さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

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 第1部 ゲームは敵ではない から
 第1章 もちろん心配でしょうー何が起こっているか知らないからです! より

《「(私の両親から)ゲームは無意味で、まったくの時間とお金と脳みその無駄遣いだと言われた」
                                        ーある14歳
 「親たちへのインタビュー調査をしたら、
          子どもたちが何をしているかを把握している親は誰もいなかった」ーある研究者

[子どもたちは、学校で学ぶよりも、よりポジティブで、将来の役に立つことをゲームから学んでいる!]

 おそらく、あなたが子どもたちのゲームについて理解すべき最も重要なことは、次のことだろう。
「子どもたちがゲームに夢中になる要因は、ゲームのなかでの暴力や建物を建てること、レース、撃ち合いなどの表面的な事象によるものではない。子どもたちがゲームにこれほどまでに長時間夢中になるのは、学んでいるからであり、彼らは将来のために重要なことを学んでいるのだ」。

 私たち大人が、みんなゴルフや釣りやさまざまな趣味のスキルを磨くために多大な時間を費やしているのと同じく、子どもたちだって無理強いせずとも楽しく学べる。実際、子どもたちの頭脳は発達を続けているので、発達の止まった私たちよりも、強制されない学習を楽しんでいることだろう。これはゲームデザイナーのラフ・コスターが言うところのゲームの持つ「楽しさ」であり、子どもたちは「強制されない学習」ができるものをいつも探しているのだ。

[子どもたちがゲームにこれほど長い時間を費やす本当の理由は、
                    21世紀を生きていくために必要なことを学べるからだ。]

 私たちが子どもたちの言うことに耳を傾け、余暇の過ごし方やスキルの磨き方を尊重すれば、彼らは再び私たちの言うことに聞く耳を持つようになってくれると私は確信している。

 私は本書で、なぜ、何を、どのようにして、子どもたちがゲームから学んでいるか、そしてそれがあなたと子どもたちにとって何を意味しているかを示す。また、どうすればゲームを使って子どもたちとよい関係を築いていけるか、子どもたちの学びを最大限に活かすことができるか、ということについても述べる。

 思い出してほしい。私たちが子どもの頃、ひどいロック音楽が子どもたちの心を破壊すると親たちは言っていたのに、私たちはそんなことはありえないとわかっていただろう。同じことを今の子どもたちも思っているのだ。》


●ゲームを「強制されない学習」として子どもたちは楽しんでいるという著者の指摘は、重要なのではないかと感じました。
 
 子どもとゲーム、パソコン、ネット、ケータイなどとの関わりは、親であれば誰でも頭を悩ますところだと思います。子どもそれぞれ性格が違いますから、それぞれの子どもに合ったかたちで家庭での‘ルール’を作っていくことがまず肝要なのでしょう。

 その際に、それらを言わば‘敵視’するのではなく、‘受け入れる’かたちで、できれば共に楽しむように持っていくことが大切なのだと、私はこの本を読んであらためて思いました。

 世の中は本当にものすごい早さで変わっていっています。子どもたちは“デジタルネイティウ゛”なのですから、“デジタル移民”の大人とは頭の構造が違ってきているということを理解することが、子どもと楽しくラクにつき合う一つのコツだと私は感じます。

 らくだを続けて数ヶ月になるシングルマザーのCさん。小2の足し算と引き算のまとめをクリアして、かけ算九九のプリントに挑戦していました。

 20歳を過ぎているCさんですが、かけ算九九がすらすらと出てこない状態です。普通に学校に行っていたら、かけ算九九は誰もが暗唱できるはずです。それがほとんどできていないのは、どういうことなのでしょうかー。これはCさんの責任とは言えないはずです。

 どんな境遇で育ったのか私は知りませんが、学校に満足に通えなかったとしか考えられません。まさか、学校に通っていて九九ができないことはないでしょうからー。

 らくだ教材の九九のプリントは、小2の最後の5枚です。全くやったことがない子どもでも、毎日1枚繰り返してやりさえすればマスターできるように作られています。要は、「毎日やる」ことができるかどうかにかかってきます。

