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内田樹さんは、私に常に本質を提示してくれる、そんな存在です。
内田さんの文章は、私の知らない言葉が飛び交いますし、「むずかしい」文章かもしれません。だから私は必死でついていこうとしています。思うに、本質を語るには、その人の語彙を駆使して語り尽くすわけですから、誰でも「わかりやすく」はならないのかもしれません。読み手側に、それを読み取る力が必要とされるくらいの文章でないと、本質を語ることはできないのかもしれません。
内田さんのブログには、多くの人に知ってもらいたい、紹介したい文章が山ほどありますから、毎回紹介していられません(?)し、読みたい方は直接ブログを見ていただければいいのですが、今回は特に紹介したいと思う文章ですので、以下に抜粋させていただきます。
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http://blog.tatsuru.com/ より
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「学び」というのは、「学ぶことの有用性や意味があらかじめわかったので、学び始める」というようなかたちでは始まらない。
それは商品購入のスキームである。
「学び」というのは、「その有用性や意味がわからないもの」(私たちの世界はそのようなもので埋め尽くされている)の中から、「私にとっていずれ死活的に有用で有意なものになることが予感せらるるもの」を過たず選択する能力なしには起動しない。
「学び」を可能にするのは、この「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。
この力がなければ、子どもたちは「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能」だけを選択することになる。
そして、「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能だけ」では私たちは困難を生き延びてゆくことができない(それが「子ども」という言葉の定義である)。
私たちの社会が組織的に破壊してきたのは、子どもたちの中に芽生えようとしているこの「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。
マイケル・ポランニーはこれを「暗黙知」と呼んだ。
(中略)
私たちの知的操作・身体操作のほとんどは「暗黙知」によって「したごしら」されている。
意味や有用性(「これを学ぶと高額の年収が得られる」というような)によって子どもの学習を動機づけるということは、「暗黙知」の発動を止めることである。
初等・中等教育課程の相当部分は「暗黙知」開発のためのプログラムであるべきだと私は思っている。
そこで「今は何の役に立つのかわからないけれど、いつか自分の命を救うことになりそうなもの」を探り当てる感覚を練磨するのである。
それが「学び」の前段ということである。
これが整っていない子どもは「今学んでいることの有用性」(それは「それがもたらす年収の増額分」としてのみ把握されている)についての確信が揺るいだ瞬間に、自動的に学ぶことを止める。
私たちは過去30年にわたって、子供たちをそのように訓練してきたのである。
「あらゆる教育プログラムの効果はエヴィデンス・ベーストで示されねばならぬ、数値的にその効果が示せないような教育プログラムは無価値である」という妄想に日本の教育行政の当事者たちも教育評論家も教育ビジネスマンも取り憑かれている。
これは「病気」を通り越して、ほとんど「狂気」と呼ばねばならないと私は思っている。
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(引用おわり)
まさに、「学びの本質」が語られている文章ではないでしょうか。
「意味がわからないままにすることの大切さ」は、私は平井雷太さんから学びました。その結果生まれたのが「らくだメソッド」であり、言わば平井さんが伝えたいことが凝縮された教材とシステムと言えます。
「教えられなくてもできる」ように作られているからこそ、「やったことのないことに挑戦する力」が育まれます。目先の「学力」や「教育的効果」より、「困難を生き延びてゆく力」をひとり一人の子どもに身につけさせたい、そのような思いで作られた教材とシステムを私は他に知りません。
らくだは算数・数学教材が中心です。「困難を生き延びてゆく力」を育むものは、世の中にたくさんあることでしょう。例えば、武道、例えば、音楽、また本来の学問の世界は基本的にそういうものかもしれません。
算数・数学は、今の世の中を生きる者にとって、誰でも通らなければいけない道と言えるでしょう。どうせ通る道であるなら、単に一般にいう「学力」をつけるだけではなくて、その先にあるもっと大きな力を身につけられるものである方がいいでしょう。
そうじゃないと、《「今学んでいることの有用性」についての確信が揺るいだ瞬間に、自動的に学ぶことを止める》のですから。日本では多くの人が、「大学に入った瞬間に」、あるいは「大学を出た瞬間に」、学ぶことをやめてしまっています。
もっとも、そこまでわかってもらった上でらくだ教材をやってもらわなくてもいいのです。単に「学力アップ」を望んでのことでもいいのです。今の社会では、親御さんたちが目先の学力にとらわれてしまうのも、ある意味しょうがないではないことです。世に出される情報は、そのような「不安を煽る」ものばかりです。
らくだを続けていれば、結果的につく「学力」は、他と比べものにならないくらいのものになります。逆に言うと、そのくらいのものでなければ、親誤さんはこの教材を子どもにやらせたいとは思ってくれなくて当然です。
例え親御さんが、「その先にあるもっと大きな力」のことまで見据えていなくても、結果的に子どもたちにそのような力がつくのであれば、それでいいわけです。そのような子どもたちが、この世の中をいい方向に変えていってくれる、そのように信じて私は日々対応しています。
例え小さな力でも、積み重ねたら大きな力になる、そう信じています。
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