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【オーストラリア人との同居】
1986年末東京に出て行った当初私は友人のアパートに居候し、その後自分のアパートを借りましたが、それからまた日本人の友人とルームシェアリングする機会を得ました。その後その日本人の友人が司法試験の勉強に集中したいと実家に帰ることになったので、新たにルームメイトを探さなければいけなくなりました。
そこでどうせなら外国人と住みたいと思い、『ひらがなタイムス』という外国人のための情報誌に「ルームメイト募集」の知らせを載せると、オーストラリア人が連絡をしてきました。これは英語の勉強にもなるしいいと思い、彼といっしょに暮らしましたが・・・ソリが合わず?ろくにコミュニケーションも取らないまま3ヶ月で彼は出て行き、また新たなルームメイト探しをしなければならなくなりました。
【韓国留学生との同居】
私は、「次に一緒に住むなら、ぜひ韓国の人と!」と考えました。英語圏の次はアジア圏ーとなんとなく思ったのだと思いますが。当時私は東京で仲間を募って「あじあくらぶ」という地域サークルを主宰していたこともあり、また、まだまだ「距離は近いが心は遠い」と言われていた韓国の人と親しくなって、本音の交流をしてみたいという気持ちがありました。
また、日本の一般社会や体制とは一線を画した考え方をしていた父親から影響を受けたのか?、私は若い頃、「朝鮮・韓国の人に出会ったら、戦時中の日本の行いをまずは謝らなければいけない。親しくなって、日本人にもこんな考えの人間がいるんだと知ってもらいたい」とも思っていました。
そして、韓国のことをもっと知りたいと思い、当時あまり上映されていなかった韓国の映画の上映会などがあると足しげく通い、韓国映画のおもしろさにはまり込んでいた時期があります。
今でこそ韓国映画はおもしろい、スゴイ、という認識が得られるようになっていますが、当時はごく一部でしか上映されていませんでした。いくつかの映画には、とても感動して大きな影響を受けたことを覚えています。今タイトルを思い出すのはー『コレサニヤン(鯨とり)』「暗闇の子どもたち』、だったでしょうか。
「鯨とり」といっても、鯨を捕るドキュメンタリー映画ではなく、楽しくまたほろ苦く泣かせる青春映画だったと記憶しています。「暗闇の子どもたち』は、それこそ韓国社会の闇の部分を描き出していました。こんな表現をして大丈夫なの?と驚かされるような映画がいっぱいありました。
おもしろかったのは、「どの映画にも出てくる」と言っていいくらいの俳優がいました。アン・ソンギです。彼がいないと韓国映画は成り立たなかった時代と言えるのではないでしょうか。今でも名優としてよく出て来ますし、確か日本の小栗監督の映画でも主役を演じていた記憶があります。私もず〜っと大ファンです。
それに加えて、当時韓国に何度も留学し、韓国通としてよく知られる存在だった戸田郁子さんを友人から紹介してもらい、彼女の発行する『ウッチャ通信』をよく読んでいたということも、こうして書いていて思い出しました。
そんな、「韓国人のルームメイトが欲しい」という気持ちが通じたのか、「あじあくらぶ」を通して知り合った人が、一人の韓国人留学生を私に紹介してくれました。パク君です。
彼は日本の居酒屋でアルバイトをしながら日本語を学んでおり、高麗大学という韓国では名高い大学に在籍していた若者でした。
彼もルームメイトを探していたのですが、それは、「居酒屋と日本語学校の往復の生活では日本語を身につけるのは難しい、やっぱり一番いいのは日本人と暮らすこと」だと思うようになったからだということでした。
【そして“チング(親友)”となる】
彼とはウマが合いました。オーストラリア人との一件がありましたから、なぜこれほどまでに違うのか、驚く程でした。彼の性格は穏やかで芯が強い。そして根が優しい。私は、ペ・ヨンジュンが日本で人気が出てきた頃に、「やっぱりなあ」と思いました。ペ・ヨンジュンに共通する韓国人の典型が彼にもあったのでしょう(もちろんペ・ヨンジュンの本当の性格などわかりませんが)。
まあぺさんは置いといて、アジア人と欧米諸国の違いというのはあったと思います。アジア人だと「言わなくてもわかる」という部分、共通する何かがあるのは間違いないと感じます。もちろん人によるでしょうがー。
当時の韓国の若者は、大なり小なり学生運動をやっていたものですが、彼もその例にもれず、しかも当時集会などでよく歌われた歌をギターの弾き語りで歌ってくれました。お腹に響くいい声で、また気持ちが通じるいい歌がいっぱいありました。
そこで私は、彼の歌を多く聞いてもらいたいと思い、あじあくらぶで会をすることにしたのですー。
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