さまざまな学びのかたち〜すくーるhana便り〜

「学力がつく」ことは「人間として生きる上での自信がつくこと」 …教育・子育てについて等意見交換しましょうねー

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

 第2部 べてるの家はスローのふるさと から
 足りない事が大事 より

《向:足りないことが大事なんですよ。そのためには、自分にはなにが足りないか、なにを求めているかを、みんなにわかりやすく言う必要がある。不思議なもので、自分の求めているものを言えるようになったときに、目の前の妄想のバリアが、サーッとカーテンが引かれるように開く。》


 べてるとビジネスー経済に人間らしさをとりもどす より

《向:辻さんもおっしゃったように、金儲けやお金はある種、汚れたものというイメージがあるかもしれません。しかし逆に、病気をした人たちには、病気をしたがゆえに、ものすごく純粋に生きようとしている部分があります。病気の人は必要以上に純粋になりたくて、自分を責めたり、現実を悲観的にとらえたりしてしまう。でも、人っていうのはそもそも純粋なものではなくて矛盾したものです。いろんな矛盾の中で生きながら、社会自体が大事なものをとりもどしていくために、みんながそれぞれ大事なポジションにいるのです。》

●胸にしみいるような向谷地さんの言葉、噛みしめていたいですー。

《向:強制徴用は、明治から終戦直後まで続いたんじゃないでしょうか。私は大学生のころ、鎖塚の発掘運動をしていた北見の高校の先生で、民間の歴史学者だった小池喜孝さんの話を聞いたことがあります。小池喜孝さんの呼びかけで、発掘のために全国から若い人たちが集まり、北海道の開拓の歴史の裏面にふれました。

私は、小池さんの話を学生時代に聞いていたものだから、終戦で解放された朝鮮人の方たちが、日高山脈を越えて、浦河も含めた温暖な日高に移住してきたことをここに来て知って驚いたんです。日高山脈の裾野に広がるアイヌコタン(集落)に受け入れられ、そこで家族をつくったという歴史がある。

昔は、浦河にも在日朝鮮人の浦河支部があったんですよ。浦河の、アイヌの人たちが多く住んでいる井寒台(いかんたい)という、札幌寄りの海沿いにある集落の中に支部があった。》

●このような歴史を私はもっともっと知りたいと思いました。北海道に住む私たちにとってとても大事な地域の歴史を、もっと知ることができるようにしたいし、子どもたちにも伝えていかないといけないのではー。昔はさまざまな理由からそれができなかったのでしょうが、今だったら可能なはずです。

 私もジンベクラスで各地を訪れていたとき、浦河や阿寒、それに釧路、旭川などで、いろいろなアイヌの方々と出会う機会がありました。札幌に住んでいるだけでは決してできない体験をしてきたのは、私にとって財産です。

 私は10年程前まで、ジンベクラスと称した西アフリカのタイコの教室を、北海道のあちこちでやっていました。一番多かった時には、小樽、帯広、釧路、浦河、旭川、滝川で月に2回くらいずつやった上、札幌では手稲区、北区、白石区、厚別区、等などいろんなところへ行ってましたから、家には寝に帰るだけのような生活でした。

 ボケた父親との介護生活が終わり、これからどのような生活をしていこうかと思っていたところで、声をかけられるまま出かけていった結果なのですがー。

 各地でいろいろな方と出会いましたが、浦河ではやはり「べてるの家」の方々との出会いがありました。何らかのイベントのときに呼ばれたりもしましたが、教室をやるために訪れた浦河で、始まるまでの時間をべてるメンバーがよく来る喫茶店で過ごすことも多く、日常生活の中で自然に出会う彼ら彼女たちとのふれあいがありました。また、メンバーだけでなく、ソーシャルワーカーの向谷地さんや精神科医の川村先生たちとも出会う機会がありましたが、いつも笑っているお二人という印象を私は持っています。

 当時、べてるの家に関連した本は2〜3冊出ていましたが、今はずいぶんたくさん出ているようです。
 たまたま、向谷地さんと「なまけものくらぶ」の辻信一さんとの対談本が図書館にあったので借りてみました。お二人のお話しは、いったいどのような方向に展開したのだろうかと興味津々で読みました。

