さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

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《「学力」というのは、世界と自分との距離をはかるとか、この問題が自分とどれくらい関係があるのかないのか、そんなふうに自分と社会をとらえるものさしのようなものではないかと思います。
 いま、このものさしがとても短くなってしまっているのではないでしょうか。

 役立つこと・実用的なことが重視されて、それを中心とした教育を受けてきたために、目の前のことや自分の問題だけでいっぱいいっぱいになってしまい、「現実はこうだけれど、本来はどうあるべきか」とか「自分の状況はこうだけれど、それは社会のなかでどのように位置づけられるのか」「いまはこうだけれども、十年前はどうだったか、十年後はどうなるか」といった視点をもちづらくなっているように思います。

 こういう視点をもってものごとを見られるようにするためには、基本的な知識と、その知識を得る過程で身につける思考力や論理力が必要なのです。

 よく、「二次方程式なんて、私の人生にまったく関係がなかった。だからそんなものを子どもに学ばせる必要はない」などという人がいます。ほんとうにそうでしょうか。

 たとえば、二次方程式を自分に関連づけて考えるからこそ「関係ない」と思えます。何か新しいものごとに出会ったときに、「これと私の関係は」と考えることそのものが、勉強の一つの意味ではないかと思うのです。

 学校では、ゆとり教育という名のもとに「最低限のことは教えるけど、あとは知らないよ」という考え方の教育がすすめられました。

 本来、ゆとり教育というのは、大事な概念だと思います。しかし、施行された時期が悪かったこともあり、新自由主義や構造改革へと向かう流れのなかで、このようなかたちで定着してしまったのは、ほんとうに残念なことです。

「学校では最低限のことを教えるけど、あとは知らない」というのは、いわば、自己責任型の教育です。これでは、その家庭に教育にかける経済的・時間的なゆとりがあるかどうかで、子どもの学力に差が出てしまうのも当然です。》


●「基本的な知識と、その知識を得る過程で身につける思考力や論理力」によって初めて、「ものごととの距離を測る力」をつけることができる、ということはそうなのだろうなと私も思います。

 子どもたちにはそのような力をつけていってほしいですし、そこまでの力を最終的につけることを視野に入れた学習指導を学校にはしていってほしいですし、私もしたいですが、現実的にはそこまでの入り口の段階へ行くだけでせいいっぱいというケースが多いのではないでしょうか。

 この本は、香山リカさんの他の本を検索しているとたまたま目にしたので、読んでみようと思いました。私が参加している「教育人間塾」でちょうど今「学力論」をやっているので、何らかの参考になるかとも思いました。

 香山さんは言うまでもなく精神科医であり、これまでに多くの子どもやその親たちの悩みを聞き、対応をしてきた方ですから、学校の先生や「教育評論家」の方々とはまた異なった視点から「学力」を語ってくれるのではないかとも思いましたし、もしかしたら私が考え、実践していることと近いところにあるのではないかとも感じました。

 一読した感想としては、やはり私の考える「学力」と近いところにあると思いました。
 以下、特に紹介したい部分を抜粋させていただきます。



  第1章 生きづらい社会と学力 から
  2 学力は生き抜くための武器 より

 まわりが見えなくなるとき 

《自分より苦しい人を見て、「私はまだまし」と思うということではありません。「こういうふうにすれば、体が楽になるかもしれない」「こういう方法はどうだろう」「あの人に尋ねてみよう」「あの人にも勧めてみよう」というふうに、自分だけに集中していた思いが、外に向けられていくことで、こころの凝りのようなものがほぐれていくのです。

 いまのこの社会で身動きできなくなったときにも、「私だけなぜこんなに不運なんだろう」と思いこまず、少しまわりを見てみることです。同じように、明日どうなるか不安でたまらない、という人がほかにもたくさんいることがわかってきます。

 そうすると、たしかに自分は運が悪いかもしれないけれど、ほかにもこれだけの人が同じ状況にいるということは、社会のあり方にも何か問題があるのではないか? 日本はずっとこういう社会だったのか? 世界のほかの国ではどうなのか?

ー大局を見るというと大げさかもしれませんが、視野が広がり、社会のなかで自分がどの位置にいるかという客観的な見方ができるようになります。そのなかで、利用できる制度を知ったり、相談できる機関・団体を知ったり、同じ位置にいる人と互いに協力する方法が見つかったりもするでしょう。

 絶望して、こころや体がぼろぼろになってしまう前に、「自分の状況以外のことに目を向けられる力ーそれは、この社会で生き抜いていくための武器です。
 私はその力こそ、学校で身につけさせるもの、「学力」なのではないかと思っています。》

