さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

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 先日、エアロビクス全国大会で優勝経験もあるというHさんが経営するスタジオで、私たちジンベクラブのデモンストレーション演奏&ダンスを行ってきました。

 私たちのメンバーとHさんが知り合いで、Hさんが一度私たちの演奏とダンスを見てみたいとのことから今回うかがうことになりました。

 築造されてからまだ新しいスタジオはとても気持ちがいい建物で、広さといい床の質と固さといい、アフリカンダンスを踊るのにも最適と思われるような作りでした。

 Hさんはエアロビクスだけではなくさまざまなダンスを体験されてきた方のようですが、タイコの生演奏によるアフリカンダンスはまだ見たことがないとのことでしたので、今回の訪問となりました。

●いっしょに踊るー

 タイコをセッティングしてから、私たちがダンスに入る前にいつも行うウォーミングアップを始めました。ウォーミングアップといっても、メンバーが一人ジンベを叩くそのリズムに乗って身体を動かすもので、ウォーミングアップになっていると同時にアフリカンダンスのエッセンスも入っている、それだけで結構楽しくまた汗をかくほどに身体を動かすものです。

 これを始めてからほどなく、Hさんもニコニコしながら加わってきて、私たちといっしょにタイコのリズムに乗って身体を動かし始めました。

 Hさんが今回私たちのするデモンストレーションで実際にいっしょに踊られるのかどうかは、始めてみないとわからないことでした。ただ見るよりは参加してくれる方がいいと思ってはいましたが、「エアロビクス全国大会優勝者」である方に、こちらから「いっしょにやりませんかー?」とはなかなか言えるものではありません。Hさんが参加するに足るものなのかどうかは、Hさん自身に判断してもらうしかないと私は思っていました。

 でもHさんは、ほとんど最初の方からいっしょにリズムに乗って楽しんでくれていました。そしてウォーミングアップ終了後、私たちのデモンストレーションを、最初から「見る」のではなく「体験する」「共に楽しむ」気でいることを伝えられました。

 私たちはうれしく思うと同時に、多少の緊張感を持って臨むこととなりましたが、このことはある程度予想していたことではあったので、「望むところ」となりました。

●イベント出演決定!

 今回私たちは、カキランベ、ランバ〜ダンサ〜ヤドのメドレー、そしてスグーという3つのリズムを準備していました。そして男性陣3人がジンベ、女性たち3人が2人ずつ踊り、1人はジュンジュン(低音のタイコ)を交代ですることにしていました。

 Hさんはさすが!でした。私たちのダンスを見るのは初めてでしたが、さまざまなダンスの「振り」をすぐに覚えて、いっしょに楽しそうに踊ってくれました。私たちはこれだけ踊れば結構疲れますが、Hさんはまだまだこれからという感じでもありました。

 Hさんは終了後、「やっぱり生演奏に乗って踊るのがいいですね」と言ってくださいました。これは私たちの一番の「ウリ」のところなので、そう思ってくださってうれしく思いました。

 そして、「9月にスタジオのイベントがあるので、よかったら出てもらいたいんですがー」と言われました。そのイベントは、来場者にいろいろなダンスを体験してもらえるようなかたちで、広くオープンに人を集めるようなものにしたいとのことでした。

 Hさんによると、エアロビクス業界?では近年、「ズンバ」というラテン系のリズムに乗って踊るインストラクターの動きを真似して踊るようなエクササイズをするプログラムが人気を呼んでいるそうで、そのような土壌?があるので私たちのものもきっと来場者に楽しんでもらえるだろうとのことでした。

 イベントは9月25日(土)とのことでした。この日は稚内の小学校公演として指定された日だったのですが、私たちメンバーの都合がどうしてもつかないので日程を変更してもらっていました。稚内へ行くのは都合が悪くても、札幌市内であれば大丈夫です。

 稚内の小学校には申し訳なく思っていたのですが、この日稚内に行くことにしていたら、せっかくお誘いいただいたダンススタジオのイベントに参加できなかったわけです。うまく回っているものだと思いました。

 ダンス好きの方々が集まるであろうイベントで、私たちの演奏とダンスをやれるということは、とても楽しみなことです。でもきっと、踊る気満々の方々が集まるでしょうから、私たちも覚悟を決めてやらないといけないでしょう。叩き続け、踊り続ける○○分、ということになるでしょうからー。

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  誤解者としてのアイデンティティ より

《なんともことばにできないような「満たされなさ」を骨身にしみて感じて、ああ、世の中にはこういう「満たされなさ」というのがあって、それを知るのが、人間にとっての決定的経験なんだよな。現に、オレはその前後でずいぶん人間が変わってしまったもの……ということがわかったら、もう「先生」の資格は十分ということです。

