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この旅行で彼は、一つの望みを私に伝えてくれていました。それは、「アイヌの方と出会いたい」ということでした。彼は、韓国朝鮮人が日本に侵略されてきたのと同様、アイヌの方々も和人に侵略されてきた歴史を学んでいたからでしょう、北海道へ行くならアイヌの方と会って話がしたいという希望を持っていました。
私は当時北海道から離れて長かったので、どこに行けばアイヌの方の話を聞くことができるのかはよくわからなかったのですが、「日高の二風谷には萱野茂さんのアイヌ民族資料館がある」ということを聞いていましたから、とにかくそこに行こうと思っていました。でも、二風谷に行くにはどうしたらいいのかもわからないでいました。
すると、それを聞いた私の父親がわざわざ車で連れて行ってくれると言いました。二風谷をよく知っていたものだと思いましたが、ありがたくお願いし、三人で向かいました。
久しぶりに父親の運転する車に乗ったわけですが、今思うと冷や汗ものでした。ハンドルにしがみつくように運転する姿はこれまでと違っており、迷って遠回りしたりおかしな感じだったからです。その後認知症をいろいろ勉強した私は、「あれは認知症の初期行動に合致する」とわかったのでした…。
それはともかく、二風谷へ到着したのはよかったのですが、肝心の資料館は冬期閉館中でした。それではあまりに残念だと思い、資料館の近くの萱野さんのお宅を訪ねてみました。すると、突然の訪問にも関わらず、奥様が館を開けてくださることになり、私たちは入館させていただくことができたのです。
しばらく館内を見て回っていると、私の父親が、「オイ、萱野さんが来ているぞ」と教えてくれました。入り口の事務所をのぞいてみると、あの萱野茂さんがいらっしゃるではありませんか。そして私たちと目が合った萱野さんはすぐ、「冷えるべさ、こっちへ入ってあったまって行きなさい(言葉は正確でないと思いますが、あの独特の暖かみのある言い回しで…)」とおっしゃってくれたので、私たちは事務所へ入れていただきました。
そしてパク君が韓国からの留学生だと知ると、萱野さんはいろいろなことを話してくださり、「これからは韓国の人と日本人が手を取り合っていくことはとても大事なことだし、いっしょにここを訪れてくれてうれしい」ともおっしゃってくださいました。
私たちは萱野さんに直接お会いして話を伺えるなんて思っていなかったので、感動しながら話を聞いていました。しかし私の父親は、いつのまにかその場を離れ、外に出て行ってしまいました。
せっかくの話をいっしょに聞けばいいのにーと思っていたところ、萱野さんが私の父親の仕事は何だったのかと聞かれたので、「内地から北海道に来てずっと営林署員でした」と伝えたところ、「営林署は私たちにとって、いいことは何もしてくれないところだった」と話し、「オヤジさんもそれを知っていたのでいたたまれなくなったのかもしれない」というようなことを話してくれました。
そのときまでよく知らなかったのですが、営林署というのは要するに、原生林をどんどん伐採し、北海道の自然を破壊するだけでなく、それに伴ってアイヌの方々に昔からの伝統的な暮らしをできないようにさせていった、いわば日本という国の手先のようなものだったわけです。
もっとも、末端の署員(国家公務員)は生活のために与えられた仕事をするだけであり、実際私の父親も、戦後の混乱期に仕事もなかったので、群馬県の営林署に勤めていた兄の口利きで、遠く離れた厳寒の地・北海道に一人やってきたのですー。
萱野さんとのこの出会いも、私の忘れられない思い出となり、パク君との帰省旅行は何ものにも代えられない貴重なものとなりました。
【パク君帰国、そして就職ー日本と関わりを持ち続ける仕事】
パク君との濃密な同居生活?は、僅か半年で終わりを告げました。彼が大学へ戻って卒業し、そして就職するためです。彼は日本と取引の多くある企業に就職する道を選び、その後韓国の女性と結婚して再来日し、日本での暮らしを1〜2年続けました。今では韓国で幸せな家庭を築いています。
先に記したように、私は彼の結婚式に出席するため、父親を伴って韓国を訪れました。結婚式は同じフロアーで同時に5〜6組行われ、日本とは異なり始終賑やかで、誰でも出入りできるようなオープンなものだったことを覚えています。
あれから十数年が経ち、当時考えられなかったくらい韓国が身近な国になっているのですから、隔世の感があります。今度彼に会えるのはいつになるだろうか、会ったらどんな会話になるだろうかー。
以上、「私の交流史…朝鮮・韓国の人たちとの出会い」ーおわり
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