さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

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 この映画は、私が信頼する何人かの人から、「マイケルが特に好きじゃない人でも、いや、そうじゃない人にこそ観てほしい」という声があったので、「これは観ておくべきだろう」と思って、観に行きました。
 そして、本当に、観てよかった。

 私も特にマイケルのことを好きだというわけではなかったのですが、私が学生の頃に“スリラー”が大ヒットしたこともあり、当時‘洋楽’をよく聞いていた私も、彼の曲は耳に馴染んでいました。ただ、あまりにメジャーなものに対しては距離を置くという生来の私の天の邪鬼さによって、彼の音楽を深く聞こうとはしませんでした。

●私はその後、西アフリカの伝統的なタイコ・ジンベに出会い、マスタードラマー(達人)であるアブドライ・ジャハテ氏のワークショップを、彼の生まれ故郷であるアフリカのセネガルで受ける機会がありました。

 その際に彼が話した多くの言葉の中でも、ずっと忘れられないものが一つあります。それはー
「アフリカ系アメリカ人のミュージシャンたちは、同胞に向けて、その音楽の中で、同胞だからこそわかるメッセージを送っている。例えばマイケル・ジャクソンは、彼の曲“Bad”の中で、このようなことを我々に伝えているのだが、これは我々以外には決してわからない‥」

 どんな内容だったかは覚えていませんが、私はなるほどと思いました。このようなことは、日本の歌謡界の中にもあると聞いたことがあります。

 それはともかく、映画“This is it”は、マイケルが行う予定だったロンドン公演のリハーサルの様子を収めたものでしたが、そのダンスはやはり、凄かった。彼のダンスに加えて、「マイケルのステージに出たい!」と全世界から集まった超一流のダンサーの中から選ばれたダンサーたちも凄かった。

 この映画には、もちろん彼の曲が全編に渡って流れているわけですが、そのビート感が、やはりとても「アフリカン」を感じさせてくれるものでした。私たちがやっているジンベ&ダンスで言うと、低音のタイコのジュンジュンの担うパートがベースの音であり、その延々続くベース音をそれこそベースに、ギターやキーボードが重なっていく中でダンスが踊られる、それはジンベ&ダンスを彷彿とさせるものでした。

 もっと早くこのことを知っていたら、彼の音楽を聞き込んだり、ビデオなどをもっと観たりしていたかもしれません。もちろん一番観たいのは、本物の公演でしたが‥。

 彼が死んでしまったことによって、リハーサルの様子を撮った映画ができたわけで、これができなかったら、私はマイケルの凄さを知ることはなかったんでしょうから、複雑な気持ちもあります。

●そして、私が感じたマイケルの一番凄いところは、その「謙虚さ」でした。
 彼は公演に関わるすべての人たちープロデューサー、ミュージシャンたち、ダンサーたち、舞台や照明に関わる人たち、等などーに対して、とても敬意を持って接していました。映画を観たら、それが伝わってきます。

 私がジンベのマスタードラマーのアブドライ氏から学んだ最大のことも、「謙虚さ」です。
 彼はあるワークショップの際に、「ジンベドラマーにとって、一番大切なことは何ですか?」という質問に対して、「それは謙虚であることだ」と答えたのです。
 この答えは、そのとき参加していたたぶんすべての人が全く予想していない答えだったので、とても驚いたことを覚えています。技術とか、努力とか、才能とか、そのようなことではなくて、「謙虚さ」だというのですから…。

 マイケルは、マスタードラマーに通じるのです。いや、「マスター」なのでしょう。「天才」には違いないでしょうが、それを超える、やはり偉大な人です。

 「彼は音楽のあらゆることを知っている。彼に任せていれば大丈夫だ」とある参加ミュージシャンが言ってましたが、彼は公演のすべてを熟知し、関わっているすべての人に対して、適切な助言や指示をしていた姿が映画に映し出されていました。

 そのような、彼のそれこそ「真実の姿」がわかる映画だと思います。何度も観たい映画です。
 公演が実現していたら、私は彼の「真実の姿」を知ることはなかったかもしれません。もしかしたら、このような方は多いかもしれませんね…。
 さまざまな困難を乗り越えて、実現させようとしていて、実現一歩手前まできていた公演‥。やっぱり、実現させてほしかった。

●彼の曲をあらためて聞いて、とても胸に響くすばらしいメロディのものがたくさんあることを感じたのですが、私が一番グッとくる曲は、ジャクソンファイブ時代の、“I'll be there”でした。この曲がなぜかとても懐かしく響いてくるんです。

 もう30〜40年前のものなので、北海道の片田舎で少年時代を過ごしていた私がそんなに耳にする機会があったとは思えないのですが、たまに行く床屋さんではいつもラジオを流していたことを記憶しているので、もしかしたらそこから流れていたのかもしれませんー。