 以下、印象に残った部分から抜粋させていただきます。

                         *

 第1部 居場所をさがして から
 自分の居場所がそこにあった より

《向谷地(以下、向)
:彼らとともに活動することによって、私自身が変わりました。まず、飾る必要がないわけです。そして彼らのいろんな挫折体験というのは、むしろそこから「家族」や「社会」や「働く」といった、いろいろなテーマが見えてくる。いかに彼ら彼女らを治療して変えるか、というより、むしろ、彼ら彼女らの経験からどう社会が変わっていくのか、ということこそがほんとうのテーマなのではないかと思ったんです。

辻:それは、長い時間をかけて得た結論ですか、それとも?
向:いえ、直観的なものです。最初の1年間で、いろんな活動を通してそう思いました。
辻:浦河のさびれ方が腑に落ちた、ということともつながってるんでしょうか?

向:そう、つながっていると思いますね。なにかこう、今まで周りから、勉強しないと後で苦労するぞとか、人の幸せや生活の安定に向けてあれこれと言われてきた中で、なにか違うのではないかという違和感。それが浦河に来てはじめて、統合失調症の人たちと出会って、「あ、これだ」と思ったんですね。それは「弱い」というキーワードで、「弱さ」をめぐって人はいろいろなジレンマを抱えたり、矛盾をきたしているのだということに、ここで出会ったと言っていいと思います。

辻:ぼくたちの生きている社会では普通、弱さというものは克服すべきものだし、見せないようにするものですね。それがここではそうではなかった、と?

向:そうですね。私はとくに中学のときに感じた日常の生きづらさと、絶望感。世界を見れば見るほど憂鬱になる感覚に対して、世界とつながっているという自負心と、人間としての深く深遠なテーマを抱え込んでいる自分に、苦しさの反面、誇りを感じていたんですけれど、そのことの意味がわかったという感じですね。

辻:弱さによってこそ、自分は世界とつながっているんだという確信。中学生のころのそういう思いが、浦河における自分の居心地のよさに通じたということでしょうか。
向:はい。》

●向谷地さんの考えはいつも斬新な発想でユニークだなぁと思っていましたが、中学生のころから一貫しているものがあったのだということを知ってなるほどと思いました。それが赴任していった浦河という町で磨かれていったんですね。

 月曜日、コロッケを作りました。
 ウチのコロッケの衣はコーンフレークを細かく砕いたもの。小麦粉、溶き卵の代わりには、米粉を豆乳と水で溶いたもの。
 それにしても時間がかかります。タマネギとひき肉を炒めて、ジャガイモの皮をむいてゆでこぼして、まとめて成形して衣をつけて揚げてー。

 火曜日、餃子を作りました。
 米粉とかたくり粉を7:3くらいの割合で混ぜて湯煎にかけ、固まり始めたらくっつかないようにクッキングペーパーではさんでひたすら練る。なめらかになったら棒状にして切って伸ばして餃子の皮にー。

 どうしてこんなに時間のかかるものを月火と連日に渡って作ったのかというと、小1の子どもの学校給食に出るものだったからです。通常給食の代替食は連れ合いが朝作りますが、このようなものは私が事前に作っておくことが多いです。

 小学校の給食メニューが火曜コロッケ、水曜餃子だったので、その前の日に作ることになりました。その合間に、特売で買ってあった豚肉のかたまりを煮豚にしたり、ホームベーカリーのパンをこねたりー。さすがに‘こねもの’が続いた日には、ぐったりでした…。

 コロッケ、餃子など、子どもが好きな一般的なメニューほど、ウチでは作るのが大変になります。でも周りのみんなが食べているものを食べられない、ということをだんだんと気にしだすようにもなってきましたし、なるべく同じようなものを食べさせてあげたいので、時間を見計らって作りました。

 それでも、「おいしいおいしい」と、夕食、翌日の朝食、そして給食と、三食に渡って食べてくれるんですから、作った甲斐があるというものです。

 餃子に関しては、子どももいっしょに生地を伸ばして皮にしましたから、なおいっそうおいしく食べてくれたのでしょう。「自分もやりたい」と言ったからやらせてみたんですが、結構うまくなるもので、そのまま使うことができるくらいまで上達しました。

 できれば連日に渡って手の込んだ料理を作ることは避けたいものですが、こればかりは給食メニューを見てみなければわかりません…。小麦粉だけでなく、卵、牛乳もダメなウチの子は、結構重度? この先、どんなメニューが待っているだろうかー。

