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誤解者としてのアイデンティティ より
《なんともことばにできないような「満たされなさ」を骨身にしみて感じて、ああ、世の中にはこういう「満たされなさ」というのがあって、それを知るのが、人間にとっての決定的経験なんだよな。現に、オレはその前後でずいぶん人間が変わってしまったもの……ということがわかったら、もう「先生」の資格は十分ということです。
この経験が「大人」と「子ども」の決定的な分岐だということです。
でも、いったいこのおじさんは“何を”経験したんでしょう?》
《「大人」と「子ども」の分岐点は、まさにこの「コミュニケーションにおける誤解の構造」に気づくかどうか、という一点にかかっております。
コミュニケーションとは本質的にメッセージの「聞き損ない」であり、人間を理解するというのは、その人の本性を「見損なう」ことであるということを身にしみて経験した人が(会社に入って「課長! オレどこまでもついていきます」とすがりついたり、結婚したりすると、すぐに骨身にしみてわかります)「大人」となるわけです。
別に「大人」になったからといって、いきなり賢くなるとか、世の中の仕組みが洞察できるようになるとかということはありません。
“とりあえずわかるのは自分のバカさ加減だけです”。》
《「大いなる暗闇」も『こゝろ』の「先生」も、自分の前で目をきらきらさせて「先生!」と慕ってくれる若者を見て、「バカだな、こいつも。オレのことを『先生』なんて慕っても、いいことなんかないのにさ……」と思っているわけです。
でも、この「自分のバカさ加減を知ってしまったおじさん」の、“何とも言えない脱力感”が、若者にはなんだか底知れぬ叡智の余裕のように見えるのですね、これが。
この「先生」にももちろん青年のころがあったわけで、そのときには「先生の『先生』」に出会っています。そして、その脱力したような茫洋とした風貌のうちに無限の叡智を見て、師の一挙手一投足のうちに「謎」を見出していたのです。》
●私も内田さんの言う「自分のバカさ加減」を身にしみて感じられるようになりました。
しかし、この「脱力感」?が、若者にとって「叡智の余裕」のように見えているのか???
それにしても、この文章は私のようなオヤジにとってはグッと来るものですが、この本の読者対象は中高生じゃなかったっけ? とてもそうだと思えない内容なのですがー。内田さんがこの本を書いた真意を聞いてみたいものです。私にとってはとてもいいことを伝えてくれた本でした。
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