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《【〈生〉を全うする手段】より
この世には、音楽にかかわらないものはなにもない。
生きるということは、時々刻々のすべてが音楽であって、自分の〈生〉の履歴は余さず音楽として感じることができるのではないか。世界はおしなべて音楽なのではないか。
なにをおおげさな、と思われるだろうか。だが、脳科学を研究しながら〈私〉について考え続ける私にとって、音楽の本質をつきつめればつきつめるほど、あらゆる自分の行為を音楽として実感し始めているのは、まぎれもない事実なのである。目の前の事象を音楽として感受する姿勢は、ますます自分の中で徹したものになりつつある。
なぜこのような態度を持つに至ったかと問われれば、次のように答えるしかない。「意味」の領域がはらむ不健康な側面から自分を解き放ち、人生を全うする手段として、音楽を選んだのだと。
音楽は意味から自由であり、生命運動に近い。だから、私の音楽に対する関心は一貫して生命哲学と密接につながっている。おそらく、ニーチェが音楽に興味を持っていたのも、そういう理由からではないか。
哲学者ニーチェは「音楽なしで〈生〉をとらえることはできない」と語った。彼は、「歌と箴言(しんげん)」と題した次のような詩を残している。
初めに拍子、終わりに脚韻、
全部を通して音楽の魂、
かくして成りし この世ならぬ声音をば
人は名づけて歌とよぶ。いっそ手短かに言うなれば、
歌とはすなわち「音楽としての言葉。」
箴言は新しき領分をもつ、
嘲笑したり、浮かれ歩いたり、跳ねたりがお手のもの、
ただし歌うことはゆめ叶わず、されば
箴言(ジンシュプルフ)とはすなわち「歌なき精神(ジン)。」
われ 諸君にこの二つながら捧ぐること許さるるを得んか?》
●「この世には、音楽にかかわらないものはなにもない」「音楽は意味から自由であり、生命運動に近い」
…茂木さんは、「意味」から離れたところのものの大事さを、もっと多くの人に知ってほしい、感じてほしい、と思っておられるようですね。私もそんな気がしています。
今の子どもたちは、何かと言うと「意味わかんな〜い」と言って深く考えようとせず、「逃げ」ますね。本当に嫌な風潮だと私は思っています。でも子どもたちのこのような反応は、今を象徴しているのかもしれません。「思考停止」の世の中です。
私の教室で使っているらくだ教材は、「意味がわからなくてもできる」ように作られています。子どもたちが勉強から逃げる手段の一つに、「意味分からないからできない」「学校で習っていないからできない」がありますが、私の教室ではどちらも通用しません。「意味がわからなくても」「学校で習ってなくても(習ってないからこそ)」できる教材ですから。
だから、子どもたちは自分と向き合うことになります。「逃げ」られませんから。そこで、いろんな反応が出てくるわけですが、そこを乗り越えることこそ、一番重視している私です。
「音楽」と離れてしまいました。でもそんなようなことにも、「音楽」が底流で脈打っているように思います。
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