 Cさんは、らくだを始めてからずっと、算数と国語を合わせて1日3〜4枚をやり続けて来ました。小さなお子さんとの暮らしの中で、らくだプリントを続けていくことが本当にできるのかどうかと私は思っていました。でも、それは杞憂でした。

 実は私は、茶髪と厚化粧スタイル?のCさんは続けていくことはないだろう、と心の中で思っていました。最初に体験した時の反応も、「これをやるの〜?」というような感じで、決して積極的な感じには見えなかったからです。

 しかしその予想は、ものの見事に覆されました。覆されたどころではありません。算数と国語を1日1枚ずつでいいのに、複数枚をやり続けているのですから。私にとって、本当にうれしい誤算であり、当初「続けないだろう」と思っていたことを誤りたい気持ちです。

 かけ算九九ができなかった子が、できるようになったら、きっと人生変わって来るはずです。小学校の漢字の読み方も書き取りもできなかった子が、読み書きできるようになったら、きっと世界が変わって来るはずです。

 このような方のサポートをすることができることは、何ものにも代え難い私自身の生きる糧、充足感につながっていることを感じます。月2回、Cさんからプリントが返送されてくることを、楽しみにしている私です。

 図書館で目にした『テレビゲーム教育論』(マーク・プレンスキー、東京電機大学出版局)を読み終えました。
 今の子は生まれた時からデジタル機器に囲まれて育ち、自然にそれらの操作を身につける“デジタルネイティウ゛”、私たちは大人になってから習得する“デジタル移民”、両者の間には違いがあって当然、という著者の考えをもっと知りたいと思い、読んでみることにしました。以下、本書より^

                        *

 はじめに から

《「今の子どもたちは、ADD(attention deficiency disorderー多動症候群)なんかではない。
  彼らはEOE(Engage Me or Enrage Meーつまんないと暴れるよ症候群)だ」
            ーキップ・レランド、LA統合学区ロサンゼルスバーチャルスクール(LAVA )

 本書の重要性 より

 他のことを差し置いてでも、子どもたちのゲームを認めるべきだということを、私のように本気で主張する人はいない。私たちには大人として、子どもたちが健やかで、バランスよく成長できるように導く責任がある。本書を読み終わる頃には、あなたも子どもたちのバランスの取れた成長のために、なぜゲームが不可欠なのかを理解するだろう。たとえば、ゲームをプレイすることが子どもたちの成長において、読書と同じくらいに有益だという考え方を理解できるようになる。


 本書で学べること より

 あなたが本書を読み終えるまでの時間で、私は次のことをお伝えしたいー

・ゲームの世界とはどんなものなのか
・ゲームをプレイすることで得られるポジティブな側面は、なぜネガティブな側面を上回る意味を持つのか
・ゲームの世界の広がりや深みに触れ、最近のゲームが子どもたちの学習を促す要因を理解する方法
・子どもたちがゲームをプレイして身につけている有益なスキルを理解する方法
・ゲームを軸にして子どもたちをよく理解し、よりよい関係を築いていく方法

 おそらくあなたが本書で学べる最も重要なことは、子どもたちが話したがっている話題、つまりゲームについての会話をしながら、子どもたちがより良く学ぶための手助けをする方法だろう。
 どんな立場の人であれ、子どもたちこれほどまでに夢中になっている現実を理解することで得るものは、とても大きいと私は確信している。》

 一昨日に引き続いての、内田さんのブログからの引用です。ブログとしては‘手抜き’と言われてもしょうがないのですが、昨日のものとも関連しているので、紹介しておきたいと思いました。まだ内田さんのブログをご覧になっていない方は特に、ゆっくりとご覧になってみてくださいー。

