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謎の先生 より
《私たちが敬意を抱くのは、「生徒に有用な知見を伝えてくれる先生」でも「生徒の人権を尊重する先生」でも「政治的に正しい意見を言う先生」でもありません。
私たちが敬意を抱くのは「謎の先生」です。
あるいは「無ー知の先生」と言ってもいいかもしれません。これは誤解を招きそうな表現ですけれど(でも、この本は「誤解をどんどん招くのがよいコミュニケーションである」という立場に立っているので、そんなことあまり気にしなくていいんですけど)、先生が無知であるという意味ではなくて、私にはどうしても理解できないもの、つまり私の知が及ばないもの、私にとっての「無ー知」(non-savoir)の核のようなものが、先生の中にはある。そういう印象を与える先生のことです。
「先生の中には、私には決して到達できない境位がある」ということを実感するときにのみ、弟子たちは震えるような敬意を感じます。
そのためには、“先生は実際に卓越した技術や知識を持つ必要はありません”。
「謎の先生」は“その有用性がすでにわかっている技術や知識”を私たちに伝える人ではありません。彼が伝えるものの価値が私たちにすでに知られており、それに対して私たちが対価を提供しうるような教師は「謎を蔵した人」とはみなされません。
“その人がいったい何を知っているのか私たちには想像が及ばない先生”、それが「謎の先生」です。》
《漱石が「先生」の条件として挙げているのは、二つだけです。
一つは「なんだかよくわからない人」であること、一つは「ある種の“満たされなさ”に取り憑かれた人」であること、この二つです。
「先生」が「なんだかよくわからない人」になってしまったことの原因が「先生」が「ある種の満たされなさに取り憑かれた」ことにあるのだとすると、これは同じ一つの経験の前後二つの相と申し上げてよいのかもしれません。だとすると、一つですね。
漱石がそう書いている以上、「先生」が「先生」として機能するためには、これだけで十分ということなのでしょう、きっと。》
●なんともおもしろい視点だなぁと私は読んでいて感じたんですが、みなさんはいかがお感じになったでしょうかー。
人生で最も敬愛している人を「先生」と呼ぶとしたら、私の「先生」も、まさに漱石の言う条件に合致しています。
そして私は果たして「謎の先生」になり得ているだろうか・・・。
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