 ちなみに、コロッケの日は前日の喘息発作が残っていたので学校を休ませたのですが、その分ウチでたくさん食べました・・・。
 

●お通夜の席で、川村先生や向谷地さんは、ランディさんのお父さまのことを大絶賛してくれたそうです。
(以下、p.204から)

《「いや。アルコール依存症の人というのは、これでもかこれでもか、と相手を試すんですよ。これだけひどいことを言っても、見捨てられない。それを確認したいがために、どんなことでもするんですよ」

「でも、いったいどうしてそんなに他人の愛情を確認したいのですか?」
「淋しいからです」
「淋しい?」

「そう。依存症の人はみんな、淋しくて淋しくてたまらないんです。自分が見捨てられてしまうんじゃないかと不安なんです。だから、家族が自分をかまってくれなくなると、頃合いを見計らって酒を飲んで騒ぎを起こし、怪我をして入院したりして関心を引くわけです」

「そういえば、そうでした。落ち着いたなと思った頃に、どかんと大酒を飲んでトラブルを巻き起こすんです。まるでいやがらせみたいに」

「そうしないと忘れられてしまうと感じるんです。だから、注意を自分に向けたいので酒を飲む」
「まったく迷惑な男ですね…。なんで、そんなに淋しいんだろう」

「なんででしょうねぇ。わかりません。でも淋しいんです」
「淋しいことを引き受けるのが大人ってもんじゃないでしょうか」

「でも、淋しいんだからしょうがないですね。もう誰も、酒を飲んで騒いでも相手にしてくれないとわかったら、諦めるんですよ。これ以上騒いでも無駄だ。そう思ったらやめるんですよ。でも、相手が我慢強くて、打たれ強いとね、これでもかこれでもか、とやるんです。お父さんも、相手がランディさんだったからやりがいがあったんでしょう」

 死んだ人は、地上から二、三メートルの高さの場所にふわふわと浮いていて自分の通夜や葬式を眺めているものだと聞いたことがある。父はこの会話をどんな思いで聞いていたのだろうか。

「でも、父はそのあと遺言を残したんです。私に最低最悪の女だ、って言ってから、おもむろにベッドの上に座り、これから遺言を残すって……」
「ほう……」

「それまで、病院にいたら殺されるって言っていたのに、その時は違いました。なんだか身体がしびれてきた。もうお迎えが近づいているらしい。頭がはっきりしているときに、おまえたちに遺言を伝えたいって。私と、夫と、そして孫娘に、それぞれに言葉を残したんです。そして、語り終えると、疲れた、以上。そう言ってベッドに横になって、その後はもうほとんど会話はできなくなりました。うつらうつらの状態で、ずっと眠っているような感じでした。最期の遺言なんて、そんなのはドラマのなかのきれい事だとばかり思っていたけれど、でも、ほんとうにあるんですね。びっくりしちゃった」

「几帳面な人だねぇ。そして、ちゃんと三が日を生きて正月明けに死んだんだね。ほんとうに、実にまっとうなアルコール依存症だな。アルコール依存症の人は真面目で几帳面だからねえ。あんまり几帳面すぎて疲れちゃって飲んじゃうんだよ」

 向谷地さんまで、いっしょになって父を絶賛する。
「そうねえ。肝臓が弱いともっと前に肝硬変とかでへたるんだけど、お父さんはたいしたもんだったねえ。肺がんからの転移だものね。あんがい自制しながら計算して飲んでいたんだろうね。いや立派だ、アル中の鑑だね」

 父は酒を飲むことで他人に避難されることは多々あった。しかし、こんなにアルコール依存症として讃えられたことはなかっただろう。さぞかしおもはゆかったと思う。父の通夜にはもってこいの弔問客であった。

●川村先生と向谷地さんのランディさんのお父さまに対する「絶賛」は、世間一般の価値観と正反対のものなので戸惑われるかもしれませんが、こういう見方もあるんだな、こういう見方をすれば楽になるんだな、と私は感じてしまいます。

 もっとも、その大変さのまっただ中にいる人にとっては、「何を言ってるんだ〜」と頭に入ってこないものなのかもしれませんが…。


.
tomoto
tomoto
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事