセスこそ大切だと考え、ノートや絵等子どもたちが授業で書いたり作ったりしたすべてをファイルにまとめて‘作品’とすることです。時を重ねてそれが蓄積されていくと、分厚い記録になります。それぞれの子どもの、まさに「足跡」です。三育小で通知票の名称を「励みの記録」から「あしあと」へ変えていったのは、そのような理由があるのです。
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