 この経験が「大人」と「子ども」の決定的な分岐だということです。
 でも、いったいこのおじさんは“何を”経験したんでしょう?》

《「大人」と「子ども」の分岐点は、まさにこの「コミュニケーションにおける誤解の構造」に気づくかどうか、という一点にかかっております。

 コミュニケーションとは本質的にメッセージの「聞き損ない」であり、人間を理解するというのは、その人の本性を「見損なう」ことであるということを身にしみて経験した人が(会社に入って「課長! オレどこまでもついていきます」とすがりついたり、結婚したりすると、すぐに骨身にしみてわかります)「大人」となるわけです。

 別に「大人」になったからといって、いきなり賢くなるとか、世の中の仕組みが洞察できるようになるとかということはありません。
 “とりあえずわかるのは自分のバカさ加減だけです”。》

《「大いなる暗闇」も『こゝろ』の「先生」も、自分の前で目をきらきらさせて「先生!」と慕ってくれる若者を見て、「バカだな、こいつも。オレのことを『先生』なんて慕っても、いいことなんかないのにさ……」と思っているわけです。

 でも、この「自分のバカさ加減を知ってしまったおじさん」の、“何とも言えない脱力感”が、若者にはなんだか底知れぬ叡智の余裕のように見えるのですね、これが。

 この「先生」にももちろん青年のころがあったわけで、そのときには「先生の『先生』」に出会っています。そして、その脱力したような茫洋とした風貌のうちに無限の叡智を見て、師の一挙手一投足のうちに「謎」を見出していたのです。》
 
●私も内田さんの言う「自分のバカさ加減」を身にしみて感じられるようになりました。
 しかし、この「脱力感」?が、若者にとって「叡智の余裕」のように見えているのか??? 

 それにしても、この文章は私のようなオヤジにとってはグッと来るものですが、この本の読者対象は中高生じゃなかったっけ? とてもそうだと思えない内容なのですがー。内田さんがこの本を書いた真意を聞いてみたいものです。私にとってはとてもいいことを伝えてくれた本でした。

  謎の先生 より

《私たちが敬意を抱くのは、「生徒に有用な知見を伝えてくれる先生」でも「生徒の人権を尊重する先生」でも「政治的に正しい意見を言う先生」でもありません。

 私たちが敬意を抱くのは「謎の先生」です。

 あるいは「無ー知の先生」と言ってもいいかもしれません。これは誤解を招きそうな表現ですけれど(でも、この本は「誤解をどんどん招くのがよいコミュニケーションである」という立場に立っているので、そんなことあまり気にしなくていいんですけど)、先生が無知であるという意味ではなくて、私にはどうしても理解できないもの、つまり私の知が及ばないもの、私にとっての「無ー知」(non-savoir)の核のようなものが、先生の中にはある。そういう印象を与える先生のことです。

「先生の中には、私には決して到達できない境位がある」ということを実感するときにのみ、弟子たちは震えるような敬意を感じます。

 そのためには、“先生は実際に卓越した技術や知識を持つ必要はありません”。

「謎の先生」は“その有用性がすでにわかっている技術や知識”を私たちに伝える人ではありません。彼が伝えるものの価値が私たちにすでに知られており、それに対して私たちが対価を提供しうるような教師は「謎を蔵した人」とはみなされません。

 “その人がいったい何を知っているのか私たちには想像が及ばない先生”、それが「謎の先生」です。》

《漱石が「先生」の条件として挙げているのは、二つだけです。

 一つは「なんだかよくわからない人」であること、一つは「ある種の“満たされなさ”に取り憑かれた人」であること、この二つです。

「先生」が「なんだかよくわからない人」になってしまったことの原因が「先生」が「ある種の満たされなさに取り憑かれた」ことにあるのだとすると、これは同じ一つの経験の前後二つの相と申し上げてよいのかもしれません。だとすると、一つですね。

 漱石がそう書いている以上、「先生」が「先生」として機能するためには、これだけで十分ということなのでしょう、きっと。》

●なんともおもしろい視点だなぁと私は読んでいて感じたんですが、みなさんはいかがお感じになったでしょうかー。

 人生で最も敬愛している人を「先生」と呼ぶとしたら、私の「先生」も、まさに漱石の言う条件に合致しています。

 そして私は果たして「謎の先生」になり得ているだろうか・・・。

 誤解の幅 より

《おそらく、“コミュニケーションはつねに誤解の余地があるように構造化されている”のです。うっかり聞き間違えると、けっこう深刻な影響が出るように、ことばはわざとわかりにくく出来上がっているのです。》

《私たちがコミュニケーションを先へ進めることができるのは、そこに「誤解の幅」と「訂正への道」が残されているからです。》


 誤解のコミュニケーション より

《私たちが聴いて気分のよくなることばというのはいくつかの種類がありますが、そのすべてに共通するのは(誤解を招く表現ですが)、そこに“そこに誤解の余地が残されている”ということです。
 奇妙に聞こえるでしょう?