●私は神戸を離れ、音楽の出前が始まるー

 私はこの年の末に札幌にUターンすることを決めていましたが、それまでの間、東京での新しい仕事が待っていたので、残念ながら神戸に長居することはできませんでした。短い期間でしたが、濃密な時を過ごした仲間たちと離れてしまうことは、とても寂しく感じました。
 
 私は活動を共にした仲間との別れが近づいてきた時、何か心が一つになるようなことを無性にしたくなり、歌を歌ってみないかと提案しました。吉椿さんがギターを弾けたので、喜納昌吉さんの「花」をみんなで歌ったことをよく覚えています。その歌詞の内容は、そのときの私たちの心にとても響きました。

 花は流れてどこどこ行くの
 人も流れてどこどこ行くの
 (中略)
 泣きなさい 笑いなさい
 いつの日か いつの日か
 花を咲かそうよ

 すると翌日から、吉椿さんがギターを抱えて、「足湯隊」メンバーで「歌のボランティア」として避難所等を回っているというではありませんかー。特に子どもたちの集まっている場などでとても喜ばれたと聞いています。

 吉椿さんは、外国の被災地での活動においても、歌や踊りなどの「祭」を催し、地元の人たちの笑顔を引き出す仕掛けをしているとのことでしたが、それも神戸でのこのような体験から来ているのかもしれません。

 私は3〜4日間の滞在で神戸をあとにしましたが、それから一カ月後、二カ月後と、‘ジンベ(西アフリカのタイコ)’の仲間たちと神戸を訪れ、タイコの出前演奏を行いました。避難所となっている学校や公園、商店街、ボランティア団体の集合している公園、等々で丸三日間演奏して回りました。

 タイコメンバーの一人がNGOスタッフであったことから、その関連で地元でコーディネートしてくれる人がいたのです。震災直後は、歌や音楽などを行ったり聞いたりする余裕などないでしょうが、時が経ってくるとこのようなことも必要であり、受け入れてくれるのだなぁと思います。

 そして私はここでも、地元の方々の温かさに触れるばかりでした…。

●引き継がれた「足湯」ー

 「足湯」は私たちメンバーで続ける間に、他の方々にも伝わり、最終的には現地で活動を継続するボランティア団体に引き継がれていると聞き、とてもうれしく思っていました。

 しかし、それがまさか、今の今まで継続され、日本各地の震災の現場でも行われていたとは知らず、驚きました。ネットで検索すると、能登半島などで行われた足湯の活動が、写真入りで出てきました。

 今月17日の午前のNHKの番組に、被災後靴職人の仕事を奪われ、その後ずっと救援活動に関わり、今では「被災地NGO恊働センター」代表となっている村井雅清さんが出演され、活動の話をしていましたが、そのときも足湯のことに触れていました。

 村井さんは、「ひとり一人の話を徹底的に聞く」ことを一番大事にされているそうですが、これももしかしたら、足湯の体験から来ていることかもしれません。

 去年11月には、「全国足湯ボランティア交流会」が催され、そのレポートまでありましたので、関心のある方はご覧になってみてください。 http://www.pure.ne.jp/~ngo/ashiyuzenkoku.htm
 
●私の再出発の原点としての神戸ー

 私が神戸を訪れたのは、「ボランティア」をしたいという気持ちよりも、あの日あの時の自分は行くべきだったし、その流れにあったから、としか言いようがないような気がしています。
 
 どう考えても、被災された方々の気持ちより、自分の気持ちを何とかしたい、ということにありました。いても立っても居られない、とはこのことかもしれません。「ボランティア元年」と後に言われる1995年1月の震災でしたが、ボランティアとして駆けつけた多くの方々に共通している気持ちだったのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

 そして体験するのは、「ボランティア」は決してこちらからの一方通行のものではなく、双方向のもの。つまり、「やってあげる、やってもらう」関係ではなく、対等の関係であるもの、「やってあげている」ようであって、実はやってあげていると思っている側が受け取ることの方が大きいのではないか、と私は感じています。

 そうして私は、実に多くの目に見えないものをいただきました。
 自分がやっていたことの意味というのは、後になってわかるものです。私は吉椿さんの姿を15年ぶりに見て、あのときの自分の行動を肯定されたような気がして、大げさにいえば救われました。

 そして、今私が行っていることの原点は、やはり15年前に見た神戸の光景であり、そのときの体験であり、出会いにあるのだということを再認識できました。
 今行っていることはすべて、人との出会いとつながりのためのものと言えるのですからー。

