|
『街場の教育論』(内田樹、ミシマ社)を読んでー19
【「いじめ」の集団力学】より
《小さな子どもたちを放っておくと、必ずいつのまにか近づいて、同じ遊具を、相手の身体に触れて遊び始めますけれど、それは集団の形成が自我の拡大をもたらすからです。
子どもたちに「個性的であれ」と教えるのは、その後の仕事だろうと私は思います。もちろん子どもを個性的に育てることはたいせつです。けれども、その前にしなければならない仕事があると思います。それは他者と一つの共ー身体を分かち合うという経験です。
共ー身体の形成によって、自分が「大きなネットワークの中の一つの結節点」であるという感覚を子どもは学びます。「個性」が出現するのはその後です。ネットワークの中で自分があるふるまいをすると、ネットワークの運動や機能が変化する。自分の投じた一石がネットワークを動かす。その経験を積み上げることによって、子どもたちは集団のメカニズムを理解するようになる。誤解されやすい比喩ですけれど、「組織の歯車」になることによってはじめて「組織を動かす」歯車装置の成り立ちがわかる。
しかし、今の教育現場では、子どもたちに「集団の形成」の術を学ぶと同時に(あるいはそれより早く)「個性の発現」が課せられている。本来ならば、まず同学齢の仲間たちと集団を形成して、彼らと呼吸を合わせ、感覚を共有して、ひとつの共生態を作り出すことに専念すべきときに、「集団を作るな。他人にうかつに共感するな。個別化せよ。自分のタグをつけろ。自分の受け取るべき報酬を他人と分かち合うな」というグローバル資本主義の「人事ルール」が幼い子どもにまで浴びせかけられている。
子どもたちだって、そんなことを言われたら、どうしていいかわからない。際立って有微な個体であれば、「いじめ」の対象になる。際立って無個性的な個体であれば、やはり「いじめ」の対象になる。このダブル・バインド的状況を生き延びるために、子どもたちはそれなりの生存戦略を見いださなければならない。
先ほど言ったような、「相互模倣をしない仕方を相互模倣する身体運用」とか「コンテンツを共有してピッチを変える話法」といった徴候的なふるまいは、この抜け道のない状況の中で選択されたある種の「ソリューション」だと私は思います。そして、これが諏訪さんが言われた、80年代からの「生徒たちのすることの意味がまったくわからなくなった」という状況の底にある構造ではないかと私は思います。
だから、問題は「いじめ」そのものをどうこうするということではない。教室全体、学校全体に、広く社会全体に「準ーいじめ状況」が瀰漫している。あと一滴試薬を入れると、飽和して結晶ができるように、子どもたちの集団にわずかでも適応不足であっても、わずかでも適応過剰であっても、その子は「いじめ」の標的になる可能性がある。潜在的には全員が全員にとっての「獲物」であり、かつ「捕食者」であるという信じられないほどにストレスフルな状況が今の教育現場を浸食している。そういうことだと思います。
そういうふうな大枠の構造に同意していただければ、このあと現場がどう取り組むべきかということも、だいたい見通しが立つのではないかと思います。今、学校が果たすべき最優先の仕事は、子どもたちが共同的に生きるための術を体得するより先に、「原子化、砂粒化、個別化せよ」という圧力をかけているグローバル資本主義の介入に対する「防波堤」となることです。》
【グローバル資本主義と原子化】より
《初等中等教育が荒れだしたのは、まさに「自分らしさ」イデオロギーが官民挙げてのキャンペーンの中で展開しはじめたときと同期しています(思えば、それは中曽根内閣が全国民に「1000ドル外貨を使って商品を変え」と獅子吼したとき、臨教審が現在の「教育改革」のグランドデザインを完成させたとき、バブル経済の始まったときでした)。これを「シンクロニシティ」と言わずしてなんと言えばよいのでしょうか。
改めて私たちの直面している問題を定式化すると、もう一度さきほど述べたことを繰り返すことになりますが、それは「グローバル資本主義が私たちに要請する生き方をどうやって学校の外へ押し戻すか」ということに集約されるだろうと思います。
でも、どうやって学校を「俗情」に対する防波堤として構築するのか。それについてはこのあとまだ時間をかけて考えなければ済まなそうです。》
●グローバル資本主義の介入に対する「防波堤」となることーそうですよね、学校くらい、そういったものとは一線を画したものとなっていてほしかった。上からの圧力はどんどんそっちの方向へ行っているのですから、現場の教師が個として立ち向かうしかないのか? いや、それはあまりに大変なことです。さてどうすれば…。
|