さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

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 第3章 プロフェッショナルということー教師の仕事 から
 2 職業的に振る舞うのがプロ より

 「事例A」としてとらえる場 から

《医師も教師もいま、同じような状況、立場に置かれていることをくり返し述べてきました。しかし、どうも教師のほうがこころの病になる人が比較的に多いようです。
 私が思うに、医師の場合は、燃え尽きてしまわないような仕事上の仕組みがあるからではないでしょうか。

 たとえば、医者はケース・カンファレンスをひじょうに頻繁にやります。
 ケース・カンファレンスとは、患者の症状や状態、患者との間に起きたことを、スタッフみんなで共有して、「そういうときには、こうすべきだったんじゃないか」「この治療をやってみたらどうだろう」と、みんなが意見を出し合い聞き合う場です。その場で、治療の方針を確認したり、患者の抱える問題について検討したりします。

 それまで私(医師)と患者という個別の閉ざされた関係だったものが、カンファレンスの場に行くと、一つの事例となり、みんながそれを客観的に見ることになります。

 最初は私も抵抗があって、「あの患者さんと私との個人的なかかわりだったのに、その会話を公開するというのは、友だちとの内緒話をほかの人に話しちゃうことみたいでいやだな」と感じたりもしました。

でも、カンファレンスがあることで、それまで100パーセント主観的に見ていたものが、「事例A」として、少し客観的に見られるようになります。ほかの医師たちの意見によって、新しい角度からとらえられるようになったり、「ちょっと先生、のめりこみすぎていませんか」と指摘されたりして、「あ、そうか」と気づくわけです。

 仕事として、プロフェッショナルとしてやっていく以上、人間対人間の関係であっても、対象化して見るということが重要です。しかし、個人だけではなかなかそういうことが難しいので、カンファレンスのような場が必要なのです。》


●「抱え込んでしまわざるをえないような構造」が教師および学校という場にあるのではないかと感じます。
 いろいろな意味で開かれた場に学校がなっていく必要があるのは間違いないでしょう。

2 学校でつけたい力1 真理・真実への信頼 から
 世の中とは違う「ゆとり」を学校に より

《時間をかけて何か一つのことを完成するとか、一つのことに到達するという体験、こういう見こみでやり続けたらそのとおりになったという満足感。役に立つかどうかということを前提にせずに、時間をかけたり間違ったりしながら一つの結果にたどりつくというよろこび。

 そういうことを何度か繰り返すなかで、「つまらないけど、面倒くさいけど大切だ」という感覚が育っていくのではないかと思います。》


3 学校でつけたい力2 想像力 から
 自己中心性と万能感の修正 より

《想像力や人に共感する力がなく、自分を別の立場に置き換えることができないのは、この自己中心性と万能感の適度な修正ということがうまくできなかったからではないかと思います。

 なぜうまくいかなかったか、その原因については極端に違う二つの要因が考えられています。
 一つは、少子化などの影響で「あなたが一番」といわれ続けて、子どもっぽい万能感をそのまま引きずって大人になってしまったということです。自分が一番なので、もうほかの人のことを考える必要が感じられないのです。

 もう一つは、逆に、自己中心性と万能感の適度な修正のためには「愛されている」とか「自分が必要とされている」という自信が必要なのに、それが与えられてこなかったということです。ほかの人が自分と同じこころをもった存在であるということは知っているけれど、自分自身が不安なために、「関係ない」「自分のことだけ考えていればいいんだ」と、他者を受け入れることを拒否している状態です。》


●上に記されている「二つの要因」は、現代の多くの子どもたちに当てはまることではないでしょうか。

 私は、「勉強」よりもずっと大事なことが上に記されていることだと思っています。「勉強」なんて強いることをせずとも、「想像力や人に共感する力」があれば、勉強なんて自分からやるようになるものではないでしょうか。

 そのような力が育まれている子どもの場合、親とのコミュニケーションが円滑にいっているということになるのでしょうから、子どもと話をした上でそれぞれの子に合った学習をすればいいだけでしょう。

 そうでない親子の場合、勉強はただ強制するものになってしまいがちですから、それはやったとしても言われたからこなしていっているだけであって、小学校高学年から中学校に入る頃には、「自己中心性と万能感」のみが一人歩きしてしまうような子どもになってしまう可能性があります。

 特に、「前思春期」と言われる小学校中高学年の時期からの子どもへの接し方が不十分なままだと、その先にはさまざまなかたちの子どもから親への「反撃」が待っていると考えた方が無難です。

 人生に荒波はつきものなので、それを乗り越えるのも醍醐味と言えなくもないでしょうが、できればそちらにエネルギーを注ぐよりも、もっと別の何かにエネルギーを注げる状況の方がいいのではないかと感じます。

 親の多忙さを理由に、子どもにとって一番大事な時期のコミュニケーションを怠ることだけはしないよう、自分自身の反省を踏まえて伝えていきたいと思うこの頃です・・・。

 第2章 学校で身につけさせたい三つの力 から
 1 学校とはどういうところか より
  
 《学習をとおして、学力をつけようとすることをとおして培われるもの、そこに学校教育のほかに代えられない価値があるのではないでしょうか。

 たとえば、教師の説明のしかた、子どもの発言への返し方、子どもどうしの発言の結びつけ方、あるいはその課題に対する教師の思いや、表情やしぐさ。学習をとおして一定の成果を出したときに教師がうなずいて認めてくれたとか、にこっとして「がんばったね」といってくれたこと。

同級生の意見が自分と同じで安心したり、逆に自分とはまったく違う発想の発言に刺激を受けたことーそういうものすべてが、子どもにとっては、知識が身についてよかったという以上に財産になり、宝物になります。