●10人で智恵を絞って、「足湯」の活動をし始めるー

 私たちは朝のスープの活動を終えた後、どんなことをするのがいいのか話し合いました。そこでスッと、確か誰ともなく出てきたのが、「足湯」の活動です。私には馴染みのあまりないものでしたが、整体や気功に通じたメンバーが多く、彼らにとって「足湯」は身近なものだったようでした。

 また、誰かが漢方の入浴剤のようなものを持参しており、これをお湯に入れて足をマッサージしてあげたら、特にお年寄りの方々に喜ばれるのではないだろうか、という話になって、「足湯」の活動を始めようということになりました。

 しかし、いざ始めるにあたっては、結構準備するのが大変だったと記憶しています。
 とにかくまずは、たくさんのお湯が必要となりますが、お湯を沸かす燃料や大きな鍋が必要になりますし、洗面器類やタオルも必要となります。イスも要りますし、そのための場所も必要となります。それらを準備して実際に足湯を行うには、避難所となっている場所の同意が必要となりますし、私たち以外の方々に手伝ってもらうことも必要となったはずです。

 私たちは避難所を訪れて代表の方にお話しをさせてもらい、承諾を得た場所で足湯の活動をさせていただきました。一日に何ヶ所もの避難所を訪れた記憶がありますので、たぶんL氏があらかじめ避難所を訪れて、コーディネートしてくれていたのでしょう。

●足湯は、単に身体が温まるだけではなかったー「心」も温まる足湯の効用

 いろいろな方々の協力もあって始めた足湯の活動でしたが、私たちは実際にやってみて初めて、それをすることの本当の意味というか、この活動の重要性を感じ取っていくことになりました。

 避難所の床は冷えきっています。特に大きな体育館のような場所だとなおさらでしょう。いくらストーブを焚いても、床は冷たいままです。そのような場所で何日も過ごし、身体が冷えきっているお年寄りの方々は、足湯をとても喜んでくださいましたが、最初はなかなか自分から足湯をやっている場所へ足を運ぼうとしないので、私たちの方から「足湯をやっているんですけど、いかがですか?」と声をかけることをしました。

 お年寄りの方々にイスに座ってもらい、漢方のいい香りのする温かいお湯をはった洗面器に足を浸してもらって、私たちは足だけでなく、手なども揉みほぐし、「どうですか〜」と語りかけました。すると、温まってリラックスしたお年寄りたちは、世間話をしたり、ご自分のことを話されるようになっていきました。震災に遭ってからずっと、身も心も頑になっていたのが、少しだけほぐれるような、足湯をしている一画はそんな場になっていきました。

 もともと私たちメンバーは、それぞれの住む地域で「人と人とのコミュニケーション」を大事にしていたような面々が集まっていたのでしょう。足湯をすることにおいて大事なのは、「それぞれの話に耳を傾けること」だという共通認識が生まれていきました。

 私たちは足湯を始めて、ことの重大性に気がついていきました。お年寄りの言葉を引き出し、耳を傾け、心をときほぐすことの大切さです。「足湯」は単に足を温めるものではなく、「心」を温めるための、いわばツール(道具)だったのです。

 しかし、毎日何人もの方々の足を揉みほぐし、話に耳を傾けるという行為は、私たちやる側の心身の負担も、知らず知らずのうちに増していくことにも気づいていきましたし、時にはその話の「重さ」に、聞く側の私たちが押しつぶされるような気持ちになることもありました。

 でもそのことに気づいてからは、私たちメンバーの気持ちも共有し合うように話したり、時にはメンバー同士でほぐし合ったりすることによって、乗り切っていったのではないかと記憶しています。

●神戸市兵庫区役所に避難されていた方々に、温かいスープを毎朝届けるー

 神戸市北区のL氏の住むアパートにたどり着いた時の光景は今でも覚えています。東京からやってきた私たち(確か、男性2人、女性3人)と、九州他各地からやってきたメンバーが、ここで一堂に会しました。

 東京で合流した3人のメンバーは以前からの顔見知りでしたが、他の2人とは東京駅で初めて会い、神戸で合流した5人とはもちろん初対面でしたが(もしかしたら記憶違いかもしれません)、「被災された方々のために何かができないだろうか?」という志しの元に集まったメンバーとは、すぐに心が通じ合ったような気がします。

 すでに数日前から、まだ‘炊き出し’が入っておらず、食事はパンなどのみで、「温かいもの」が全く届けられていなかったという兵庫区役所に避難されていた方々に、毎朝温かいスープを届ける活動が始められていました。

 このアパートの一室で大きな鍋に作って持っていくのですが、アパートには中国からの留学生の女性が住んでいたことから、「中国風の熱々のスープ」を中心に作っては届けていたように思います。元々このアパートに住む方々は顔見知りでコミュニケーションが取れている方が多かったらしく、私たちの活動に的確なアドバイスを与えてくれる、いわば‘大御所’のような方も住んでおられました。