●上に記してあるもののみが「学力」ではないでしょうが、確かに、そのような力を学校で子どもたちに身につけさせることができたら、どんなにいいだろうー。

 余市には、アフリカ人のMさんもいらしてました。余市在住の私の友人が彼女と出会い、今回のイベントにお誘いしてくれたのでした。

 私は1985年にUターンした後、北海道各地のイベントに呼ばれてタイコを叩く機会がありました。ジンベがまだまだ物珍しかった時期です。そんな折にMさんと出会いました。当時彼女は北海道中央部のT市に暮らしていたので、余市に暮らしていることを知り、びっくりしました。

 どうして余市に暮らしているのか聞いてみると、T市に暮らしていた家の周囲が農家で、季節になるとあちこちで農薬を大量に散布されていたのが影響し、彼女もお子さんも化学物質過敏症になってしまったからだと聞いて驚きました。

 あらゆる治療法や食事法を試み、住む場所を変え・・・と、大変困難な時期を過ごし、人づてに余市の海に近い場所に家を借りて過ごすことにより、ようやく症状が落ちついてきたとのことでした。でもまだ札幌などの都会に出るのは避けていると言います。札幌には排気ガスを始めとして、行く先々に症状を悪化させるような化学物質が漂っているからでしょう。

 余市も、海側の場所だからいいのだそうです。山側の畑地では、どうしても農薬を使われる場所が多いからです。それに海は、心身を癒したり、悪いものを浄化する効用があるのではないかと私もなんとなく感じます。

 Mさんは西アフリカの遊牧民族に生まれ育ったと聞きました。まだ若くして日本人と結婚して日本に暮らし、もうかれこれ20年位になるのではないでしょうか。アフリカで化学物質や農薬などにほとんど無縁の状態で育ったであろう彼女が、日本に来てこのようなことになるなんて、予想だにしないことだったでしょう・・・。

 一時期は、ほんの少しの化学物質ー例えば化粧品や消臭剤ーにも反応してしまうため、住む家にも事欠くような状態だったそうです。その家の玄関に一歩入っただけで、その家に染み着いている化学物質に体が反応し、その家に住むことができるか否かがわかるそうです。

 それで一時、アフリカに子どもを連れて帰ろうかと思ったそうです。しかし、アフリカに渡航する飛行機の中で過ごすことができません。化学物質に溢れているからです。飛行機の中で十数時間過ごすためには、酸素マスク等が必要だと医者から言われたそうです。

 そして例え酸素マスクを備えて母国アフリカに帰ったとしても、また新たな問題が起こる可能性を言われたそうです。それは、子どもさんのアレルギーに関してです。

 もしもアレルギー物質を口にして‘アナフィラキシー’のような重度の発作を起こした場合、30分以内に病院に運んで治療しなければならないようなケースがあります。それは、アフリカに住んでいたらまず無理なことだと言われたそうです。

 帰国するとそのような危険に常に怯えながら生活しなければならないことを考え、彼女は母国に帰ることを諦めたそうです。日本に暮らすのも大変な状態で、母国にも帰ることができないなんて、精神的にとても大変なことだったろうと思います。

 でも今は、縁があった余市に暮らす中で症状が徐々によくなってきているとのことで、そのうち札幌にも行けるようになると思うと言ってました。

 私は彼女と知り合いだったとはいえ、親しく話をしたことなどなかったので、今回いろいろ話すことができてとてもいい機会になりました。また、余市や近隣の町に住んでいる私の仲間たちとつながることができたのもよかったと思いました。人は最終的に、人とのつながりがあることが、生きて行く力になると思うからです。

 化学物質過敏症のことは、ドキュメンタリー番組等で見知っていましたが、身近にこのように大変な思いをした方はいませんでした。

 人にはそれぞれ‘許容量’があります。その許容量を超えた化学物質を浴びる生活を続けてしまうと、その後はほんの微量のものでも体が拒絶反応を起こしてしまうのです。そうなってしまったら大変です。今は巷にそのような化学物質が溢れていますから、誰でも気をつけるにこしたことはないでしょう。

 それにしても、都市部以外の方が危険な場合も少なくないのですから、暮らしにくい世の中になったものです。無農薬、減農薬へ時代は流れてきているとは思いますが、まだまだそのことに無理解で、自分(たち)さえよければという考えが多数をしめているのでしょうかー。

 もともと日本はその方向で‘発展’してきたのですから、個々の考え云々ではないかもしれませんね。でももう、シフトしていかないと、大変な思いをする方が増える一方のように感じます。

 5月4日は天候もよく、余市教育福祉村の小高い山の斜面には心地いい風が吹き、遠くに海を見渡せる絶景の中で寝転がり、しばし寝入ったひとときは、とても気持ちのいいものでした。

 もっとも昼寝をしに行ったわけではなく、その山の上の広場でタイコを叩き、夕方にはセンターハウスという建物の中でダンスを楽しむ時間を持ちました。

 終わってからはおいしい食べ物と仲間たちとの歓談。リラックス&リフレッシュのひとときでした。

 人に見せるでもなく、人に教えるでもなく、やりたい人は見よう見まねで踊りに入る夕方のドラム&ダンスの時間は、私たちにとって日常の延長のダンスの時間で、自分たちが楽しむためのもの。

