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《もとより直接に事物を教えんとするもでき難きことなれども、その事にあたり物に接して狼狽せず、よく事物の理を究めてこれに処するの能力を発育することは、ずいぶんでき得べきことにて、すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。
教育の文字ははなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり。
かくの如く学校の本旨はいわゆる教育にあらずして、能力の発育にありとのことをもってこれが標準となし、かえりみて世間に行わるる教育の有様を察するときは、よくこの標準に適して教育の本旨に違わざるもの幾何(いくばく)あるや。
我が輩の所見にては我が国教育の仕組はまったくこの旨に違えりといわざるをえず》
●ここらへんが、福澤の伝えたいことだとのことですが、それは決して「学校否定」ではなく、彼の「視点」だとのことです。
今でこそ、学校に関して様々な議論がありますが、当時からこのような発言をされているというのは、私にとって驚きでした。こと教育に関しては、100年前も今も根っ子のところは同じような議論を続けているということでしょうか。
「学校は人に物を教えるところではなく、それぞれの持っている資質を最大限引き出し伸ばすための道具」だと述べているのですから、たまげてしまったのは私だけではないでしょう。
「学校のするべきことは『教育』ではなく『能力の発育』である」というのは、 education の訳語としたらその方が相応しいかもしれません。そして、「我が国の教育の仕組は自分の思うところと全然違う」と述べているのです。
当時からそう言えるのであれば、「本旨」に近づくようにこれまでの長い年月をかけて変えていってほしかったものですが、戦争を挟んだ上に「高度成長」の世の中もあり、学校を福澤の言うところの「本旨」に照らし合わせて改革してくるような機会には恵まれなかった、ということでしょうか。
だったらなおさら、福澤の考えを再確認した上で、これからの学校改革・教育改革をしていってほしいものです。もちろん私もその一翼を担いたいという気持ちは山々ですー。
「教える」ことだけに力を注ぐことなく、それぞれの持つ資質を伸ばして行く方向で接していけば、人生で難しい問題に直面しても、それに対処し乗り越えていくことができると福澤は述べているのですから、それ以上の‘余計な’ことをする必要はないはずです。
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