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《お金を使うときに、使うところを見せない。どうもそれが貨幣の扱いについての成人の条件だったようである。その点で、お金の話はセックスの話に近いように思う。どちらも「大人」しかアクセスすることが許されない。どちらもその手際のよい扱い方に習熟しなければならないのだが、扱っているところを他人には見せてはならない。子どもにはそんな技術はない。だから、お金と異性は子どもには触れさせない、というのが近代前期までの常識であったように思う。
それがどこかで常識ではなくなった。。
それは「成熟」ということに人々があまり思い意味を与えなくなった時期と一致している。そのときに、セックスとか金から子どもを防疫的に隔離していた人類学的な障壁も消失した。
不浄というのは、別にそれで病気になるとか、そういうことではない。
子どもの時に金/セックスに触れてしまった子どもは、おそらく成熟を妨げられる。その子どもたちを成熟にいざなう「推力」の減殺をして「エネルギーの枯渇」すなわち「ケガレ(気枯れ)」とみなしたのではないか。
というのは、「成熟する」というのは「金やセックスに触れてもよい人間になること」をはるかな達成目標に掲げてさまざまなイニシエーションの条件を一つ一つクリアーしてゆくことだからである。
子どもなのに金やセックスにアクセスできるということになると、子どもは成熟のモチベーションそのものを損なわれる。だから、子どもを対象とする性行為も、子どもを主体とする性行為も、どちらもきびしい人類学的禁忌が課せられている。
セックスについては、子どものアクセス禁止はまだ(部分的には解除されつつあるが)有効である。だが、金との接触に対する禁忌はもはやほとんど無効になった。
子どもがお金に触れること、子どもがお金の話をすることに顔色を変えて叱責するような親はもういない。それは言い方を換えれば、とりあえずお金については「成熟なんかしなくてもいい」ということについての社会的合意が成立したからである。成熟なんかしなくてもお金を使うことはできる。「お金の使い方を知っている」ということは成人要件からは外されたのである。
むかしはお金の扱い方を覚えるまでには、長い修業が必要であった。少なくとも「長い修業が必要である」ということについての社会的合意が存在した。
今はそうではない。小学生に金融商品のシステムを教え、中学生にお年玉での株の売買を勧める親がいる。
けれども、子どもがお金を扱えるほどに成熟しているという判断にも、子どもでも扱えるほどにお金は衛生的なものになったのだという判断にも、私は与しない。子どもは依然として子どものままであるし、お金の持つ(子どもの成熟を損なうという意味での)不浄性も変わらない。
変わったのは、「人々が幼児的であればあるほどそのことから多くの利益を得られる」と思っている人間の頭数である。子どもが成熟することよりもむしろ未熟のままでいることからより多くの利益を得られると信じている人間の数がどこかで限界を超えたということである。
だが、子どもたちが「穢れる」ことで社会に利益をもたらすということは、人類学的にはありえない。「穢れた」子どもたち、成熟のための推力を失った子どもたちはやがて私たちの社会の「もっとも弱い環」となり、私たちの社会はそこから壊れてゆくことになるだろう。
けれども、それは当の子どもたちの罪ではない。彼らを成熟させることより、目先の利益を選んだ人々の罪である》
●とってもとっても大事なことを言っている、そう感じる文章です。
「そうか、そうだったんだ」と私は納得させられました。「子どもが成熟することよりもむしろ未熟のままでいることからより多くの利益を得られると信じている人間の数がどこかで限界を超えた」、ということは、なりふり構わずの金もうけ主義が跋扈した結果と考えれば、今の世の中を覆っているさまざまな事象の説明がつきそうです。
「子どもにとっての禁忌」を改めて考え直す親が増えていってほしい、でももう減っていく一方なのだろうー。昔から言い伝えられてきたことには、やはり「人間にとって大切な何か」が詰まっているものなのだろうに。
「目先の利益」によりそれらが失われていっている今の世の中、どう対処していったらいいものなのかー。大きく考えると目がくらみそうです。やはり小さなところ、自分の身の回りから変えていくことからしか始まらない・・・。
私は、「子ども時代を子どもとしてしっかり過ごす」ことが、その後の人生の幸せにつながるーと、信じています。今は、「子ども時代」がどんどん短くなってしまっています。せめて自分の子どもたちには、子ども時代をしっかり保障してあげたい…ですが、親がそうしたいと考えても、周り(マスコミや電子機器の発達も含めて)が放っておかない、そんな難しい、そして哀しい時代になってしまっています。
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