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○以下、『学問のすゝめ』本文から抜粋しますー
《私に在っては智なり、官に在っては愚なり。これを散ずれば明なり、これを集むれば暗なり。政府は衆智者の集まる所にして一愚人の事を行うものと言うべし。
豈(あに)怪しまざるを得んや。畢竟その然る由縁は、かの気風(卑屈不信)なるものに制せられて人々自ら一個の働きを逞しうすること能わざるに由って致すところならん乎》
●「ひとり一人みれば智恵があるのに、“官”の中にいると愚かなことをする」というのは、まさに今に通じることでしょう。ということは、今も昔も変わらず進歩がない、ということかー。
《故にいわく、世の文明を進むるにはただ政府の力のみに依頼すべからざるなり》
●これが先に述べたことですね。
《右所論をもって考えうれば、方今我国の文明を進むるには、先ずかの人心に浸潤したる気風を一掃せざるべからず。これを一掃するの法、政府の命をもってし難し、私の説諭をもってし難し、必ずしも人に先だって私に事をなし、もって人民の由るべき標的を示す者なかるべからず。》
●何事も、「自ら見本を示しなさい、汗を流しなさい」と福澤は言っているのですから、私も共感するところです。
《日本はただ政府ありて未だ国民あらずと言うも可なり》
●まったく今に通じることですね。
《そもそも事をなすに、これを論すに若かず、これを論すは我よりその実の例を示すに若かず。
然り而して政府はただ命ずるの権あるのみ、これを論して実の例を示すは私の事なれば、我輩先ず私立の地位を占め、或いは学術を講じ、或いは商売に従事し、或いは法律を議し、或いは書を著し、或いは新聞紙を出版する等、凡そ国民たるの分限に越えざる事は忌諱を憚らずしてこれを行い、固く法を守って正しく事を処し、或いは政令信ならずして曲を被ることあらば、我地位を屈せずしてこれを論じ、あたかも政府の頂門に一釘(針)を加え、旧弊を除きて民権を恢復せんこと、方今至急の要務なるべし。
固(もと)より私立の事業は多端、且つこれを行う人にも各々所長あるものなれば、僅かに数拝の学者にて悉皆その事をなすべきに非ざれども、我目的とするところは事を行うの巧みなるを示すに在らず、ただ天下の人に私立の方向を知らしめんとするのみ。
百回の説諭を費やすは一回の実例を示すに若かず。今我より私立の実例を示し、人間の事業は独り政府の任にあらず、学者は学者にて私に事を行うべし、町人は町人にて私に事をなすべし、政府も日本の政府なり、人民も日本の人民なり、政府は恐るべからず近づくべし、疑うべからず親しむべしとの趣を知らしめば、人民漸く向かうところ明らかにし、上下固有の気風も次第に消滅して、始めて真の日本国民を生じ、政府の玩具たらずして政府の刺衝となり、学術以下三者も自ずからその所有に帰して、国民の力と政府の力と互いに相平均し、もって全国の独立を維持すべきなり》
●村山先生は、福澤の言う「私立の事業」の重要さを繰り返し述べられました。
私は、「多数派でいるより少数でも自分の信ずる道を進むこと」の大切さを伝えられているように受け取り、勝手に勇気づけられています。
また先生ご自身、大学時代の教え子たちにそのようなことを説いてきたからなのかどうか、「教育大のゼミでありながら、先生になるよりも民間へ進む者が多かった」ことに、複雑な思いを抱いておられるようでした。が、その反面、ご自分の思いが伝わってうれしいという気持ちもあるように私は見受けられました。
《事をなすは有力なる政府に依るの便利に若かずと。答いわく、文明を進むるは独り政府の力のみに依頼すべからず、その弁論既に本文に明らかなり。且つ政府にて事をなすは既に数年の実験あれども未だその奏功を見ず、或いは私の事(民間)も果してその功を期し難しといえども、議論上において明らかに見込みあればこれを試みざるべからず。未だ試みずして先ずその成否を疑う者は、これを勇者と言うべからず》
●自分の信ずることあれば、とにかくやってみることなしに始まらない!と、福澤は説いているのだと受け止めました。
何事もそうですね、思い至ったら実行あるのみです。
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