 また、実社会では努力と成果がかならずしも比例しませんが、学校では、学力をつけるという点において「がんばればできる」「努力すれば評価される」という経験をさせることができます。このような経験の積み重ねが自己肯定感を養い、未来へ希望をもつことを可能にするのではないかと思います。》


●「学力を身につける過程での経験が宝物に」ということに異論はないのですが、後半の、「がんばればできる」「努力すれば評価される」という経験に関して、あまり強調しすぎるとしたら、ちょっと違和感が私にはあります。

 現実的には、「がんばれない(ように見える)子」も、努力していても評価されない子もいるだろうと思うからです。

 ひとり一人の子どもに配慮して、それぞれの子に見合ったことができればいいですし、教師にはそうあってほしいですが、いつもそれが完璧にできるわけでもないでしょう。

 そう考えると、「それぞれの子のそのままをありのままに受け入れる」ことから始めるのが第一のように私は思うのですがー。

 学ぶなかで培ってほしいこと から

《各教科で何を学ぶか、どういう知識が必要かということは、専門家である教育学の研究者や、現場の教師の方におまかせします。
 ここで私が述べたいのは、知識を学ぶなかで何を身につけさせ、培ってほしいかということです。具体的にいえば、三つあります。

1、真理・真実の価値への信頼
2、想像力
3、自己肯定感

 これらの一つひとつは、もちろん家庭でもつけられることでしょう。しかし、学校教育でこれら三つを培っていくことに、大きな意味があると私は思っています。

 一つは、家庭の経済力や家族構成などに関係なく、これらをどの子にも身につけさせられるということです。いまは、長時間労働やダブルワークをすることで何とか生計を立てているという家庭は少なくありません。経済的に裕福な家庭では、子どもたちに習いごとをさせたり、塾に行かせたり、子どもの教育にお金も時間もかけることができます。しかし、経済的にゆとりがない家庭では、塾に行かせるどころか、なかなか子どもに目が届かない、子育てに手が回らないということが現実にあります。

 でも、学校は、家庭の状況にかかわらずに、どの子もが同じように力をつける機会を与えることができます。

 もう一つは、同じ年代の集団のなかで学ぶことそのものに意味があるということです。同じ年代の子どもたちが集まって、同じ課題を学ぶ。家庭であれば「家族だから同じ」とか「大人と子どもだから違う」となるところが、同じ年代どうしの間では共通点も差異も際立って認識されやすくなります。

そのなかで、自己というものを認識し、他者との関係のバランスを学び、多様な思考・感性があることを知っていきます。そこに学校で学ぶことの重要性があると思うのです。》


●学校教育で上記の三つを培っていってほしい…と、私も思います。
 でも現実的には、学校に通うすべての子どもに、そのようなものが身について巣立っていっているかといえば、そうではないだろうことは明らかです。

 「家庭の経済力や家族構成などに関係なく」、さらに言えば、「家庭環境・家庭状況」に関係なくそれらが身につくのが学校であってほしいですが、なかなかそうはいきません。家庭状況は学校生活と密接に結びついているのであり、家庭で落ち着くことができない子どもは、学校で「同じ年代の子どもたちが集まって、同じ課題を学ぶ」ことができたとしても、それを他の子と同じように身につけることはできないケースが多いのではないでしょうか。

 しかし、だからこそその上で、学校にいる間に何を「最低限」身につけさせたいかということを、学校現場に関わるひとり一人が認識し、それを全体で共有して実践していくことが大切だとも思います。

 「教育」というのはナマモノであって、いくらいいもの、いいシステムがあったとしても、一筋縄でいかないものであるということを、私も自分の子どもを通して学ばせてもらってきたから言えることです。

 でもだからこそその上でー何ができるかを考え続けなければいけない・・・。

 《教育学とは無縁の私が、なぜ教育について語ろうと思ったかといえば、診察室にこころの悩みを抱えて来る人たち、現実のなかでもう一歩も動けない状態に陥っている人たちを見て、「この人たちがこの場所に来るまでにいたらない段階、ここまでひどい状況に陥ったり絶望したりする前にどうにかできなかったのか」と考えることが多いからです。

 挫折したり、失敗したりしたときに、自分自身の立ち位置でないところから、その問題を見直してみる力がもう少しだけあれば、この人はこれほど困難な状況に陥らなかったのではないかーそう思えるケースがしばしばあります。

 知識はその人の考え方を広げ柔軟にします。そして、知識を学ぶ過程で養われた力は、一つの考えにとらわれない、別の視点や多様な切り口を示してくれます。その力があれば、この人たちは助かったかもしれないと思うのです。》


●私も上記の考えに全く同感です。「知識は考え方を広げ柔軟にする」というのはその通りだと思えるような体験をこれまでにしてきました。

 例えば、算数はひとつ1つのルールの積み重ねで、結果的に難しい問題ができるようになるものだと思います。算数の基礎的な力がつくということは、物事を筋道立てて考える力が身につくということですし、「たす1」はその第一歩であり、「数字の書き方」はさらにその手前の第一歩ですが、「物事にはルールがある」ということを伝える点で、とても大事な第一歩でしょう。

 この「第一歩」を踏み出せなかった人は、往々にして自分の勝手な論理で物事を進めようとし、大体それは難しく考えがちで、結果的に自分自身を苦しめることになります。

 私が子どもたちにらくだ教材をやってもらいたいのは、「柔軟な考えでその人それぞれの可能性を最大限に引き出して生きていってほしい」というその一点に尽きるかもしれません。


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