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自由に通じる学問とは
《「そもそも今ある大学の起源は、11世紀のイタリア・ボローニャで学問を目指して集まった人たちの自治組織(ギルド)にあるんです。それは、学びたいことを自ら探してきた教授に聞くことから始まった」
大学のもとあった姿とは、初めから設定されたことを学ぶのではなく、生徒の生活や仕事から生まれた問いかけに応える形だったという。
「学習と学問の違いって、あるじゃないですか。日本の場合、決められた知識やスキルを習得する学習が重視されていて、物知りな人が賢いとされることが多い。でも今はウィキペディアだってあるし、データベースが頭の中にあるか外にあるかの違いにすぎないでしょう。
それより情報をどう検索していくか、どうクエスチョンするか、何が問題なのか、という問いかけが大事だよね。新渡戸稲造の文章のなかに、イギリスの哲学者ベーコンの考えた学問の目的が引用されていて、それは『愉快』と『装飾』と『能力』なんです。
まず愉快は、面白くなかったら学問じゃないと。装飾はデコレーションであり、デザインであり、スタイルであり、知ることで自分を飾るということ。そして学問をすることで、能力が向上していく喜びがあるというんです」
学問とは、問いを発することから出発し、愉快に自分をデザインしながら向上していくこと。そしてその先に自由がある。
「明治時代に、リバティという英語を自由という言葉で日本語にしたのは流石だと思う。自ずと自己の精神に由るということで、福沢諭吉が決めたらしい。でも由って立つ、夢やビジョンがないと、困ってしまう。なぜだろうと思うことに対して、自由に積極的に切り込んでいく、学ぶ意思や健全な興味がないと袋小路に追い込まれてしまう。自由に考える視点から自分の興味や意思が現実の行動として試されたとき、自由が成立するんじゃないかな」》
●「情報をどう検索していくか、どうクエスチョンするか、何が問題なのか、という問いかけが大事」ということは、先日紹介した野口悠紀夫さん(『超「超」整理法』)の考えと共通していると思います。
社会人として第一線に立ち、現場での活動の中から教育を語る人たちの発言と、現状の学校教育システムとの乖離が問題だと思うのですが、日本の教育行政に携わる方々にもこのような方々の発言が耳に入っていないとは思えません。既得権益を手放すことをしないような方々が、抜本的な改革をしようとしないのではないでしょうか。
また、教育問題は学校システムを改革することにとどまらず、労働や子育てと一体化して改革をしないと意味をなさないとも思いますから、社会の大改革につながっていきます。フィンランドやオランダなどは、社会の停滞期を打破しようと社会の大改革につながる教育改革をやってのけたのです。日本も、本当に落ち込んでにっちもさっちもいかなくなるくらいにならないと、大改革には踏み切らないのでしょうね。
政権が変わって、改革に着手しているようですが、さてどこまでやるかー。
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