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【「ゆとり教育」はエリート主義ではない】
《ゆとり教育は勉強をしなくてもいい教育ではない。
個々人がやりたいことを実現できるように、最低限のカリキュラムだけを決め、
そこから先は各々選択するという教育である》
《教育は文化の思想に立った営みである。
文化は、公平ではなく、公正でなくてはならない。文化で公平なんてあり得ない。
たとえば、森下洋子さんと初心者のバレリーナと公平に扱うなどとんでもない。
能力の高い人とそうでない人を公平に扱うことなどできるわけがない。
教育は文化なのだから、みんな同じにできるわけがない。
教育も公平ではなく、公正でなければいけない》
●「教育は文化なのだから、みんな同じにできるわけがない」という言葉に、
なるほどなと思いました。
公平と公正の違い。みなそれぞれ違うのだから、
みなそれぞれ同じようにできるわけがないし、できなくて当たり前。
それぞれの人が、「自分はどう生きるか」考えればいいだけのこと。
そう考えることのできる土壌を作ってあげることが大切なのではー。
【学校秀才がリサイクルされることの弊害】
《学校秀才がいちばん多いのが教師だ。
これまでの私の経験からだが、「なぜ教師になったのか」と尋ねると、
10人中7〜8人くらいが「小学校(あるいは中学校)で素晴らしい先生にめぐりあって、
その先生に憧れた」と言う。
彼らは幸せだと思った。小学校のときに理想の人を見つけた。
その理想の人のことを一生理想と思い続けつつ、自分もその人の域に達している。
こんな幸福な人生はないだろう。
ただ、言葉は悪いかもしれないが、
「その程度の人」に憧れて教師になっているとも言える。
つまり目標が低い。
かつ、それを本人は自覚していないということが往々にして多いのには、びっくりする。
小学生から見たら小学校の先生は高い目標である。
ただし、人間は成長するに従い、
世の中にはもっとすごい別の能力を持つ人がいることに気づくだろう。
ところが、それに気づかないで教師になってしまうと、
世の中にもっとすごい人がいることが、わからなくなってしまうのではないか。
このようにして、多くの教師は再生産される。
もちろん、そういう教師ばかりではなかろうが、教師に学校秀才が多いのは事実である。
しかし、学校では優等生だが、社会に出ていないので、社会で通用するかどうかわからない。
勉強ができた優等生が教師になり、そういう人に憧れた子供が教師になる。
教師自身は、それで喜んでいるから構わない。
しかし弊害は、それ以外の生き方をする人を尊重しにくいということだ。
教師やそれに類する仕事以外への選択可能性を自ら閉じているのである。
だから子供の選択の幅を知らないうちに狭めている。
たとえば、高校に行かずに板前になるという子供がいたとき、
多くの教師はその意思を尊重できない。
「あなたの家は、そんなに困っているのか」という発想しかない。
格差社会によって選択の幅が狭められることについて批判するのであれば、
教師の価値観の乏しさが子供の選択肢を狭めていることにもメスが入るべきだ。
また、生涯学習を心がけ自己を向上させようとする者は、
少なくとも現在の自分以上のものになることを目指して努力する。
教師の場合、今の自分に満足してしまっている例が多いのではないだろうか。
新しく提唱されたゆとり教育に積極的に取り組むことは、自身を向上させるのにもつながる。
それなのに、たいへんだからやりたくない、と平気で言う。
仕事量が増えるといって不満を鳴らす。
そんな考えで、人生が淋しくないのだろうか》
●現在の教師の方々にとっては辛辣な言葉なのでしょうがー
寺脇さんのこのような視点に少々驚きましたが、じっくり読んで納得できました。
そういえば、日垣隆さんも同じようなことを言っていました。
もちろん一概には言えないでしょう。
でも、「このような傾向があるのではないか」ということは、
教師の方も甘んじて受け止めていただいた上で、
対応策を考えていってくださることが必要なのではないでしょうか。
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