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1月8日発信の内田樹さんのブログは、私にとってとても大きなことを教えてくれました。それも2点も。私がものを知らないだけなのかもしれませんがー。
内田さんのような、日本有数の哲学者?知識人?に、「これはこうなんだ!」と断言されると、「ハハー、そうだったんですかぁ」とひれ伏してしまう私です。
全文を紹介すると長いですので、一部紹介させていただきます。今日1点、明日1点。全文を読みたい方は、内田さんのブログへどうぞ行ってらっしゃい。
物事の本質というのを知るとーいや、知るという程度ではありませんね、自分の身体の中に落とし込むと、明日からの自分が変わってくるように感じます。だから人は知識を得たい、物事を知りたい、と思うのかもしれません。
今書いていてフト思いました。自分が変わりたくない人(変わることを恐れる人?)は、新しい知識を得たいとも、世の中のことをもっと知りたいとも、思わないのかもしれないのかなーと。
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(以下、内田樹さんのブログ 2010.01.08 「そんなことを訊かれても」より 一部抜粋)
資本主義は口が裂けても「共同体の再構築」ということは提言できない。
もちろん、消費者たちに最低限の消費活動を担保することと、人口の再生産のために「核家族」くらいまでは許容範囲だが、それ以上のスケールの共同体ができてしまうと(親族であれ、地域共同体であれ、「疑似家族的」集団であれ)、消費行動はたちまち鈍化してしまう。
経済学者がさっぱり言わないので、私が代わりに申し上げるが、そういうことなのである。
互助的・互恵的な共同体が機能すると、消費活動は抑制される。
考えれば、当たり前のことである。
共同体に帰属していれば、耐久消費財のほとんどは「買わずに済む」からである。
誰かが持ってれば「貸して」で済む。
お金もうそうだ。
誰かが持っていれば「貸して」で済む。
銀行もサラ金も要らない。
金融商品もさっぱり売れない。
だって、それは「博打」だからだ。
「みんなの財布」を持ち出して鉄火場で博打をしようと思うんですけど・・・という提案が共同体内部で合意を獲得することはきわめて困難である。
「やるなら自分の手銭の100円玉使ってやれよ」という話である。
経済的に互恵的・互助的な共同体を形成すると、資本主義的な消費活動は一気に鈍化する。
だから、後期資本主義は久しく全力を尽くして「共同体形成」に反対してきたのである。
(抜粋終わり)
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●なるほどそうだったんだ〜。うすうすそういうことだろうとは感じていましたが、やっぱり、私たちの生きている社会って、互恵的・互助的な集まり(共同体)の形成に積極的に加担をすることはないわけだー。
上記の内田さんの文章を読んだら、そりゃそうだ、と思うしかないわけですが。消費活動が抑制されれば、資本主義は成り立っていかないわけでー。
これからの世の中は、地域コミュニティの形成に活路を見出すしかないだろう、と思っていた私は、やっぱり資本主義社会にそぐわないのかな? でも社会主義ましてや共産主義のことをよくわかっているわけではないし、それらを目指した国の多くは崩れていってしまったんだし。
資本主義ではあっても、「共同体の再構築」とまではいかない形での、地域に根差したコミュニティの再形成、そんなところが現実的なのだろうか。
不況というか、低成長、いや、成長なしの経済社会に入ったであろう今、現実的に「互恵・互助社会」はどんどん進んでいっているのでしょうからね。
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ジャパネットで安く買えるんだけども、電球切れたり、テレビ故障したときに長年お世話になってきた近所の電気屋にするか!・・・っていうレベルの「地域の互助的なつながり」がいいんだと思うんですけどね。でもジャパネットの¥99800の40インチの魅力を蹴飛ばし(苦笑)「あえて損をする選択」って、それこそ「(経済的だけでなく)なにかと余裕のあるとき」しかできないわけで・・・。「地域の互助」って、よその地域と隔離されていた時代に「仕方が無く」成り立っていたことも大きな理由だと思うので、今、行き詰まったから「そこに戻る」ってワケにもいかないんじゃないか?とか、すでに誰も「地域のみんなと相乗りしたい」と思ってないんじゃないか?とか悩ましく思いながら、今日もユニクロを来て、アスクルで事務用品をそろえる過疎地に住む住民です(苦笑)。
2010/1/14(木) 午後 0:52 [ ホライズンおのでら ]