 私は若い頃、マレーシアやタイや韓国の田舎を訪れて、「昼は農作業、夜は芸能」の生活に根付いた音楽や踊りを体験し、そのような暮らしにとても憧れました。

 その後西アフリカのタイコ・ジンベ&ダンスに出会い、それを自分の身近に体現できるツールと直感し、学び続けてきました。

 今回の余市でのひとときは、私が若い頃憧れたものに近づけたような感覚を持ちました。

 だれにも侵すことのできない幸せがある より

《向:岩田さんは、巨大な幸せを追い求めてきたけれど、手のひらサイズの幸せでいいんだということが最近わかってきた、と話しています。

辻:その岩田さんのいう、「巨大な幸せ」と「手のひらサイズの幸せ」という区別ですが、それは「ハピネス」と「ウェルビーイング」というふたつの英語の違いに近いかもしれません。どちらも幸せと訳されるんだけど、「ハピネス」はハプニングと同じで、「偶然」という意味からきている言葉です。だから、事故みたいに外から突然舞い込む、という感じ。それに対して、「ウェルビーイング」は、「よくあること」、「いい状態でいること」。どこか遠いところからやって来る「できごと」というより、自分をとりまく「状態」のことを指す言葉のようです。

向:では、ウェルビーイングとしての幸せのほうは、降って湧いてくるようなものではないんですね。
 
辻:日本語の幸せですが、もともとは「仕合わせ」と書いたようです。幸運は運だから外から来るできごとのようなものだけれど、「仕合わせ」というのは、ある種のバランスをとった状態のことを言っているような感じですよね。
向:「合わせ」というわけですからね。

辻:そう、「合わせ」は、「巡り合わせ」や「組み合わせ」の「合わせ」ですから。いろんな条件や要素がうまい具合に合わさっている。だから、ふたりで幸せというのも、あなたと私がここに集ってみたら、うまくバランスがとれた。なにかの縁で、こういう組み合わせ方で今ここにある、というイメージかな。そうとらえると、ハピネス的な感覚よりしっくりきて、「幸せ」ってなかなかいい言葉だなと最近思いだしているんです。
ところで、向谷地さんにとって「幸せ」はどういう言葉なんですか?

向:幸せというのは、将来の目標のようなものではなく、今この瞬間に、誰もが想像でき、つくりだす可能性をもったものじゃないかと思います。それこそ、さっきの川村先生の「病気で幸せ。治りませんように」という言葉があるように、病気になっても人は十分幸せでいられるし、治らないという中にも幸せがある。

私のイメージは、たとえばアウシュビッツ収容所のような地獄の中でさえ、「幸せ」をイメージしていた人がいるということです。『夜と霧』で有名なフランクルの言葉はとても重いと思います。どんな政治的な力をもってしても、どんな暴力をもってしても、人の幸せは決して破壊できない。フランクルはそんな意味のことを言っています。

ナチスの暴力の中でも、窓の外の木の葉の緑を見たときに、日常的な自然の中に、自分がとても深い人生のときを歩んでいるような気がする、と言った人がいる。葉っぱのひとしずくの中にも、幸せを感じて死んでいった人たちがいる。たとえ死んでいったとしても、そこにはだれも侵すことのできない幸せがある。そういう感覚が、フランクルの本を読んでいたとき、私の中にありました。そういう幸せというのは、決して現実の困難を観念化して、現実から逃避することではない。それがほんとうの意味での自立ではないかと私は思うんです。

辻:外からどんな力をかけても壊されない、という意味での自立。ブータンで友人に聞いた話を思いだしました。チベットの昔の思想家ミラレパが、「一番たいせつなときはいつか? 一番たいせつな人は誰か? 一番大切なことはなにか?」という3つの質問に対して、こう答えた。
「一番たいせつなときは今、一番大切な人は今ここにいる人、一番大切なことは今ここにいる人によくあること」。
ぼくらは、よく「自由」とか「平等」とか「博愛」などという大きな概念の言葉を使っていますが、「幸福」もそういう類の言葉として使われてきたと思う。だけど、ほんとうは今、ここ、自分の身の周りの小さなことの中に幸せがあるのかな、と。》


 べてるは失敗の宝庫 より

《向:引き算ということでいえば、私たちも支援やケアをするときに、どうしてもなにかをしなければ、してあげなければいけない、というようなエピソードがいっぱいおきるのですが、大事なのは「なにをしないか」なんです。》


●大事なのは「なにをしないか」、という言葉、私はよくわかる気がします。
 してあげることにより、その人が本来持っている力を引き出すことができないのは、教育でもよくあることだと思います。接する大人の側にその意識があるかどうかがとても大事だと私は思うのですがー。


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