                        *

 寛也さんが来た

水曜日は鶴澤寛也さんの講演とワークショップ。
寛也さんは今年の4月のアートマネジメント副専攻のインターンシップの受け入れ先を矢内賢二さんに探してもらったときに、「渡りに船」というか「地獄で仏」というか、そういうタイミングでインターン生たちを受け容れてくださった方である。
当日、私は別の仕事があって、打ち上げの席に後から参加して、そのときはじめてお目にかかったのである。
江戸前の、まことに粋な方で、私は衝撃のあまりブログ日記に「玲瓏なる美女」と、ふだんあまり用いない形容詞を動員したほどであった。
そのときに、今度『考える人』のインタビューに出てくださいとお願いしたらご快諾いただき、『考える人』のときには、今度大学に来てワークショップしてくださいとお願いしたらご快諾いただき・・・というふうに「とんとん」と話がまとまってその日を迎えたのである。
ワークショップにはもう少し学生たちが集まってくれるとよかったのだけれど、集まってくれた諸君は寛也さんの切れ味のいいトークとダイナミックな奏楽にふかく感銘を受けていた。
キャリアデザインプログラムの一つのねらいは「キャンパスではまずお目にかかることのない職業の方」にお越しいただき、「働くこと」の拡がりと奥の深さを、その「たたずまい」を通じて感じてもらうことであった。
津田塾の数学科を出てから芸の道に入った寛也さんは学生たちにとってのつよい指南力をもったロールモデルとなりえるだろうと思う。
義太夫に限らない。「これだ」と思ったら、逡巡せずに一気に飛び込む。「これで生活できるだろうか」とか「世間体はどうであろうか」とか、そういうことは考えずに、一気に飛び込むというのがキャリア形成の基本である。
はじめから「堅実で有利な職業選択」をしようとするような賢しらがむしろピットフォールなのである。
直感を信じなきゃダメよ。
ワークショップにご協力いただきました教務課のみなさまはじめ学生院生諸君にお礼申し上げます。
寛也さんをそのあと並木屋へお連れして、ご一献差し上げる。
並木屋の大将が寛也さんを見て、お仕事は?と訊いて、女流義太夫と聴いて、深く頷いていた。私のような無粋な男がどうして粋筋の人を連れているのか理解に苦しんだせいであろう。
美女を前にして、大将の握り方もいつもよりもだいぶ気合が入っていたようである。
おかげで美味しいお寿司が食べられた。
お寿司を食べ、燗酒を酌み交わしつつ、橋本治さん、矢内賢二さんなど共通の友人知人について語り合う。
先週の大貫妙子さんのときもそうだったけれど、「ええ、あの人、知ってるの?」的発見が多い。見えざる糸によって、「ある種の人々」がある一点に引き寄せられているのかも知れない。

