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「徳育如何」より
《今日自主独立の教においては、まず我が一身を独立せしめ、我が一身を重んじて、自らその身を金玉視し、もって他の関係を維持して人事の秩序を保つべし》
●年々、自分の身を重んじなくなっている子どもたちが増えていると思われますが、当時から「自らその身を金玉視(きんぎょくし)し」と述べる福澤は、やはり際立って先進的な考えを持っていた、と村山先生はおっしゃっていました。
自分自身を尊重できてこそ、他人を尊重することができる、と私も思います。
「文明教育論」より
《今日の文明は智恵の文明にして、智恵あらざれば何事もなすべからず、智恵あれば何事をもなすべし》
《もとより智徳の両者は人間欠くべからざるものにて、智恵あり道徳の心あらざる者は禽獣にひとしく、これを人非人という。また徳義のみを脩めて智恵の働あらざる者は石の地蔵にひとしく、これまた人にしてあらざる者なり。
両者のともに欠くべからざるは右の如くなりといえども、今日の文明は道徳の文明にあらず》
●村山先生は、ここの部分を、翌年「教育勅語」が出るというご時世に、勇気ある発言と言えるのではないか、とのことでした。なるほど、辛辣な文明批評と言えるのかもしれません。福澤というのは、なにごともバランスを重視するのだな、と私は感じました。
《道徳は必ず人の教によるものにあらず、あたかも人の天賦に備わりて偶然に発起するものなりといえども、智恵は然らず。人学ばざれば智なし》
●なるほど、人は学ばなければ智恵は決して備わることがないということは、学びさえすればどんどんそれは備わるとも言えるんでしょうね。
次の段落にそのことが記されていました。
《世に教育なるものの必要なるは、すなわちこのゆえにして、人学ばざれば智なきがゆえに、学校を建ててこれを教え、これを育するの趣向なり。されども一概に教育のみにては、その意味はなはだ広くして解し難く、ために大なる誤解を生ずることあり。
そもそも人生の事柄の繁多にして天地万物の多き、実に驚くべきことにて、その数幾千万なるべきや、これを知るべからず。ただその物名のみにても、ことごとくこれを知る者は世にあるべからず。然るをいわんや、その物の性質をや。ことごとくこれを教えんとするも、とても人力にかなわざる所なり》
《無限の事物を僅々数年間の課業をもって教うべきに非ず、学ぶべきに非ず。たとえ、その一部分にてもこれを教えて完全ならしめんとするときは、かえってその人の天資を傷い、活溌敢為の気象を退縮せしめて、結局世に一愚人を増すのみ。
今日の実際においてその例少なからず。されば到底この繁多なる事物を教えんとするもでき難きことなれば、果して世に学校なるものは不用なるやというに決して然らず》
●すごいですね、福澤は、「教えすぎちゃイカン!」と言っているのですよ。
「かえってその人の持ち味を損ねて元気を失わせ、愚かな一人の人間を生み出すだけだ」と言っているのですから…。「そんな例はいっぱいあるのだから、そうなったら学校もいらないよ」、とまでー。
これは今の時代あらためて考える価値が非常にあるのではないでしょうか。いわゆる「ゆとり教育」に関しても、そういった視点からも考えてもらえばよかったのになぁ、と今になって思うのは私だけでしょうか…。
いずれにしろ、福澤の「教えすぎたらダメ」という考えに、私は大いに勇気づけられます。
なにせ私がやっているのは、「生きる上で役に立つという意味での基礎基本の徹底」であり、「最低限身につけてほしいこと」しかやってませんから。
でも、その「最低限」は、「最低限」だからこそ、後にそれぞれにとっての「最大限」へ転化するものだと私は信じています。「一点突破の集中展開」っていう言葉がありますよね。それが大事だと思います。
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