 でも、誤解の余地なく理解が行き届いたコミュニケーションではなく、誤解の余地が確保されているコミュニケーションこそが、私たちにコミュニケーションをしている“実感”をもたらしてくれるのです。》

《子どもたちが限定した語彙でしかコミュニケーションできなくなったというのは、たしかに一つの「退行」現象ではあるのですけれど、人間というのは、本人にしかわからない切実なる理由があって「退行」しているんですし、退行するときだって、必ずそれなりのしかたで「戻り道」を確保しているんです(ヘンゼルとグレーテルが森の小径に撒いたパンくずみたいに)。

 彼らのあのチョー貧しい語彙は、「自分の言いたいことをきちんとことばにしなさい」という言われ方で、学校教育でずっと「正しい」とされてきた「自己表現」の強制に対する、子どもたち側からの「ノー」ではないかと私は思っています。

「そんなことばづかいじゃ、コミュニケーションできない」、そういうふうに感じている子どもたちが、生半可な自己表現に自分を託すことを拒んで、“ある種の失語症をみずから進んで病むことで、コミュニケーションを回復しようとしている”。そんな気が私にはするのです。》

●「ことばはわざとわかりにくく出来上がっている」というのも、また愉快な論点だとは思いませんか?
やはりここでも、大事なことであれば、「自分はどう受け取ったか」を相手に伝えて確認する作業が必要になってくるのでしょう。

 子どもたちの「退行」現象についての内田さんの指摘、なるほどなぁと思います。
 子どもたちは、どう考えても、「わざと、あえて」、「チョー貧しい語彙」を使ってのコミュニケーションを選び取っています。“「正しい」とされてきた「自己表現」の強制に対する「ノー」”という指摘、まさにそうだと感じます。

  原因と結果 より

《それは、人間は“ほんとうに重要なことについては、ほとんど必ず原因と結果を取り違える”、ということです。
 コミュニケーションはその典型的な事例です。

 私たちに深い達成感をもたらす対話というのは、「言いたいこと」や「聴きたいこと」が先にあって、それがことばになって二人の間を行き来したというものではありません。そうではなく、ことばが行き交った後になって、はじめて「言いたかったこと」と「聴きたかったこと」を二人が知った。そういう経験なんです。

 これは人類がコミュニケーションということを始めた、そもそもの最初からずっとそうなんです。》


  話は最初に戻って より

《“相手に「君が言いたいことはわかった」と言われると、人間は不愉快になるんです”。
 メッセージの正確な授受ということがコミュニケーションの真の目的だとしたら、“メッセージが正確に受け渡しされたときに不愉快になる”というのはおかしいですね。

 ということは、もしかするとコミュニケーションの目的はメッセージの正確な授受じゃないのではないか……という疑問が湧いてきます。

 コミュニケーションの目的は、メッセージの正確な授受ではなくて、メッセージをやりとりすることそれ自体ではないのでしょうか?

 だからこそ、コミュニケーションにおいては、意思の疎通が簡単に成就しないように、いろいろと仕掛けがしてあるのではないでしょうか? そうすれば、コミュニケーションがどんどん延長されますから。》

●「コミュニケーションにおいては、意思の疎通が簡単に成就しないように、いろいろと仕掛けがしてある」とは、なんとも愉快な論点だと私は感じます。

 そのような認識を持てると、人間関係においてむやみやたらと悩むこともないでしょう。

 「メッセージをやりとりすることそれ自体がコミュニケーションの目的」なのですから、「伝わらないことが前提」でやりとりをすればいいだけの話です。

 本当に伝わらないと困るようなことがもしあるのなら、「どのように伝わったか?」を確認すればいいだけのことです。ほとんどの人は、そのような「確認作業」を怠ったがために、「伝わった、伝わらなかった」「コミュニケーションできた、できなかった」などのことで思い悩んでの堂々巡り状態に入ってしまうのではないでしょうか。

 私自身、このようなコミュニケーションの本質を体感したのは、平井雷太氏による「インタビューゲーム」によってですから、あまりエラそうなことを言えるわけではありません。

 私は、小中学生のうちから「インタビューゲーム」的なワークショップを、できれば学校教育の中に組み入れてほしいものだと私は思っています。

 子どもたちに「ケータイ」的なものがどんどんと普及している現在、「インタビューゲーム」のようなコミュニケーション・ワークショップを体験しているかどうかは、今後の人間形成の上でとても大事なことだと感じます。

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