木曜日は福岡日帰りツァー。
福岡女学院高校で保護者と教職員、生徒諸君を相手に「ほんとうの教育とは」というお題でお話しをする。
福岡女学院高校はミッションスクールで、音楽の専攻があり、自由な校風が本学に通じるものがあって、居心地のよい学校であった。
そもそも私のような人間を呼んで、話を生徒に聴かせてしまうという決断が無謀というか剛胆である。
校長の高島一路先生(大変スマートな先生で、昔何度かお会いしたことのある戸井十月さんとあまりに似ているので、「もしかして、ご兄弟ですか」と訊きたくなるのを抑制するのに一苦労した)と教頭の水野光先生(この方が「無謀というよりは剛胆」な本企画の立案者のようである)と進路指導の藤義幸先生とご挨拶ののち教育の現状について意見交換しているうちに時間となって会場へ。
保護者のお母さんたちが多いので、ほっとする。
どういうわけか私の諧謔は女性聴衆にはわりと受けるのであるが、中高年男性は「くすり」ともしないということが多い。
会場からは「女性の笑い声」だけしか聞こえないということもよくある。
私の「おばさんキャラ」が彼女たちの共感を呼ぶのであろうか。
「おばさんキャラ」というのは、「歯に衣着せぬ」ことと「話にとりとめがない」ことである。
ゼミ生たちと話していて感じることは、彼女たちは「話に脈絡がないこと」をまったく苦にしないということである。
それよりも会話中のあるキーワードが「フック」して、そこから話が横滑りし始めるときの「逸脱感」のほうを愛するのである。
だから、「で、話をもとに戻すと」と言うと、ひそやかな落胆の色が彼女たちの眼には浮かぶのを私は見逃さぬのである。
私は根が「おばさん」なので、ひたすらおもいつき的おしゃべりを続けていたいのだが、講演では一応お題も頂いているし、保護者のお母様たちも果てしない逸脱を愛するわりには「で、今日の夜から、子どもたちにはどう接すればいいのでしょう」というきわめて短期的かつ実用的なアドバイスも同時に要求されるので、それにもお答えせねばならぬ。
教育の目的は子どもを成熟させることであり、成熟とは、「どうふるまっていいかについてのガイドラインがない状況にも対応できる能力」のことであるという「いつものお話し」をする。
それは対人関係においては「その人がなにを求めているのか」を言い当てることである。状況においては「その状況がどこからどこへ向かおうとしているのか」、文脈と趨勢を言い当てることである。
この能力を涵養するためには経験知を蓄積するだけでは足りない。
自分の経験にはおのずと限界があるからである。
他人の経験もまたおのれの経験知に取り込む必要がある。
自分の中には自生していない想念や感情、欲望や考想は「取り込む」必要がある。
「取り込む」というのは分類したり標本化したりすることではない。
それを内側から「生きる」ことである。
「感情移入」といってもいい。
物語を読むのも、他人の話を聴くのも、他人の人生を内側から生きるための好個の機会である。
「感情移入」という言い方をすると、私の「感情」だけが身体をするりと抜け出して、他人の身体に入り込み、その感情に同調する、というような風景を想像する人がいるかもしれないが、それは誤りである。
感情移入といったって、感情だけなんか取り出すことは人間にはできない。
あらゆる感情は身体経験を随伴している。