 私も翌朝早速スープをお配りする活動に参加しましたが、兵庫区役所にはロビーから廊下、そして階段の踊り場に至るまで、避難された方々でいっぱいでした。すでに震災から一週間が過ぎるというのに、温かいものをほとんど口にされていなかったらしいので、私たちの作るスープを楽しみにされている方々から、感謝の言葉をいただきました…。

 このように、被災された方々にとって、「今必要なこと」ができたのは、L氏が地震後自転車で市内を駆けずり回ってくれたからに他なりません。彼のもとに、全国に住む友人知人から、「何かできることはないか?」の声が入ってきたので、彼は「仲間たちが来てやるべきことは何だろう?」と、数日かけて、いわば「リサーチ」してくれたおかげです。

 10人が寝食を共にして活動することができたのは、彼の神戸市北区のアパートが被災を免れ、彼の部屋を利用することができたからです。そして彼のもとに10人もの若者(?)が集まったのは、彼が日頃から、信頼のおける仲間とのネットワークを築いていたからです。吉椿さんの紹介文にも書かれていましたが、整体・気功などの東洋医学を学ぶ仲間たちのとネットワークが中心だったと思います。そして私は、L氏と日頃からつながりのあるG氏とのつながりがあったので、こうして神戸に向かうことができたのでした。

 私たちの食事は、毎日ご飯とみそ汁のみでした。でも、それで十分でした。温かいものを食べられる有り難さを、このときほど感じたことはありませんでしたし、なにより10人もの志しを同じくする仲間が集まっているのですから、心はずっと温かでした。

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●私が神戸を訪れたわけー

 1995年1月、私は東京でアルバイト生活を始めてから9度目の正月を迎えていました。もう7年近く外資系証券会社のメールルームスタッフとして働いていましたが、札幌に一人暮らす父親の認知症の症状が進んで、もう一人では暮らしていけないことを知り、その年の暮れにはUターンをすることを決めていました。

 そんな年明けの頃、1月17日の朝に発生した阪神淡路大震災…私は拡大する災害を報道するテレビ画面を食い入るように見ていました。そして、自分に何ができるだろうか、何かできないだろうか、という自問自答を繰り返していました。

 今思うと、7年近く勤めていた会社を1月いっぱいでやめることが決まっており、その後は友人の経営する小さなレストランのリニューアルスタッフとして年末まで働くことになっていたので、その当時の会社をすぐに休んでも差し支えない状態の自分が現地に赴かないでどうする!という気持ちがあったのでしょう。

 それと、Uターンすることを決めてはいたものの、素晴らしい出会いの繰り返しと、自ら学びたいことを思う存分に追求できた東京での暮らしを切り上げて、ほとんど誰も知り合いのいない北海道へ13年ぶりに帰ることに対しての気持ちの踏ん切りがつかない自分自身が、なんらかの心の整理をつけるために現地に行くべきだ、と直感したからだったのでしょう。

●友人知人のネットワークを通して全国から10人のメンバーが集結ー

 3日間ほどテレビに釘付けになっていた私のところに電話がかかってきました。G氏でした。彼が、神戸に行く方法を探ろうと思っていると話しだした時、私の心は決まりました。「なんとかして行く方法、そして行く場所を探し出そう!」と一致して、お互い情報を集めることにしました。彼も私同様、いてもたってもいられなくなったのです。

 すると、彼の友人で神戸市北区に暮らすL氏のもとに、「何かできないだろうか?」という声が集まっているので、L氏が街中を駆け回り、「何ができるか」を具体的に考えてくれている、という話が入ってきました。その話が入る前は、わりと大きなNGOがボランティアを募集しているということを知り、それに参画しようかと話していたのですが、できるなら、「自分たちの手で何が必要か確認した上で」現地に入りたいと思っていた私たちは、L氏からの返事を待ちました。

 そして2日ほど経った頃でしょうか。L氏からついに、「準備OK」の連絡が入ったので、私たちは友人知人に声をかけ、震災一週間後、東京駅から新幹線に乗り、大阪へと向かいました。大阪南港から神戸港への船が出ているという情報が入っていたからです。当時の陸路は、鉄道も道路も寸断されており、また、緊急援助車両優先でした。

 緊張の中で着いた神戸の港は、至るところひび割れ、震災の傷跡を残していました。私たちは一路北へ向かって歩きました。雪が舞い落ち、底冷えのする神戸の街を歩いて目にするのは、至る所の瓦礫の山です。ほとんど人と出会わなかったのではないでしょうか。テレビ画面で目にしてはいたものの、実際に目の当たりにした瓦礫の山、崩れ落ちた家、傾いたビルや電信柱…その光景は、想像を絶するものでした。


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