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《田口:作らない親が多くなっているみたいね。うちの近所の高校の近くのコンビニで、子どもたちが朝、カップヌードルを食べているんですよ。ペタンと座って、カップヌードルを食べて、残った汁を他人のマンションに流して、タラッタラッて歩いている姿を見ると、うわあだるそうだなあと思う。
玄田:ニートというと贅沢な親が甘やかすから悪いというイメージがある。でも事態は逆で、経済的に余裕がない、親は子どものことにかまっていられない、朝ごはんも作れない、学校の先生が子どものことで親と連絡を取りたくても取れない、取れたとしても「子どものことは子どもに任せています」というような家庭からニートが生まれる傾向は強くなった。もちろん、そういう苦しい家庭の子がもれなく人と人の身近なつながりがあったけれど、いまは経済的に苦しい家庭ほど孤立している状況が進んでる。
田口:わかります。老人福祉とか幼児虐待の問題をここ二年ぐらい取材しているけど、貧富の差がすごい勢いで日本のなかに広がっていることを実感する。
(中略)
社会への不満は社会へ向かわず、とても身近で個人的な問題に向かうんです。社会はとても遠い。自分の投げた石は絶対に国会まで届かないという諦めがある。いま、そういう層をどんどん作っているんです。不全感とねたみ。これはまだこのまま加速するので、かなり鬱屈したタイプ、わりと高学歴の、それでもってあまり頭のよくない、たいへん手におえない層を作っちゃうだろうなという感じがある》
●「社会への不満は社会へ向かわずー」というのは、先の秋葉原の事件そのものですね。「不全感とねたみ」か・・・。
【人間関係が痛い】
《田口:だけど、この私の一生懸命さをもってしても、最近の摂食障害の子たちのひたむきなまでの人間関係に対する過敏さは痛々しいです。ほんとうに緊張した人間関係のなかでびくびくしながら気をつかって生きてきたのかなと思う。これは、それを体験していないとわからないと思う。子どもは家族が平安でいてほしいと全身全霊で願っているから。
玄田:90年代から変わったなと思ったのは、モテるのがそんな過敏な要素をどこかで持っている人たちになった。こういうことを言ったら傷つくだろうなとか、こういうことを言わない方がいいなという繊細な子でないと、人気者になれない。
田口:いまってそうなんですか。
玄田:そう。人づきあいも、絶対に出しゃばらない、かといって引きすぎない。でもそんなことをつねにどこかで意識していたら、しんどいし、どこか痛々しい。全然違うようで、モテる条件とニートの条件って実は一緒》
「安心した状態にいてはじめて、落ち着いて自分と向き合える」
【「癒し」より「安心」】
《田口:「安心」ですよね、やっぱり。「癒し」なんてない。まず人は安心した状態に置いてあげないと。どんな病人も子どもも痴呆老人も、すべて安心した状態を作ってあげてから次のステップに進む。安心した状態にいてはじめて、落ち着いて自分と向き合える。それだけですよね。ここでは危害を加えられない、ここでは私になにかを強く要請しない、無理になにかをさせられない。肉体レベルでも精神レベルでも安心した状態が一ヶ月続けば、人はそこから勝手によくなっていく。
ただ、その安心を提供できないんですよ。これがむずかしい。家庭だって子どもが安心していれば勝手に育っていくし、学校だって子どもが安心していれば好き勝手に生きていくんですけれども。
玄田:スピードが早くて。大人が落ち着いていないと子どもは安心しない。
田口:この子たちが、こころ穏やかで安心していられる環境を自分たちが作っているか、というフィードバックを常にしていることが、介護者、教育者にたたき込まれないといけない。それが仕事化していくと、すべてが変わると思います》
●自分は安心した環境を作れているだろうか、と問わざるを得ませんね。
仕事ーらくだの教室ーに関しては、それを第一に考えているので、それなりにできているかなと思いますが、家庭というのはむずかしい。
基本はど〜んと構えていようと思っていますが、子どもたちの行動を見ていれば、言いたくなることは山ほど出てきます。
どこまで言って、どこまで見て(観察して)いるか、そのバランスをいつも考えます。「子どもがやることはおもしろがって見ていれば大丈夫」と言う方がいます。その考えに共鳴はするのですが、現実的にどうなんだろうーとも思います。「おもしろがって見ている」ことを基本に据えて、伝えるべきことは伝える、というスタンスがいいのかな。
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