感情は眼に見えないし、手では触れられないが、身体経験の多くは眼で見えるし、手で触れることができる。
それゆえ「再演」することができる。
感情移入とはなによりもまず他人の内側で起きていることを身体的に再演することから始まる。
そこからしか始まらない。
場合によってはそこで終わる。
それでもよいと私は思っている。
書物を読むというのは理想的にはその書き手の思考や感情に同調することであるけれど、よほどの幸運に恵まれないかぎり、そんなことは起きない。
私たちにできるのは、文字を読むことと音声を聴くことだけである。
書き手の脳内に何が起きたのかを知ることはきわめて困難であるけれど、書き手がその文字を書き記していたリアルタイムにおいて書き手が「その文字」を視認し、「その音声」を聴取していたことはまちがいない。
その文字を見つめ、音を聴く限り、読み手と書き手は「同じ経験」を共有している。
「作者は何が言いたいのか?」というようなメタレベルに移行した瞬間に、「同じ経験」の場から私たちは離脱してしまう。
あらゆる感情移入はまず身体的体験の同調から始まるべきだと私は思う。
そのためには「理解する」や「解釈する」や「批判する」より先に「見る」と「聴く」にリソースを集中すべきだと私は思っている。
たいせつなのは外部からの入力を自分の脳内に回収して、分類し、整序してしまうより前に、手つかずの外部入力「そのもの」に、「生」の入力情報に、身体的に同調してみることだと思う。
そのようにして経験知をゆっくり積み増ししてゆくことが教育の基本だろうと私は思っている。
成熟するとは要するに「さまざまな価値や意味を考量できる多様なものさしを使いこなせる」ということである。
そのような「複数のものさしの使いこなし」は「単一のものさし」をあてがって万象を考量しようとする「オレ様」的態度とはついに無縁のものである。
子どもは最初一つの「ものさし」しか持っていない。
生理的に快か不快か、それだけである。
それ以外の「ものさし」はひとつずつ自作するしかない。
現実原則についてフロイトが言ったように、「短期的には生理的に不快であるが、少し長いスパンで考えると、安定的に高い快をもたらすもの」を考量できるようになると「次のものさし」が手に入る。
それを空間的・時間的に拡大してゆく。
そして、やがて「自分にとっては不快であるが、同時的に存在する多くの人々に安定的に高い快をもたらすもの」や「自分が死んだあとに未来の人々に安定的に高い快をもたらすもの」を「自分の快」に算入できるようになる。
それが「だいぶ大人になった」ということである。
教育は子どもたちの自己利益の拡大のための機会ではない。
それは子どもたちを成熟させるための機会なのである。
というような話をする(だいぶ違うけど)。
そのあと懇談会。
かなりシビアな話題が出る(引きこもりやクレーマー親などというリアルな問題)。
どの問題も対応策は「縮尺を変えて見る」ということに尽きるようである。
引きこもりやクレーマー親は「問題」であるというよりは、むしろ別の問題の「ソリューション」として選択されているのである。
彼らがそれを解決することを忌避している「別の問題」が何であるかを見つけ出さなければならない。
「ソリューション」は解決できない。
私たちが解決できるのは「問題」だけである。

