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○竹内整一さんとの対話より 【つきつめないあいまいさ】
《田口:世の中には優秀で、効率を追求させれば天下一品みたいな人たちがいるんだと思う。そういう人たちにはどんどんそれをやっていただいていいんだけれども、それをすべての人に対するモデルケースにするのはやめたいんです。
エリートと呼ばれる知識階級の人たちは、自分たちが使う言葉で自分たちの優位性を強調するだろうけれど、世界はもっと多様ですから。
別の言葉を使って物事を語る人たちの集団があるんです。なにが優れていて、なにが劣っているかなんて比べることはできません。働くということについていろいろな定義の仕方をする集団がもっとあればいいと思う。
モデルケースのようにして、べてるの家のような組織がたくさん出てくればいいという発想をする人がいるんだけれども、私はそうは思わない。あそこは重度の統合失調症の人たちの施設であって、そうじゃない人たちがあれをやったって、やっぱりストレスが溜まるのですよ。
やり方は自分たちがそれぞれ作ればいいことであって、大切なのはそれが自分たちで作れると信じることだと思う》
●「べてるの家」は、北海道浦河町にある精神障害のある方たちが集う場です。とはいっても、全国的に有名になってきてからは、必ずしも障害のある方たちばかりが集っているわけではないようです。
私は広く知られるようになる少し前頃まで、浦河町をよく訪れていたので、必然的にべてるの家の方々と出会うことが多々ありました。また、いわゆる一般町民の方々のべてるの家に対する声なども聞く機会がありました。
今べてるはどうなって、土地の方々はどう思っているのだろうか、と思ったりします。
べてるをモデルにした施設などを作るような話を聞くこともありますが、その場その場に適した形で試行錯誤しながらのものを作り上げるということなら、いいのではないかと感じています。
「自分たちで作れると信じること」、これができればどこにいようが関係ないですね、きっと。
《田口:人は生きている間は死を体験できない。絶対に。このリアリティがたぶんないんです。
竹内:それも近代が死を隠蔽してきたということの問題だよね。具体的な生身の死を見ないようにしてきたということです。
前に学生にアンケートしたんですが、彼らは、おじいちゃん・おばあちゃんの死をふくめて、さらには動物の死体なんかにもあまりふれてない。核家族とか衛生観念とかということもあるんだろうけど、死というものに具体的な手触りを感じていない。
養老孟司さんが面白いことを言っていたんですが、「死にたい、死にたい」という青年が首吊りをして失敗して落ちたときに、ああ苦しかった、死ぬかと思った、と。
だが当たり前のことだが、その苦しくてグッと息がつまっていくのが死なんで、「死にたい、死にたい」の「死」はまったく死ではないんだ、とー。ネットの集団死には、そんなことを感じます。いまの状態をリセットしたいだけ。肉体で死ぬことではない。
田口:今その話を聞いて、私はすごく変なことを考えちゃいました。「死にたい、死にたい」は死じゃないんだとすると、「死にたい、死にたい」っていうのはポエムなんだ。だから死と詩は同じんだと》
●ウチの子どもたちもまだ「死」に出会っていないでしょうね。いずれまずは祖父母の死に出会うことにはなるのでしょうが、それはもしかしたら成人してからになるかもしれません(まだまだ健在ですから)。
そんな意味でも、お盆くらいは私の父親の遺影を居間に降ろして手を合わせる機会を作る方がいいかな、と最近思うようになりました。
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