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《キャッチボールはひとりではできない。私が投げる球を受け取った相手のグローブの発する「ぱしっ」という小気味良い音と、相手が投げる球を捕球したときの手のひらの満足げな痺れのうちに、私たちは自分がそのつど相手の存在を要請し、同時に相手によって存在することを要請されていることを知る。
あなたなしでは私はこのゲームを続けることができない。キャッチボールをしている二人は際限なくそのようなメッセージをやりとりしているのである。このとき、ボールとともに行き来しているのは、「I cannot live without you」という言葉なのである。
これが根源的な意味での「贈与」である。
私たちはそのようにして他者の存在を祝福し、同時に自分の存在の保証者に出会う。
「私はここにいてもよいのだ。なぜなら、私の存在を必要としている人が現に目の前にいるからである」という論理形式で交換は人間の人間的尊厳を基礎づける。交換の本義はそのような相互的な「存在の根拠づけ」に存するのであり、交換される商品や財貨といった「コンテンツ」には副次的な意味しかない。
ひとりでできることを二人がかりでやる。それによって「あなたなしでは私はこのことを完遂できない」というメッセージを相互に贈り合うこと。それがもっとも純粋な交換のかたちである。
I cannot live without you
これは私たちが発することのできるもっとも純度の高い愛の言葉である。
私はこの you の数をどれだけ増やすことができるか、それが共同的に生きる人間の社会的成熟の指標であると思っている。
幼児にとってこの you はとりあえず母親ひとりである。子どもがだんだん成熟するに従って、you の数は増えてゆく。
たぶん、ほとんどの人は逆に考えていると思うけれど、「その人がいなくては生きてゆけない人間」の数の多さこそが「成熟」の指標なのである。
どうして「その人なしでは生きてゆけない人」が増えることが生存確率を向上させるのか、むしろ話は逆ではないのかと疑問に思われる向きもおられるであろう。「誰にも頼らなくても、ひとりで生きてゆける」能力の開発の方が生き延びる確率を高めるのではないか。経済合理性を信じる人ならそのように考えるだろう。
だが、それは短見である。
「あなたがいなければ生きてゆけない」という言葉は「私」の無能や欠乏についての事実人知的言明ではない。そうではなくて、「だからこそ、あなたにはこれからもずっと元気でいて欲しい」という、「あなた」の健康と幸福を願う予祝の言葉なのである。
自分のまわりにその健康と幸福を願わずにいられない多くの人々を有している人は、そうでない人よりも健康と幸福に恵まれる可能性が高い。それは、「キャッチボールの例から知れるように)祝福とは本質的に相互的なものだからである。
自分の懐で安らいでいる赤ちゃんの訴えるようなまなざしのうちに「あなたがいなければ私は生きてゆけない」というメッセージを読む母親は、必ずそれに「私もまた、あなたなしでは生きてゆくことができない」というメッセージで応じることになる。というのは、“あるメッセージを正しく受信したことを相手に伝える最良の方法は同じメッセージを送り返すことだからである”。
私が現に「その人」がいないと直接生活に支障をきたすような多くの人に取り囲まれて生きている。
その数はどうやら年々増えているようである。
だが、私はそれを少しも「困ったこと」だとは思っていない。その理路は上記の如くである。
●自分の心にあって、でも、自分ではなかなか言葉にできないでいたようなことを表現してくれたーこのような文章に出会うのが、読書の一番の醍醐味ではないかと感じるこの頃です。
“「その人がいなくては生きてゆけない人間」の数の多さこそが「成熟」の指標なのである”ーここまで言い切った人が他にいただろうか?座右に置いておきたいような言葉です。
以上、『ひとりでは生きられないのも芸のうち』を読んでー終わり
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