 内田さんのブログには毎回学ぶこと大なのですが、今回のブログにも、親として、また、教育に携わるものとして、深く学ばされました。ぜひ多くの方に読んでもらいたいと思っています。

 と、私が言うまでもなく、内田さんのブログは毎回ものすごいヒット数で、私が紹介するまでもないことなのですが、私のブログを見に来てくださる方が必ずしも内田さんのブログを見ているわけではないでしょうから、ここでも紹介させていただきます。

 一部抜粋して私がコメントしてもしょうがないですから、ぜひじっくりご覧になっていただけければと思います。「学力格差」について、「学力低下」について、「学ぶ力」について、よ〜くわかるのではないでしょうかー。

                         *
 
 学力テストについて

07年度の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)と1964年度の全国テストを社会環境を加えて分析したところ、学力を左右する要因として離婚率・持ち家率・不登校率の3指標の比重が高まっていることが、大阪大などの研究グループの調査でわかった。
いずれも、家庭、地域、学校での人間関係の緊密さに関する指標で、研究チームは「年収などの経済的要因よりも、人間関係の『つながり格差』が学力を左右する傾向にある」と指摘。(毎日新聞、11月17日朝刊)

ひさしく「学力格差は経済格差」であると言われてきた。
金持ちの子どもは「教育投資」額が貧乏人の子どもよりも大であるので、学力が高いというのである。
この「要するにすべては金の問題だ」という薄っぺらなリアリズムに過去20年ほど私たちの教育論は振り回されてきた。
それによって、学力のない子どもたちは「自分たちは学力がないのではなく、端的に金がないのだ」というふうに考えるように仕向けられた。
その結果、学力のない子どもは「金の全能性」についての信憑を深め、「学校なんかに行ってる暇」に、「端的に」金を稼ぐ方法しかたを工夫するようになった。
きわめて合理的な推論である。
日本の子どもの学力が低下しているのは「金の全能性」イデオロギーのせいで、「学力を高める動機」よりも「金をもうける動機」の方が選択的に強化されているからである。
誰が考えても、短波放送で株式市況を聴いたり、競馬新聞を熟読したり、パチンコ屋の開店を待つ方が「金を儲ける」という最終目的のためには学校に通って因数分解やサ行変格活用を覚えるよりは即効性がある。
そういうふうに「合理的に」推論する子どもたちの学力は集中的に劣化する。
それはこれまで繰り返し指摘してきたとおりである。
「合理的に思考する子どもたち」は、勉強するに先だって「どうして勉強しなくちゃいけないの?」というラディカルな問いを立てる。
「どうして義務教育を受けなくちゃいけないの?」「数学とか古典とか勉強すると、どういう『いいこと』があるの?」
平たく言えば、「勉強すると金になるの?」と訊いてくるのである(子どもにも多少の遠慮はあるので、そこまでストレートには訊かないが)。
残念ながら、このような問いには答えるわけにはゆかない。
つねづね申し上げているように、学校教育というのは、「そこでなぜ学ばなければならないかの理由を子どもたちは知らないが、大人たちは知っている」という「知の非対称性」に基づいて構造化されているからである。
「いいから黙って勉強しろ」というのが学校教育にかかわる大人たちの基本文である。
自分がなぜ学ばなければならないのか、その理由がうっすらとはわかるが完全にはわからないという「グレーゾーン」に子どもを置くのが学校教育の目的である。
そうすると、どういうわけだか知らないけれど、子どもの学力は向上することが経験的に知られているからである。
「学力」というのは「学ぶ力」のことである。
何を知っているかではない。
知識や情報や技芸のことではない。
「学びたい」という抑えがたい欲望のことである。
「学びたい」という欲望は、自分が何のために何を学んでいるのか「すこしわかりかけているのだが、全部はわからない」ときに亢進する。
だから、学校教育は「そういう状態」に子どもを置くためにもろもろの「仕掛け」を凝らしてきたのである。
何千年か子どもを育ててきた人類学的経験から、「こういうふうにすると、子どもは成熟する確率が高い」ということがわかったので、学校における諸制度を整えたのである。
残念ながら、現在の学校制度は「成熟の装置」としての社会的機能をほとんど失ってしまった。
教育行政も保護者も、もちろん子どもたち自身も、学校にそのような機能を期待してはいない。
今学校は「換金性の高い知識や情報や技能を習得する場」というふうに単純に理解されている。
そして、「換金性の高い知識や情報や技能」よりは「金そのもの」の方がさらに「換金性が高い」(だって金だから)ということに気づいた子どもたちは(誰でも気がつくが)、「勉強よりも金儲け」を優先させるようになり、「別に金なんか欲しくないし・・・」という非活動的なタイプの子どもたちは底なしの無為のうちに沈むことになった。
そんなふうにして、日本の子どもたちの学力は急降下で劣化したわけであるけれど、それは「学校教育の意味を経済合理性で説明したことの帰結」である。
今回の統計によって、「学力格差は経済格差である」というこれまで信じられてきたテーゼの根拠が失われた。
今回の研究によれば、学力格差は「学ぶ意欲」(インセンティヴ)の格差であり、それは親族・地域・学校という場への定着度に相関する。
さまざまな「しがらみ」のネットワークの中に絡めとられているせいで、自己利益の追求ばかりでなく、同時に帰属集団の公共的な福利をも配慮しなければならない子どもたちは学力が高い。
というのは当たり前で、さまざまな集団のステイクホルダーであり、そのつどふるまい方や話し方を適切にシフトしなければならないという条件があれば、子どもは成熟せざるを得ないからである。
そして、「学ぶ力」というのは、まさに「成熟しなければならない」という内圧の同義語なのである。
「学ぶ力」は成熟への意欲と相関する。
成熟への意欲は、子どもが多様な集団において、そのつど適切な役割を演じることの必要性と相関する。

同じ新聞の別の欄は、大阪府教委が全国学力テストの市町村別平均正答率の開示を指示したことを伝えていた。
市町村別の正答率の開示は、要するに「学力による序列化」をめざすものである。
序列化し、格付けし、学力の高い地域には報償を与え、学力の低い地域には罰を与える。
そのようなシンプルで幼児的なシステムを完成させれば、子どもたちはますます幼児化し、学力はますます劣化することになる。
この理路が教育行政の当事者たちには理解できないのである(子どもだから)。


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