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【「個食」のしあわせ】
《「個食」というような特権的な食物摂取が可能であった社会はこれまで存在したことがない。そして、そのような特権がいつまで継続するのか私たちにはわからない。
だったら、とりあえずひとりでまずい飯を食うことができ、家族がたがいを不快に思っていても、それでも生存が可能な社会を「人類史上例外的な幸運」として笑顔で豊かに享受する方向に気持ちを切り替えたほうがよいであろう。
たぶんそうした方がご飯も美味しいし》
●「最近、家族いっしょに食卓を囲む家庭が減って来ているのは確かだけど、‘食事は家族でとらなければいけない’と国が先頭を切って言い出すようになったら注意した方がいい」と言うようなことを言っている方がいました。
私自身、「食卓を家族みんなで囲むのは家庭生活の基本」だと思っていますし、それがある程度できる生活スタイルでいられるのがありがたいと思っています。
でも、今の時代そうしたくてもできない家庭だってあることでしょう。それができるにこしたことはない、でもできないんだったら仕方のないことですから、それに関して周りから強制されるように言われる筋合いのことではないでしょう。
そんなことを思っていたら、内田さんの上記の言葉に出会って、「なるほど、考え方をシフトすることって大事だな」と思ったしだいです。
【食の禁忌について】
《「牧畜と屠畜と食肉」についてはご存知の通りたいへんきびしい禁忌がある。この禁忌は世界各国さまざまな意匠をまとっているが、本質的には同一のものではないかと私は考えている。
それは「生き物の肉を食う」という行為そのものがはらむ魅惑と嫌悪のアンビバレントな本質におそらくは由来する》
《Y野家の牛丼は米国産牛肉の輸入停止でメニューから消えた。
あれだけ需要のある商品でありながら国産牛肉やオージービーフで代用ができないということから、それがたいへんに低価格の材料から作られていたことは容易に想像される。この低コストの背景には歴史的に形成されてきたアメリカの巨大食肉産業の収奪構造がある。
アメリカの食肉産業は五大業者が支配している。牧畜、屠畜、食肉処理、ロジスティックから小売りまでが、完全にコントロールされているのであろうことから、このようなところでお話しするわけにはゆかない。
それに、こんな話は日本だからできるので、アメリカでは触れることの危険な話題難おである。
「肉の話」は奥が深い。
日本では屠畜は被差別部落問題と深くリンクしているので、メディアはこの問題はできるだけ回避しようとする。先年のハンナンのような食肉をめぐる組織的な犯罪が摘発されても、メディアは行政や政治家たちも巻き込んだその構造の解明には消極的である。
それはPC(ポリティカル・コネクトネス)的な立場からの政治的糾弾におびえているだけではない。
ジャーナリスト自身も気づいていない無意識的な禁忌が作用しているのではないかと私は思う。
この問題にはなるべく触れないほうがいい。
みんながなんとなくそう思っているのである。
そして、この「触れずに済むものには、触れないほうがいい」というのは小市民的な自己防衛ではなく、もっと人類史的に奥の深いものではないかと私は思うのである。
何でも白日の下にあきらかにすればよいというものではない。世の中には、そっと触れずにおいておくほうがよいものもある。
長く生きてくるとそういうことがだんだんわかってくる》
《肉と屠畜の問題は世界史の中のどこでも、濃密な政治的=宗教的幻想を帯電している。
イスラム教徒やヒンドゥー教徒をはじめとして、多くの社会集団が食肉に関するなんらかの宗教的禁忌をいまも固く保持している。明治以降、そのような食肉についての禁忌を棄てたはずの私たち日本人の場合でも、それは変わらない。
牧場でのんびり草を食べる家畜の姿に私たちは何の不快も感じない。
パックされた食肉を食べる場面にも何の不快も感じない。
だが、このどちらかといえば「愉快」な二つの風景を架橋するプロセスは私たちの視界から厳重に隔離されている》
《今のところ地上でもっとも大量の家畜を殺し、それを食しているのはアメリカ人たちである。だとすれば、彼らは人間が犯したその罪をつぐなうために、「罪深い人間」たちを探し出して殺すことに世界でもっとも熱心な人々でなければならない。
現に、私の眼には、たしかにそのように見えるのである。
私たちが「人間が動物を殺す場面」から必死で目をそらそうとするのは、おそらくその経験が、「その罪を相殺したければ人間を殺して食わねばならぬ」という受け容れがたい結論に私たちを導くからである》
●「肉」に関する一連の話、「禁忌」と言われればなおさら知りたくなるものですがー。
前回紹介した、「西へ向かって、自然を破壊せよ」も私にとって衝撃的でしたが、この文章もそれと同じくらい私にはインパクトがありました。まだまだ知らないことはいっぱいあるし、知らないことを知るというのは「快楽」があります。「知らないことを知りたい」というのは、人間が本質的に持っているものの一つなのでしょう。
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